畑に塩を蒔く者は愚か者である Ⅱ
炉の熱気と鍋を振るう男達の酸っぱい汗、加えて様々な食物の臭いが入り混じり籠る厨房は、春の麗らかさとは程遠かった。罵声と喧騒が飛び交う一画。少年は通気と採光のために穿たれた隙間の向こうを見やりながら、大きな口に冷めても芳ばしい麺麭を詰め込む。
硝子も木の板も、隔てるものなど何もない空は数刻前には淡い青を湛えていたのに、アリムが給仕と運搬に追い立ててられている合間に朱と紫に染められていた。瞬く一番星は、どの天にあるのだろう。
唯一神の御前に控える天使が支配する天空の数は、書物や伝承によって七つとも九つともされているが、その役割は変わらない。星々はそれぞれの固有の領域に張り付いていて、定められた縄張りから人々の運命を見守り支配するのだ。
――いつか世界が終わる時に……。
まろやかな頬を撫でる涼風は幻想でしかありえないが、懐かしかった。まだ十分に噛み砕かれていない糧を、少年が喉に詰まらせるほどに。生ぬるい水で蟠りを押し流しても、久方ぶりの食事への欲求と歯の根の疼きは止まらない。
柔らかな生地に鋭い犬歯が食い込み、引きちぎられる様は獲物の肉を貪る野の獣の捕食風景にも似ていた。粗野だが力強い、生命を取り込む喜びを発散させた原始の行い。
極めて淡い、ほとんど白に近い灰黄の生え際から噴き出した珠が密な睫毛に絡まる。新旧様々な、植物の棘による擦過傷が奔る手の甲でくっきりと大きな目を擦りながらも、少年は新たな食物を求め続けた。
「あんた、相変わらずよく食べるねえ」
どことなく憶えのある呆れ顔が、青い柘榴の紋に彩られた白磁を差し出す。将来の逞しさを感じさせる、引き締まった腕が伸びた。太い指の合間に入り込む
たとえ冷めきった食べ残しだとしても、目の前にあるのは世襲貴族の贅と料理人の手間と趣向が凝らされた品々だ。塩害と旱魃に喘ぐ貧村の、風が吹けば倒れそうなあばら家で供された料理とは、使用される材料はともかく、味そのものは似ても似つかない。
なのに、丁度よい厚みのある血色の良い唇をべたつかせる肉汁を舐め取っても、アリムの胸の奥に空いた穴は塞がらず、郷愁と侘しさによって広げられるばかり。汚れた手を拭うべく、布巾代わりに掴んだ
――あいつは今頃……。
かつて一度だけ合間見えた子供の、怯えの潤みから怒りの焔に移り変わった青い瞳のぎらつきが射しこむ。彼は今頃、父と共に耕しても耕しても貧相でしなびた麦を実らせるばかりの畠から我が家へと返っていることだろう。もしかしたら、母のしわがれた手が捏ねた麺麭や肉団子に舌鼓を打ちながら、家族の団欒に華を添えているのかもしれない。そして、そこにアリムが坐すことを赦される場所はないのだった。
薄い目蓋を下ろすと暗闇の最中で舞い散る薄紅の花の一片の色合いは雪にも通じる。もはや辿ろうにも辿れぬ神話上の祖が齧った果実はどんな味がしたのだろう。姉が首を吊った林檎は穢れた樹として切り倒されてしまったから、細い手がもいだ実の甘酸っぱさはもう二度と味わえない。だが、固い肉に己が歯を突きたて食い破る暗澹とした恍惚は――幼い舌が上下の歯列に挟まれる。
少年は鉄錆の臭気が入り混じる唾液ごと、人肌同然に冷めきった
骨太だが少年のものでしかありえない体躯に相応しからぬ食欲を発揮するアリムの周りには、いつの間にか無精髭を汗で煌めかせるむさくるしい輩が集まっていた。
「いいぞ、坊主!」
毛むくじゃらの腕が、鉄格子の中に閉じ込められた猛獣にそうするように俊敏に、やはり賞味された痕跡が窺えぬ
「もっと食え! あのいけ好かないエラムレ人に負けるな!」
抑圧される民の細やかな反逆は、徐々に権力者たる高官を打ち負かしつつあるらしい。一方的に開始した根競べが始まった当初は空となって帰ってきていた料理は、太陽が沈んだ現在では宴席に上げられたそのままの姿で、長い労苦からしばし解放されたアリムの夕食に回されたのだろう。いかにも機嫌良さげに、耳慣れぬ旋律を紡ぐ男達が片付ける皿や籠はゆうに十を超えている。あの高官が酒をも嗜んでいたことを考慮すれば、存外長く保った方だろう。
淡白な川魚を一口で平らげたアリムに遅れたのは感嘆の吐息と塩漬けの魚卵が乗った山羊乳の乾酪だった。舌先で押せば弾けてとろりと飛び出る塩湖の香りと山岳で育まれた乳の甘さは絶妙に調和していた。黄金の脂が滴る鶏と李のソースの相性は、少年をしばし楽園に誘った。アリムにとっての神の楽園とは、乳と蜜と葡萄酒の河が緑滴る果樹が生える園ではなかった。貧困に苛まれながら育った少年にとっては、単純に何らの労苦も強いられず、欲するだけ食物が与えられる場こそが神の心に適った者たちの幸福な住まいであった。
ある女と知り合ってからは、少年にとっての至福の条件もまた変容しつつあるが。もしも、トゥミネとずっと一緒にいられたら。アリムは母の苔桃茶も大好きな葡萄の飴も手放して、彼女を選ぶ。
息を詰まらせる至福と黄昏が蘇る。濃淡も色合いも様々な頭に遮られ、遙かなる蒼穹を仰ぎ見ることは叶わない。
「――やったわ!」
これまた覚えのある高音が密集する男達の間に割り込み、放たれる男臭さを和らげる。兎や若鹿のように飛び跳ねる娘の長い三つ編みが、華奢な背を叩いていた。嫋やかだが罅割れと皸が目立つ指が、アリムの口から七面鳥の脚を奪い、代わりに
「あの高官、“気分が悪い”なんて呟いてとうとう席から下がったのよ! ざまあみろ、だわ!」
圧制の柵に囲まれ、搾取という鞭で打たれる羊たちの鬱屈が晴れるのは泡沫に等しい間だけ。沈んだ太陽が再び登る、細部はともかく大筋では変わりない日常が始まる頃には、喜びなど水泡よりも儚く消え失せてしまっているだろう。
ねっとりと舌に絡む蜂蜜の風味を歯列でこそぎ落とす少年は、目線の変わらぬ娘の目元に一粒の雫を見出した。
「ほんとは、毒でも盛ってあの女の人をあの助平男から助けられたら良かったけどね」
潮が引くように去った歓喜を、津波のごとくうねる静寂が押し流す。厨房でひしめく誰もが想定しながら、我が身や家族、あるいは属する民族の命運を慮って踏み出せなかった道は茨と首が落とされた先駆者の躯で足の踏み場もない。
地獄の悪路の先に待つのは、更なる苦痛か安楽か。未来を把握するのは全知全能なる唯一神のみで。
「私、こっそり少しだけ話したけど、あの人、“父さんと母さんのところに戻りたい”って泣いてたわ。“店の前に捨てられてた自分を拾って育ててくれた両親は、あたしが結婚する日を楽しみにしてくれてたのに”って。……皇帝なんていなくなればいいのよ! 国中から女を集めて宮殿に閉じ込めるなんて、カハクーフじゃあるまいし、ありえない。神が御赦しにならないわ」
自分と名も知らぬ娘を重ねてか、肩を震わせて憤る娘を抱き寄せたのは、彼女の恋人だった。
「そりゃひでえ」
娘の抜きんでた容貌も手伝ってか、彼女に降りかかった不運を哀れむ声は止まらない。
「今からでも、何か……逃げる手伝いぐらいしてやれないもんかねえ」
「その娘は市場で菓子を売ってた。ということは、家もその辺りにあるんだろ? なんとか親元に返してやりてえよなあ」
「そして夜の間に荷物を纏めてムツタシから出て、ほとぼりが冷めるまでどっかの田舎に引っ込んでりゃ、案外いけるんじゃないか?」
「そうだ。ヤツに怪我をさせたり死なせたりしなけりゃ、たかが女一人のことぐらいすぐに忘れるだろ」
むさくるしいが善良な髭面の男達は、本来の彼らの責務を放りだして哀れな贄の救出のために知恵を練る。虐げられた同胞のためには命すらも惜しまぬ愚かだが勇敢な彼らエテルヴェリ人の輪に、千には足りぬが五百を遙かに超える歴史や信仰を共有しつつも、所詮は異民族でしかないアリムは入ることができなかった。
羊の群れから弾かれた豹の幼子は孤独を噛みしめ、密談の賑わいに背を向ける。残照すらも射さぬ、藍色の夜の帳が降りた空には猫の爪のようにか細い月が懸かっていた。未だ続く宴からも渦巻く義憤からも遠い回廊は庭に面していて、長く伸びる木々の影と響く靴音が不気味だった。
立ち尽くして銀の円盤を仰ぐ自分の物では決してない足音は、途切れることなくアリムに迫る。
「お久しぶりですね。アリム・ヤぺライデ」
ヤペルの息子アリム。姓のない農民であるアリムの名を敬意を込めた尊称を付けて呼んだ女の、感情を乗せぬ面は蒼ざめた月光に照らされて、そこはかとない柔らかさを醸し出している。
「あなたは、」
「わたくしの名をあなたが知る必要はありませんが、訊ねられれば答えるのが礼儀でしょうね」
「はあ」
「わたくしはメジュイェ、というのですよ。若奥様のメゼア様と少しですが名が似ていて紛らわしいのですが」
鼻の頭をあどけなく彩る雀斑といい凛とした目元といい、彼女の面差しにはあの銀髪の美しい娘とどことなく通じるものがあった。ひょっとすると、魂の通わぬ彫像めいた中年の女も、二十数年前は多くの若者から恋慕の情を捧げられるに値する美貌の娘だったのではないか、と勘ぐってしまうほどに。
痛みを堪えるかのように細められた双眸は、純粋なエテルヴェリ人にはありえぬ深い琥珀色を宿していて、少年の眼裏に思慕を捧げる女の像を結ばせた。トゥミネの灰がかった榛とも通ずる、西方の特徴の断片を有する女と知り合うのはこれで三度目だ。あの憐れな娘の瞳は、光に透かした蜜が垂らされた甘やかな翠――
「……ありがとうございます」
「これしきのことでは礼には及びませんが。……あなた、一つ頼まれごとを引き受けてはいただけませんか?」
女がちらと微笑むと、若かりし頃の華やぎの残滓が際立った。少年の裡に巣食っていた、彼女への反感を抑える、洗練された微笑は悲しげですらあって。
「この水差しと胃薬を、離れのあの女の部屋まで届けてください。わたくしは、どうしても成さなければならぬ用事ができましたので」
拒絶することも、労苦を重ねた乾いた手を叩くこともできたはずなのに、できなかった。半ば強引に押し付けられた重みを持て余す少年は、暗がりに吸い込まれる女の行く末を確かめることなく、冷たい光を浴びる庭園の湿った土を踏みしめた。
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