畑に塩を蒔く者は愚か者である Ⅰ
腹の底で怪物が呻いている。この飼いならせぬ猛獣は食糧と休息を寄こせと半刻前から喚いているが、生憎アリムには彼の欲望を――育ち盛りの食欲を満たすに足る暇も余裕もなかった。
「もう少し辛抱しろ。そうすりゃメシにありつけるから」
威勢の良すぎる轟音に苦笑した親方が、縺れた毛先から絡まった葉を払いのける。アリムの両手は塞がっているから、ありがたかった。
「こんだけ御馳走があっても食べれねえってのは、お前ぐらいの年の子供にはキツイだろうけどよ」
無精髭に覆われた男の顔面の皮膚は、赤茶の壺の口から屋敷の主の名も知らぬ縁戚の一人が持つ酒杯に注がれる葡萄酒の芳醇な香気に中てられ、いささかだらしなく緩んでいた。彼も彼で、アリムとは趣を異にする欲望との戦いに苦しんでいるらしい。
「お貴族様ってのはいいもんだよなあ。俺たち平民には一生かかっても飲み食いできねえようなメシを、飽きるぐらいたらふく食えるんだから」
口笛は香辛料と酒気が入り混じり澱んだ空気を切り裂いたが、たちまち轟く太い声にかき消された。アリムや親方と同じだが、布地の質からして相容れない民族衣装に身を包んだ老若男女が奏でる言祝ぎに。彼らの満足に奉仕する者たちから発せられる喧騒に。
少年の引き締まった腕が支える黒い釉薬が艶やかな大皿の上では、
よく親しんだ顔とどことなく見覚えのある顔がひしめき合う宴会場では、やはり使用人として屋敷で奉公する親方の娘たちが普段よりも華やかな衣服を纏い客人の酒杯を満たしていた。
赤ら顔の若い男――彼は確か、主の姉だか従姉だかの孫息子だったはずだ――が娘の手を掴み、無遠慮に腰を撫でる。酔いの回った男をあしらうイリセの顔は微笑んでいても強張り引き攣っていた。こちらに向けられた大きな瞳は、父に助けを求めて潤んでいた。もちろん彼女とて、父には娘の純潔を案じて握り締める拳はあっても、不埒な男にめり込ませる拳と無謀は備えていないことを知悉しているだろうが。
「あの野郎。てめえが貴族じゃなかったらぶん殴ってやるのによ」
親方は先ほどまでとは全く違う赤を面に登らせている。アリムは足早に――だが決して足音を立てぬように、今にも泣き出しそうに震える娘の下に駆け寄った。
「これ、どうぞ。出来立てですから、美味しいですよ」
若い貴族は唐突に乱入してきたアリムの存在に興を削がれたらしい。不満げに鼻を鳴らしながらも熱い一品に胡椒を掛けてかぶりついた。溢れた肉汁は男の舌や唇を苛めたようで、くぐもった短い呻きが漏れた。いい気味だった。
「ありがとう」
「別に、僕は、」
「“当然のことをしたまでです”なんて言うつもり? それはそれでかっこいいし頼もしいけど、子供は素直に褒められてなさい。そうすれば後でこっそりくすねたお菓子をあげるから」
アリムともほとんど目線の変わらない小柄な娘の呆れと微笑ましさが同居する苦笑は、彼女の父のものによく似ていた。
「お父さんはほんとは男の子も欲しかったけど、結局は私たち娘二人にしか恵まれなかった。だから、お父さんはあなたのことを息子みたいに思ってるのよ」
「は、はあ」
「あなたがお父さんや私たちのことをどう思ってるかは知らないし詮索もしないけど、これだけは言わせてちょうだい」
もしも年嵩の女中に押し付けられた空いた皿や陶器の壺に両の腕を縛められていなければ、イリセはアリムの頬を両手で包んでいたかもしれない。彼女の眼差しは、しばし少年の歩みを止めさせるに十分な気迫と憂慮に満ちていた。
「花瓶に挿した花が一日や二日でくたびれるなんておかしいわ」
あからさまにアリムとトゥミネの関係を指し示す忠告だった。アリムがトゥミネに捧げる花は、種や特色の差異を問わず、三日と保たずに色褪せてしまう。深く気に留めていなかった不思議を掘り下げる娘の口ぶりは穏やかでありながら険しかった。少年に反論の隙を与えぬほどに。
――今はまだ分からなくてもいいけど、いつか暇ができたらよく考えてみて。
細い背で踊る三つ編みを見送る少年を、娘は振り返ろうとはしなかった。彼女は宴の場と出口に控えていた青年に荷物の半分を渡し、彼と微笑み合って歩み出した。アリムは、普段は厩で馬の背を梳り藁の寝床を整えているその青年に覚えがあった。彼が頻繁に、親方の長女について尋ねて来ていたから。つまりはそういうことだ。
承諾さえ得られれば早ければ数か月後にも、互いに似合いの伴侶として祝言を挙げるやもしれぬ恋人たちの微笑ましい姿は何故だか少年の胸を軋ませた。彼らにあって自分とトゥミネにはない様々なものが齎す苦痛は耐えがたい。さっと踵を返し、手負いの獣めいた足取りで進んだ先には、もはや親方の影はなかった。
「アリム」
しかし、結い上げ花を飾った烏羽色の髪の解けた一房もそのままに、所在なさげに佇む着飾った女がいた。
白粉と頬紅が叩かれた面に広がる泡沫の微笑は、彼女に触れることすらためらわせる儚い風情を与えている。
「こんなところでどうしたんですか?」
「ちょっと、耐えられなくて……」
嫋やかな、草花の汁で淡紅に彩られた爪の先には、豪奢な衣服に袖を通した一団の中にあってもとりわけ目を引く――紛れもない異質な人影と、彼らを取り囲む人々の輪が在った。
屋敷の主人の上官である高官の年齢は、部下の息子の五つか六つは上だろう、という程度。せいぜい三十を越えるか超えないかの若き未熟な身で高位の役職を勝ち取る彼はペテルデ人ではありえなかった。帝国の中心たる首都の華やぎから切り離され、「山の間の鄙びた街」などに派遣された不平を吐き捨てる男は、せめてもの慰みとしてか着飾った娘を連れていた。漂う雰囲気から彼の妻、あるいは親類の女ではないことは容易に察せられる娘。彼女の伏せられた面はアリムに驚愕と憐憫、そして自責を突き付けた。
「……トゥミネさん。あの人、お祭りの日の……」
「……そう、ね」
彼女の魅力を引き立てる巧みな化粧を落とせば、凛としていて美しい面には可愛らしい薄茶の斑点が現れるはずだ。控えめに頷いたトゥミネもまた、痛みを堪える目をしていた。
「ごめんなさい。私は、もう部屋に戻るわ」
「そうですか……」
口元を抑える女の足取りは雲を踏むように覚束なくて。アリムはふらつく華奢な身体を安らかな寝台まで支えたかったが、下男には許可なく持ち場を離れる自由などない。
「これはもともとは市場でつまらぬ菓子などを商っていたのですが、私の部下が見出したのですよ」
耳を澄ませば聞こえる、主の問いに応える高官の自慢は、傍らの娘にとっては化物の呻りに匹敵するだろう。ならばすらりと締まったくびれやその上のふくらみを弄る指先は、猛毒の爪か。厭だ、となおも懸命に身をよじる娘の拒絶は、男の力に抑え込まれて封じられる。
「せっかくの美貌を市井で埋没させてしまうのは、これに美貌を授けられた神への冒涜だ。こうして磨きぬき飾り立て、相応しい御方の下に送り届けるのもまた我らの務めなのだ」
おおよそ五十年。それがアリムたちの大ナスラキヤ帝国が産声をあげてから現在に至るまでに流れた歳月である。建国者たる英明な老将の玉座を受け継いだ三代皇帝たる彼の孫は、名君と讃えられた祖父には似ていなかった。
あるいは、父である二代皇帝のように、凡庸であっても人格に優れ穏やかであったならば良かっただろう。しかし大多数の民にとっては不運にも、現帝を暗愚と罵る叫びは帝国のあちこちで蔓延し、暴動にまで発展するものもあると聞く。政権打倒を志すある結社を匿っていた街などは、見せしめとして無関係な民ごと破壊されてしまったらしい、とも。
色好みで知られる皇帝によって娘や恋人を奪われた男たちと、後宮に閉じ込められる女たちの怨嗟と嘆きは静まらない。彼ら彼女らを地獄に追いやった見返りとして特別の便宜を得た官たちと、苦痛と憎悪の根源が倒れぬ限り。
「陛下は手つかずの清らかな
「いや、その名誉は辞退しましょう」
蒼白の顔を振る主や主の親類や友人――特に女たちは、身分は違えど同胞である娘の身に降りかかった不幸と暴挙に憤っている。中には殺気すら込められた、刃物めいた視線を高官に投げかける者もいた。だが、その一人である類まれな美少女も、
「……そうか。だがそういえばそちらにも一人銀髪の娘がいたな。名は“エルメリ”だった、か」
招かれれば、応じずにはいられない。
「このような山だらけの土地は君の美しさには相応しくない。君はいずれ家のためにも都に赴くのだろう? その時の口利きはぜひ私に任せてくれ」
「……お言葉は大変ありがたいのですが、私は、」
「君ならば陛下の妃の座すら射止められるだろう。そうすれば君も君の一族も、君を陛下に紹介した私も安泰ということだ。何も恐れることはない」
娘らしく背に流された癖のない白銀の髪が無礼な指に乱されるやいなや、エルメリの父と思しき男は娘を背で庇った。
「失礼。娘はまだ成人前の、高貴な方の御前に出るに足る礼儀など弁えぬ、田舎の娘ですので」
無礼と断じられる危険すら顧みぬ素早さは、我が子を想う父親の愛の証でもある。
「さ、御高説を述べられて喉も乾かれたことでしょう。我が領地で作られた葡萄酒で潤してくださいませ」
物言いたげに開いた唇は、芳醇な赤紫を美味の数々で塞がれた。しかし早春の宴を掻き乱した寒風を浴びてなお笑みをぶら下げているのは、不運な娘に酌をさせるエラムレ人だけ。
勇猛なる父祖から受け継いだ大地と誇りを貶められたのは世襲貴族の面々だけではない。使いの者たちは主たちに同調し、悪酔いする酒や美味だが脂っこい一品を勧めては、彼を退室させようとしていた。アリムもまた沈黙の下で共有された使命を果たすべく、何度このだらしない笑みを引っ提げた男の前に皿を運んだか分からない。だがその途中、幼い手が自分の袖を引いたことには気づいた。
「……アリム」
ふっくらとした頬を紅潮させた、晴着姿のカトゥラはしきりに年齢を尋ねる高官に辟易としていた。だからアリムは執拗な追及を遮り、彼の興味をカトゥラから料理に誘導したのだ。
「あの、その、」
――子供は素直に……。
イリセの忠告を実行するには、アリムが己の自身の意志で動かせる時間は十分ではなかった。
「ごめんなさい。今は忙しいから」
すげなく切り捨てた少女の言葉を伺い知ることはできなかった。待ちに待った夕食への渇望が、なけなしの関心を外側に追いやってしまったから。
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