目を覚まして祈りなさい Ⅳ
白銀の破片が陽光を、燭台の炎を乱反射する。凍てついた銀が眼に突き刺さり、少年は薄い目蓋で薄青の瞳を覆わずにはいられなかった。
燃え盛る火球を凝視する愚か者はいない。一時の気まぐれや無謀の代償として手放すには、光はあまりにも大きすぎる代償だからだ。しかし、用心を怠って雪原に弾かれた太陽の煌めきによって暗黒に堕ちる者は決して少なくはないのである。
「びっくりした?」
謳うような口ぶりは揶揄いを含むが不愉快には響かない。
「綺麗でしょう?」
美しかった。薔薇色が淡く刷かれた頬と唇が。温かな煙水晶の虹彩が。烏の羽のごとく艶めく豊かな髪に縁どられた細い面が――少女のように無垢に微笑む女が。
整っているとはいえ他を圧倒するほどの美貌は持たぬはずの女は、開いた少年の双眸と心にこの世で最も神聖で尊い存在として映る。壮麗な星空の下、潤んだ眼差しを自分に向ける少女。
――あの星はどこに……。
星明かりを浴びて仄白く闇夜に浮かぶ指と、世界を覆う天蓋を模した天井の
「あそこ、よく見るとあちらの文字で何かが書かれているのよ」
「ほんとだ。何て書かれてるんですか?」
「私も詳しくは知らないけれど、確か“神は偉大なり”とか、そんなものだったような……」
トゥミネは投げだ木の枝を咥えて走ってきた犬の仔にしてやるようにアリムを引き寄せ、そっと頭に手を置いた。幾何学文様と植物文様と文字文様が織りなす煌めきの洪水はよどみなく流れ、硝子と鏡の瞬きは止まらない。薄いが引き締まった胸板の奥に潜む、生命の源たる肉塊からの騒めきも。
「まあ、良くは分からないけれど、綺麗だからそれで――」
「良くはありませんよ」
呆れを多分に含む男の声が薄闇から轟く。ゆったりとした、一切の装飾を放棄するがゆえに高潔な祭服の裾は厳めしく揺れていた。
「司祭さま」
はっと顔を強張らせ跪いたトゥミネに、祭服の男は滔々と教えを垂れる。
「“唯一なる神は全てを見ている”。――西方の啓典の章句ですが、我が神の在り方とも通じているでしょう? 元来この世を統べるのは我々の唯一神のみ。それ以外の神など悪魔どもか、我が神の歪められた卑小な影に過ぎません」
「……ええ。神の目と裁きから逃れられる罪などございませぬ」
皺がれていてもなお優美な、労苦を知らぬ男の手が白い面紗を被った女の口元に差し出される。トゥミネは儀式の折に差し出される聖餅のごとく恭しく厳かな指先を捧げ持った。滑らかな爪の先に触れるか触れないかで危うく止められた唇が震えていたのは緊張のためだろうか。
「お会いしとうございました」
「……私もですよ」
柔らかさよりも厳めしさが際立つ笑みを湛えた男が立ち上がれと指示しても、トゥミネはなおしばらく――捉えようによっては意固地に、あるいは何かを恐れているのかと危惧してしまうほど長く、敬虔と服従を示す姿勢を崩さなかった。硬く指を組み目を閉じる女は、残忍な異教徒の群れに囲まれた純潔の聖女だった。見かねたアリムが華奢な肩をそっと叩くと、嫋やかな肢体はぴくりと跳ねた。
「……トゥミネさん。その、」
白髪交じりの髪を品よく撫でつけ額を露わにした男は既に告解室に赴いている。司祭と信徒。神の家畜を守り導く羊飼いと迷える羊としての関係上、あまり長く彼を待たせるのは立派な行為ではないだろう。
「ああ、そうね。ありがとう」
なのにトゥミネは――そもそも告解の約束を取り付けたのは彼女であるにも関わらず――中々に中年の男が吸い込まれていった扉の向こうに赴く決心がつかないようだった。アリムの服の袖をひしと握り締め、唇を噛みしめる女の面持ちは沈鬱で、無言で何者かに抗っていた。
「できるだけ早く終わらせるから」
だがトゥミネはやがて諦めたようにふわりと微笑み、満天の偽りの星空の下に少年を残して行った。
独りで仰ぐ装飾は、他者の体温を感じながら眺めたそれと同一であるはずなのに、酷くつまらない、油染みが浮きそここに亀裂が奔った生家の壁と大差ない代物に成り下がった。むしろ、我が家の胸の奥を切なくくすぐる喧騒に満ちた懐かしさと比較すれば、血肉の通わぬ豪奢の無機質さは冷たくて仕方がない。
――母さんの苔桃のお茶が飲みたい。
ぎしぎしと静寂を破る軋みは、少年の魂の奥底から響いたのではなかった。あえかな期待に駆られ、トゥミネが消えた薄闇をそっと窺う。闇は変わらずそこに在り、幽き光は聖堂の入り口から伸びていた。幼い子供を連れた夫婦連れの面に浮かぶのは、円満な生活を彼らに齎した神への感謝と献身だった。
少年は幾たびかの落胆を吐き捨く。トゥミネのぬくもりを感じたかった。自分はこの都でただ独りではないのだと確信し慰められたいのに、彼女はいまだ戻らない。太陽の高さと腹の空き具合を除いては世の移ろいを計る術を持たぬ少年には、女が目の前から消えて幾許の時が流れたのかすら判然としなかった。
トゥミネが何をするべもなく立ち尽くすアリムの下に駆け寄ってきたのは、若い夫婦と幼児が聖堂を後にした直後だった。
「……ごめんなさいね。独りきりで退屈だったでしょう?」
「別に、そんなことは、」
女は光の粒子が躍るふっくらと幼い頬を突き、己の蒼ざめたそれを緩ませる。
「な、何するんですか!」
「ご、ごめんなさい。つい、その、」
「謝るぐらいならいきなりびっくりさせな……何でもありません」
驚愕と同時に口を割った文句を狼狽える女にぶつける資格は、自分にはない。裡に潜むもう一人の自分が囁いていた。許可なく女性の腰と脚を弄る無礼に比すれば、唐突に頬を触られるなど些細なものである、とも。
少年と女は発すべき文句を見失い、ひたすらに視線を絡ませる。彼らがたがいに沈黙を持て余し勇気ある一歩を踏み出したのはほぼ同時だった。
「もう行かなきゃいけないところはないんですか?」
「そろそろ飴を食べましょう?」
どちらからともなく微笑み合う二人に、もはや言葉はさほど必要ではなかった。沈黙は陽光に温められた泉の水か産湯のように心地良くアリムとトゥミネを包む。甘酸っぱくも芳醇な葡萄の香りで行き交う者を誘い引き留める露店で自ら買い求めた一本の飴を分かち合う幸福は、この世の言語では表せられない。
「美味しい」
ゆったりと細められた瞳は少年に己が血を滾らせるものと同じ感情と問いかけを伝えてきた。
――私はあなたと一緒にいられて楽しいわ。あなたは?
はにかみながらも勢いよく頷くと、白い面を彩る蕾はほころび満開に咲き誇った。秋の実りの――煮詰めた紫の果汁と、果汁に包まれた胡桃の香ばしさの余韻は、舌の上から消え去っても魂にまで染み渡っていて消え去らなかった。
優美だが堅牢な黒鉄の囲いは、内からではなく外から仰いでも厳めしかった。意にそぐわぬ檻に閉じ込められる見世物の獣はいつも、華やかな舞台の裏では屋敷の門を潜った瞬間のアリムのように泡沫の至福が過ぎ去った後に襲い来る憂鬱と闘っているのかもしれない。
晴れの日の後の、平凡な日常を厭うのはアリムだけではなかった。
「今日は、楽しかったわ」
「僕もです」
トゥミネはひしと――司祭にそうしたよりも長くアリムの手を握り締める。憂いと悲嘆を帯びた目元は残照に照らされるがゆえに一層艶めかしかった。
「またこんな風に遊べるといいけれど、あなたも私もしばらくは忙しいわよね」
「はい。でも、お花はちゃんと持ってきますよ」
春の訪れは宴の季節の訪れでもある。主が、各地から親類や知人友人を招いて催す連日の宴は使用人たちにとっては過酷を極めるがゆえに、常に息抜きを済ませてから催されると決まっていた。だから、これからしばらくは、アリムにはトゥミネに花を届けるならばともかく共に茶を嗜む暇など与えられない。
励ましと幾ばくかの欲望を込めて握り返した指は、ほんの僅かでも力を込めれば儚く折れてしまいそうだった。
「……嬉しいけれど、無理はしないで。あんまり忙しかったら、私のことなんて忘れていてくれても構わないのよ」
「どんなに忙しくてもトゥミネさんのことは忘れません! だって僕たち……」
――友達でしょう?
密やかな囁きは間違いなく頭上の巻貝に似た耳に届いた。降ってきたぬくもりと柔らかさは、胸を掻き毟り、魂を縛める恍惚となって少年の血を燃え立たせる。使用人の住居の一室の粗末な寝台に潜り込んでも、穏やかな水に我が身を委ねる安寧を忘れることはできなかった。少年は、己が包まるうっすぺらなものは及びもつかぬ布団を被っているだろう女が、同じ安らぎを共有しているのだと疑っていなかった。
◇
弛んだ肌に浮いた染みを浮かびあがらせるのは、灯した蝋燭の炎ではなかった。冴え冴えと照る月の光は紗幕の小さな布目を通って男が横たわり女が坐す寝台の乱れを暴く。
「最近、下働きの子供を気に入っているようだと聞いたよ」
薄物を羽織った男になよやかな肩に触れられると、己が指で解けた髪を梳き整えていた女の汗ばんだ肢体は強張った。
「まあ、妬いていらっしゃるのですか?」
女は白銀の円盤を一望し男に背を向けたまま、今宵二つ目の戯れに応じる。
「はは、どうだろうな」
これは遊戯なのだ。愉しさも取り組む価値も見出だせない、ただ煩わしいだけの娯楽でも、決まりを把握してさえいれば盤上で駒を操ることができる。
あの澄んだ泉の目をした少年に抱く感情は、「生き別れた弟」あるいは「友人」が最も近い。ゆえに女は、自分自身すら偽れぬ空言を紡ぐ。
「……ご安心くださいませ。あの子は私の生き別れた弟に似ているので、つい構ってしまうのですわ」
女は母のみの子として生まれ育った。女は母のただ独りの子だった。だが、女も亡き母すらもどこの誰とも分からぬ「父」には、女以外の子がいるかもしれなかった。それはあの白き豹の裔たる少年ではないだろうが。
「そうか、そうか。ならば仕方ないな」
虚言は肌を重ねた男にとっても虚しかったであろう。しかし女にとっては幸いにも、男は女の裡には重きを置いていなかった。
「お前もここに籠ってばかりでは退屈だろう。好きにしなさい」
「……ありがとうございます」
主は朗らかで無欲な外面に反し、厚い脂肪で覆い隠した欲は相応に激しい。熾火のほとんどは己が地位の保持と上昇を目指し燻っているが、舞い散る火の粉を受け止めるために女は彼に留め置かれているのだ。
月光を朧に弾く項の曲線を乾いた皮膚がなぞる。細い顎を掴み己が元に振り返らせ、女のそれに己の唇を重ねようとした男の胸を、反射的な拒絶が押しやった。
「……申し訳ございません」
「いや、良い。お前はこれが苦手だと言っていたね。失念していたよ」
男の高揚は女の非礼には害されなかったらしいが、萎みもしなかったらしい。
女を組み伏せ覆いかぶさった男の、笑みを刻んだ口から突き出た舌が、緩やかに波打つ黒褐色に埋もれた耳朶を探り当てる。
「私は、お前が自分の役割を弁えているのなら、多少の“遊び”には目を瞑るよ」
欲されるのは肉体と手管であって、心ではない。その事実は女を救済する一方で破壊した。真に自分を求めてくれる誰かに――少年の細くも引き締まった腕に捕らわれる喜びが蘇ってしまったから。
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