目を覚まして祈りなさい Ⅲ
ペテルデ第一の中心都市ムツタシは、峻厳なる白き山脈から雪解け水を運ぶ大河アラを抱くように分かたれる、新旧二つの市街で成り立っている。
神話の時代から幾度となく襲来する災禍に苛まれながらも連綿と紡がれた伝統を誇る旧市街には及ばぬものの、新市街もまた歴史の動乱と栄華の名残に彩られた魅力的な街だった。
「少し遅れたけれど、お昼ごはんには丁度いいわね」
ありふれた羊肉と玉葱の
「凄いわ。男の子はやっぱり沢山食べるのね」
食欲旺盛なアリムとは対照的に、トゥミネは小ぶりな麺麭すらも持て余している。
「食べかけでも良かったら、私のも食べる?」
かぶりつくのではなく小さく千切られ咀嚼されたのは、全体の半量にも満たない。
「さっきお菓子を食べたから、もういいわ。それに、後で飴を食べるからお腹を空かせていないと」
食事を横取りされればあらん限りの誹謗中傷を並べ、場合によっては腕力に任せて取り戻す男勝りな姉妹に囲まれ育ったアリムには、トゥミネの小食は俄かには信じがたかった。
彼女の関心は、食欲を刺激し胃の腑を蠢かせる香辛料と、小麦や肉が焼ける臭いにはないらしい。ならば妙齢の女性らしく身を飾り己が魅力を引き立てる品々に興味を示すのかと観察してみたが、予想は見事に外れてしまった。
「あなたはまだ食べてるのに悪いけれど、少し急がないといけないわ。公園でゆっくりしすぎたみたいなの。……このままじゃ約束の告解の時間に遅れちゃうかもしれない」
――週に一度、自分が欠かすことなく秘蹟に与る教会「真冬の星空」に、アリムを案内したい。トゥミネは想い人の美点を列挙する少女の眼差しで寺院の壮麗さを語っていた。
「壁に嵌めこまれた鏡が光を反射して、とても綺麗なの。人が少ない時に訪れると、まるで星空を独占してるみたいな気分になるから、あなたにもぜひ見てほしくて……」
干した棗椰子の濃厚な甘味を声高に宣伝する男も、精緻な銀細工や色鮮やかな織物も、しきりに太陽の位置を窺う彼女の眼中にすら入らぬらしい。
「お嬢さん、お一つ……」
「ごめんなさいね。少し急いでいるの」
アリムの物となった手袋を買い求めた先程とは打って変わった、あの手この手の執拗な誘惑を一刀両断し、迷いなく突き進むトゥミネは凛々しくすらあった。
「あれ、トゥミネさんに、」
「後で見ましょう」
自分などどうでも良い。雄弁に物語る黄金を帯びた茶の眼差しは、アリムすらもたじろがせる気迫を醸し出していた。いつもこんな目をしていれば、屋敷の使用人に幽霊と嘲られ、粗雑に扱われはしないだろうに。
――でも、ほんとにトゥミネさんに似合いそうだったんだけどなあ。
少年は黒檀の髪飾りを脳裏に焼き付ける。真珠貝らしき虹色がかった乳白色と赤い硝子で描かれた花模様は、トゥミネの部屋の露台の唐草文様に酷似していた。
「新」の形容を冠するもののその実誕生してから四百もの齢を重ねる街は、かつての宗主国の影から抜け出しきれていない。涼風が運ぶ薔薇水と香料の濃密な香りからしても、アリムの主人の屋敷が属する旧市街のものとは異なっていた。行き交う人々の髪や肌の色や服装も。彼らが行き交う街並みそのものも。
「ほら! 遠くからでも分かるでしょう? でも、近くで見るともっと綺麗なのよ」
西方の面影を匂わせる女のしなやかな指の先には、神や文明の違いを越える、人の手による美が在った。ほんの五十年前までは礼拝の刻を告げる導師の声が轟いていたであろう塔は、神に挑むかのごとく高く聳えていた。屹立する尖塔に囲まれた礼拝堂は、唯一神の家のものとは似て異なる
「あそこには王の銅像があるわ。この街を創った王様なのだけど、アリムは王様の名前を知っているかしら?」
四百年前。海峡に隔てられた帝国の砲弾による破壊の轟音は、大陸中部で覇を唱えていた「黄金の時代」のペテルデの栄華の葬礼の鐘の音でもあった。
終焉と滅びが齎されたのはペテルデだけではく、当時存在していたナスラキヤの国々のほとんどは同じ運命を辿ったのだが、とりわけペテルデの被害は深刻だった。国力と兵力の差を軽視した開戦当時の女王の失策ゆえ、降伏の旗を振る時節を逸したために。相次ぐ暴動と反乱に揺るがされた王都の荒廃を決定的なものとしたのは、落城の日の王宮の原因不明の火災だった。宮殿の一室から伸びた紅蓮の舌は城門を飛び越え城下の家々や民草をも舐め、数え切れぬ人命を呑みこんだのである。
大火に巻き込まれてか生死不明となった女王の後を継ぎ即位した彼女の甥は、公衆の面前で皇帝に跪く屈辱を強いられた。臣従の証として砂の帝国の大帝の血縁の姫を娶り、唯一の正当な神を捨て去り砂の国の偽りの神を崇める背信すらも。だが彼は忠誠と引きかえに、荒廃した王都や戦地となった都市の復興に要する資金を借り入れ、「白銀の時代」と讃えられる安寧と繁栄の刻の基礎を築いたのだった。
英明な君主と崇められる一方で、唾棄すべき背教者とも蔑まれる王の青銅の像は、誇り高く少年と女性を睥睨している。老年期を模したらしき王の面差しは、整ってはいるがいかにも聡明な君主として理想化されすぎてしまっていた。特に、目つきなどはアリムが思い描く彼とは似ても似つかない。
この違和感はなんだろう。アリムは遙か昔の王の顔など知らぬはずなのに、深淵に潜む何かが囁いている。疑念が渦巻く脳裏に朧に浮かぶ造作は、知性を滲ませながらも鷲か狼めいていて鋭い目元が印象的だった。銅像の、寛大と慈悲を示す柔和なものとは全く違う。
「……全然、王様らしくないんですね。なんだか、優しいおじいさんって感じで」
「でしょう? でも、この像は彼が死んで二百年も経ってから造られた物なんですって。だから仕方ないわよ」
トゥミネは神妙な面持ちで頷いた。彼女の同意が嬉しかった。
トゥミネとアリムが、どこでどのように王と会遇を果たしたかは定かではない。祝祭に浮かれる街のあちこちで開かれる人形劇や、絵物語の読み聞かせの折に目にした「マナゼ王」を元に、彼の面立ちを作り上げたのかもしれない。人の記憶とは確かなようでいて酷く曖昧な、主の願望によって容易に捻じ曲げられ歪められるものだから。
――また、いつか……。
ならば、アリムが片時も手放してはならぬと抱き続けた面影もまた、幻なのだろうか。
――あなたは生き抜いて。
胸を引き裂く祈りを自分に奉げたのは誰だろう。トゥミネといると、命よりも大切なはずの娘の顔が彼女のものに上書きされてしまうのだ。
「……ねえ、」
水色の眼を覗き込む瞳は既に青紫から榛に変じてしまっている。忘却は少年にとっては赦すべからざる大罪だった。アリムは言語を絶する苦痛と引きかえであっても、彼女と永遠に共に在りたかった。
「ここは人通りが多くて、このままじゃ“真冬の星空”に着く前に
蛇の腹を連想させる未だ冷たい掌が、少年を生きながら焼く劫火を鎮める。
「また、手を繋ぎましょう?」
「僕の手は肉汁とかで汚れてますから、」
あなたが汚れるといけないから。
やんわりと示した拒絶は脂でべたつく指先ごとしっとりと滑らかな皮膚に包まれた。
「そんなこと、気にしないで」
「服についたら大変ですよ。洗っても中々落ちないんですよ」
「じゃあ、舐め取ればいいわ」
――この人は何を言ってるんだろう。
跳ね上げた視線の先にあるのは、真剣そのもののだった。つまり、トゥミネは冗談を言っているのではない。
「舐めればいいのよ。あなた、おやつの後にたまにやってるじゃない」
不作法だ、トゥミネに呆れられるかもしれない、と理性を何重にも巻きつけていたはずの悪癖はいつの間にか戒めを解いて飛び出していたらしい。
恥ずかしさのあまりどこかに走り去って真摯な瞳から隠れたくなったが、生憎アリムは案内なしには込み入った路地を一歩進むことすらままならない。
少年らしいあどけなさと僅かばかりの逞しさがせめぎ合う顔が、不快ではない熱と赤らみに覆われる。
「幾らなんでも、僕のよだれだらけの手を握るのは嫌でしょう?」
「全然」
「どうしてですか?」
「それは――」
女のくっきりとした面もまた、少年と同じ熟れた林檎の赤に。
「……そんなこと、どうでもいいでしょう?」
「どうでも良くはないですよ。僕は結構大切なことだと思います!」
「……」
狼狽え、陸に上げられ干からびる寸前の魚さながらに口を開け閉めする女は緩やかに目を伏せ――
「急ぎましょう! “真冬の星空”はとにかく綺麗なところだから、あなたも気に入ってくれるはずだから」
あからさまに話題を逸らし、アリムの手を掴んだまま小走りに駆けだした。これで誤魔化せると本気で考えているのなら、彼女の対人能力は恐ろしく低いと評せざるを得ないだろう。もしかしたら嘘が下手なのかもしれない。
「……小さい頃は、母と一緒に毎日のように通っていたの。住んでた所がすぐ近くだったから」
「と、いうことはトゥミネさんはこの街出身なんですか?」
「まあ、そうね」
アリムの追及を封じるためか、トゥミネは彼女にしては奇特な程に舌を動かす。
「私はこの街で生まれたけど、お母さんは西のイングメレディ地方から来たの。お母さんは私がせがむとよくイングメレディの歌を歌ってくれたわ」
幼少期の幸福を噛みしめる彼女は、アリムと齢が変わらぬあどけない少女の貌をしていた。
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