目を覚まして祈りなさい Ⅱ

 萌ゆる若芽は陽光を透かし、市民の憩いの場を翠に輝かせる。弾ける幼子の歓声と小鳥の囀りは泉のせせらぎに抱かれ、朗らかに融けあっていた。

 濃い睫毛が生え揃った目蓋を下ろし、麗らかな響きに耳を傾ける女性の横顔は未だ蒼ざめている。楢の大樹の影の中でしばしの休息に身を委ねているのだとしても、トゥミネの顔色は悪すぎた。

 ――この優しく繊細な女性は、醜悪な暴力が振るわれる様に耐えられなかったのだ。

 眼裏に過る、白に沁みついた赤褐色と嘲笑にこみ上げる怒りは有り余る力となり、掌の中の物体を砕いた。

「大丈夫ですか?」

 ばきりと鈍く乾いた悲鳴を放って割れた、熱した砂糖と蜂蜜を絡めた胡桃の菓子をそっと手渡す。みっともない空きっ腹の叫びに耐えかねたアリムが買い求めた味は素朴だが滋味は深い。きっと、疲弊したトゥミネの心を癒してくれるだろう。

「ええ。……心配させて、ごめんなさいね」

 トゥミネはぎこちなさは残るものの頬を緩ませ、光の下での彼女の瞳に似た甘やかな茶の欠片を口に運んだ。唇に乗せた紅を慮ってか粟を啄む雀のようにゆっくりと菓子を食む女は可憐で、少年の胸は幾度目かの過労を強いられた。このままでは屋敷に戻る夕刻には、疲れすぎて心臓が死んでいるかもしれない。

「……美味しいわ。私も買えば良かったわね」

「じゃあ半分こしましょう」

「いいの?」  

 満足げに細められた双眸は獲物を捕らえた猫のものに似て優雅だった。

「私、実は食べることがあまり好きではないのだけど、」

 唇に付着した破片を舐め取る舌の艶めかしさも。

「あなたと一緒だともっと食べたくなるわ。これも、お友達だからかしら?」

 成長期を迎えたばかりの少年にしては逞しい肩を薄絹めいたぬくもりが凭れかかった。トゥミネはアリムを心臓発作で殺すつもりなのだろうか。

「ど、どうしたんですか?」

 皮膚の下に潜む管を満たす液体は滾り下腹に溜った。胸の奥からは太鼓の轟音が轟く。少年は俯き、ふわりとたなびく毛髪で不自然な熱を帯びる頬を隠した。自分の顔はきっと、林檎よりも赤くなっている。泉に映して確認せずとも、熱病に罹患したのかと不安を覚えるほどの体温から察せられる。

「……少し、眠らせて。ほんとは秘密にしておくつもりだったのだけれど、あなたと出かけるのが楽しみで、あんまり眠れてなかったの……」

 とろとろと潤んだ瞳と唇はやがて閉ざされ、安らかな寝息が赤らんだ耳朶をくすぐった。二の腕の柔らかさは暴力的で、少し手を伸ばせば届く位置にある腰と太腿への不埒な好奇心を調伏することは、なけなしの理性をかき集めてもできなかった。

 じっとりと汗ばみ、罪への恐れに戦慄く指先で魅惑の肉を突く。

 ――柔らかい。

 淑やかに隠された腿は、服の上から思い描いていたよりも豊かで蠱惑的な曲線を描いていた。トゥミネは細身だから、脚もまさしく握れば折れんばかりだろうと思っていたのに。現実は知識に乏しい貧相な想像など及びもつかぬ魅力で形成されていた。

 淡い色の生え際と蟀谷こめかみから吹き出した珠が目に沁みる。眼裏に浮かぶのは、眠る女の横顔だった。トゥミネはアリムを友として信頼してくれているのに、アリムはトゥミネを……。

 ――ごめんなさい。

 決して穢してはならぬ神聖を冒涜した悔恨は、憧憬を捧げる異性に触れた歓喜には勝らなかった。蛇に唆されて神に禁じられた果実を食んだ「最初の女」の弱さと心情はアリムのものでもあった。

 ――もっと、もっとこうしていたい。

 異変に気づいたトゥミネが目を覚ませば速やかにこの行為を中断できるほどの自制心が、自分には備わっていると慢心してはならない。

 華奢な肢体を己が腕の中に閉じ込め、滾る欲望をまろやかに包むだろう腿と下腹部に顔を埋めてみたい。トゥミネ本来の香りを心ゆくまで堪能したい。

 静かな呼気に呼応して上下するふくらみに眼差しを縫い止められる。知らず知らずのうちに男ならば誰しも心を奪われる二つの果実に伸びていた手が自分の一部なのだとは信じられなかったが、それが真実なのだ。アリムという獣の本性なのだ。

 決して飼いならすことのできぬ獣性は遙かなる祖から由来するのか、人類の普遍の祖たる「最初の男」から受け継いだものなのかは判然としない。だが、アリムはこのままでは恐ろしいことをしてしまう。姉を死に追いやったもう一人の男と同じ下劣に堕ちてしまう。

 鬱血した腫れあがった、生前の面影を剥ぎ取られた死顔と、傍らの安らかな寝顔はかけ離れているのに、不安は抑えられなくなった。もしもトゥミネがこのまま目覚めなかったら――目の前が柘榴の花弁の朱に染まる。

「早く起きてください、トゥミネさん」

 葛藤が滲む懇願に応えるのは、

「……ん」

 切なげに掠れた喘ぎだけ。   

 面紗を被り慎ましく己の美を覆い隠す女性は貞淑そのものなのに、ふとした折に抗いがたい色香を漂わせ少年を漆黒の淵に誘う。自らの罪深さを悔い、救いと赦しを求めて預言者の足元に縋った娼婦は聖女でもあるのだ。

「お母さん」

 滑らかな喉が絞り出したのは、少女のか細い悲鳴だった。眦からは一筋の雫が零れている。濃い睫毛を濡らし、口元の黒子を艶めかせる悲嘆は生温く塩辛かった。糖蜜の甘さを湛える双眸から溢れていても、涙は涙なのだ。

 濡れた指先で淡く開いた唇に吸い込まれんとしている粒を追い払う。雨に打たれた花の蕾を彩る色彩が剥がれ落ち、トゥミネの生来の桃色が現れた。化粧は相応に整ったトゥミネの面差しの清楚さを十分に引き出しているが、アリムは普段の彼女こそがもっとも美しいと感じていた。あの清冽な笑顔を与えられるのは、自分だけであってほしかった。

 嫉妬とも焦燥ともつかない、あるいはそれらが入り混じった衝動が似合わぬ紅で染められた指先を震わせる。武骨な先端を筆の動きを真似てぎこちなく左右に動かしても、落剥した色素は元には戻らなかった。むしろ、ますます誤魔化しが利かない有様になって。

 ――トゥミネさんが起きたら何て言って謝ればいいんだろう。

 舐った紅の苦味は楢の枝にしなだれかかる山葡萄の、未熟な実の渋み。すなわち後悔そのものだった。どんなに端々を繕ってもあからさまな痕跡からは逃れることはできないし、そもそも言い逃れは男らしくない。自分の非を認めるのなら、全ての罪をあからさまにして赦しを乞うべきなのだ。しかし拒絶と侮蔑への恐れは、払っても払っても執拗に引き締まった足首に絡みつき、勇気ある飛翔を妨げる。

 目まぐるしく移り変わる様々な最悪に打ちのめされた少年の項を、後ろ髪ではない何かが撫でた。

「……抱っこし、」

 大きく瞠られた淡い青が寝ぼけた灰の双眸のほど近くまで引き寄せられる。成熟した女の丸みが発達途中の少年の肉体を受け止める。灼熱の頬を挟むのはもぎたての林檎よりも尊い実りだった。切り拓かれたかつての太古の森で弾ける喧騒が遠ざかる。自分は、善き死者のみに許される神の楽園に迷い込んでしまったのではないか。少年は突然の幸運を噛みしめ、姉の喪失からゆうに五年ぶりに、唯一神と彼の配下たる精霊たちに感謝の祈りを捧げた。

 願わくば、この幸福が永久に続かんことを。

 天上の存在に希うにはあまりに卑俗な願いだった。神々はアリムの不敬に憤ったのか、あるいは浅ましさに呆れ果て罰を下さねばと息巻いたのか。とにかく願望はついに聞き届けられず、母を求めて腕を伸ばした女は異変を察知し微睡みから覚醒する。

「あ、ああ、アリム?」

「はい。……ごめんなさい」

 しなやかな筋肉を纏った背に巻き付いた腕はずり落ち、二つの肉体の合間に入って隙間を押し広げた。

「ご、ごめんなさいなんて。それは私が言うべきことよ……驚いたでしょう?」

 紅潮した面を両手で覆い、さらにアリムの目から背けた女は、おもむろに立ち上がった。

「……顔を洗って頭を冷やしてくるから、少し待ってて」

 睡眠中のトゥミネに仕出かした行為が発覚する危機はひとまず去った。だがそれは謝罪をしない言い訳にはならない。

「ち、違うんです! 僕はそういう意味で謝ったんじゃ――」

 らしくなく大股で、どこか少年めいた足取りで突き進む彼女に追いつくには、泉の畔まで駆けねばならなかった。

 虚空の青と陽光の黄金を映し吸い取る水面は磨き抜かれた鏡だった。大きな目と口と太い眉で成り立つ勝気な造作は、在りし日の姉のものと酷似していた。十二という幼さは外貌に表れる性の区別を曖昧にさせる。

 眠気と共に化粧をも落とした女性もまた、過去を愛おしんでいた。確かめずとも、彼女の全身が囁いていた。懐かしい、と。

「ここ、いい場所でしょう?」

 まるで幾度となく訪れた馴染みの場所であるかのごとくトゥミネは嘯く。アリムの世界から消え失せた他者は未だ戻らない。穏やかな静寂の中、少女めいた仕草で小首を傾げた女は、少年が頭を振って同意を示すと、やはりあどけなく微笑んだ。

「私、ずっとあなたとここに来たかったの」

 トゥミネの想いが重ねられた掌から心に――魂に沁みこんだのだろうか。胸を締め付ける郷愁と愛惜は、他者であるアリムのものでもあった。 

「もっと温かくなったら、お弁当を持ってここに来ましょう」

 細い手を握る指に力を込める。

「あなたはお肉が好きよね? お肉といえば……そろそろお昼の時間だわ」

 天頂に坐す太陽はその眩さゆえに直視に耐えないが、卑小なる人の子には数え切れぬ恩恵をもたらす。アリムの故郷では、太陽は女であると伝えられている。民話の中の美女にしては珍しく銀ではない、大地の恵みそのものの茶色の髪をした聡明な娘であると。――こればかりは、きちんと語らねば伝わらない。

「私、美味しい屋台を知ってるのよ。少し遠くまで行かないと食べれないけど、どうせだから……」

 凝った樹液の瞳が瞬く。遠い大陸東部の針葉樹林に抱かれる氷の国の、琥珀を太陽の石と呼び愛でる風習を、生地のお伽噺をトゥミネに教えるいつかの午後が待ち遠しかった。

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