目を覚まして祈りなさい Ⅰ
耳慣れぬ、野太い叫びが後方から轟いた。
「カヤト」
狐の毛皮の帽子から長い三つ編みを垂らした、アリムとトゥミネの前にいた男は、焦燥を登らせながら音源に向かった駆け出す。まだ少年と評しても通る年若い青年と彼を呼びつけた壮年の男は父子なのだろう。どことなく顔立ちが似通っていた。
「……」
黒髪の少年の唇から漏れた語句はやはり判別不可能だったが、違和感は覚えなかった。
「あの方たち、草原からここまで来たのね。毛皮を売りに来たのかしら?」
流麗な琴の調べが頭上から降る。うっすらとだが化粧を施した細い顔は友人である女性のものなのに、彼女と市場に繰り出して、概ね半刻の時が流れた今でも全く違って見えた。
紅を塗った唇がほころぶたびに胸が高鳴る。普段の質は良いが質素ですらある衣服を脱ぎ捨て、晴れの日に相応しい青に袖を通したトゥミネは、穏やかだが濃い影を纏った陰鬱な女から品よく清楚な女性に変貌したのだ。擦り切れた女物の上衣を脱ぎ捨て、一着しかもたない男物を羽織ったアリムが、ごく普通の少年に戻ったように。
知っているはずなのに知らない美しい女は物珍しげに榛の双眸を瞬かせながら、露店に並べられた銀狐の毛皮に手を伸ばし――指先が触れる寸前で止めた。白粉を叩いた頬に落ちる睫毛の影が、薄絹の面紗から透ける細い項が艶めかしかった。
「これなんかどうだい、べっぴんさん」
いかにも商人らしく、人好きのする形に口元を吊り上げた男が、真紅に染められた仔羊皮の手袋を差し出す。黒糸で意匠化された星の文様が刺繍された一品は、トゥミネに非常に似合っていた。
「そうね」
曖昧な微笑が商人に応える。
「私より、この子の手に合う大きさの手袋はないかしら?」
まだ薄い胸の奥に潜む臓器が荒れ狂い、熱く滾った血が全身を駆け巡った。無意識に固く握りしめていた拳を――見ず知らずの男とトゥミネが微笑み合っている光景が面白くなくて――嫋やかな指に解されたのだ。太く、節くれたアリムの指に鎮座する汚れた爪と、白磁の五本を飾る整った薄紅は、狼狽え息を呑む少年にとっては同一ではなかった。短く切りそろえられ磨かれたそれは貴石か貝を連想させ、触れることを躊躇わせる。決して穢してはならない神聖に触れてしまったようで。
「べ、べつに要らないです、よ。……もう冬は終わったし」
「でも、朝方は結構冷えるでしょう? 夜寝てる間だけでも手袋をしていれば、手荒れも結構落ち着くわよ」
「で、でも、僕、お金が……」
紅潮した頬を茶の眼差しから隠すべく俯いたアリムの様子から、店主はあらぬ勘違いをしたらしい。
「坊主、
いかにもネミル人らしい特徴を備えたアリムと、西方の血を濃く継ぐトゥミネの容姿はかけ離れているのに。春の、生命と誕生の季節の訪れを言祝ぎ分かち合おうとしている、齢は離れているが仲睦まじい姉と弟なのだと。
「姉さん」
頭上の唇から零れた密やかな声音は甘く、けれども苦く少年の心に滲んだ。違うと訂正するでも、笑い飛ばすのでもない呟きは美酒に囚われた酔人のものだった。仰いだ面は頬紅ではない赤に彩られていて。
「私が、アリムの……」
恋する少女のようだった。大輪の薔薇の豪奢や絢爛には決して及ばぬ、けれどもひび割れた荒野でただ一輪咲き誇る控えめな百合の微笑は、少年に歓喜と苦悶を齎す。沸騰していた血流は瞬く間に冷え静まり、燃える肌は平静に還る。
地獄の炎に炙られるかのごとき苦痛を独り噛みしめるアリムをよそに、トゥミネと露店の店主はにこやかに会話を紡いでいる。永遠とも一瞬とも感じられる責苦は、唐突に視界を遮った黒で終わった。
「これなんかどうかしら? 今のあなたの手には少し大きいけれど、その分長く使えるはずよ」
言葉を憶え始めた我が子に始めて呼ばれた母親のような歓喜を漂わせる女性を悲しませるなど、あまりにも罪深くて想像ですら行えない。
「あ、ありがとうございます」
噛みしめた口元から溢れるのは鮮血だけだろうか。
「じゃあ決まったわね! ――おじさん、これを私の可愛い“弟”に」
幼い自分は、この女性にせいぜい弟としてしか意識されていないのだ。
家族。それはある意味では友人をも越える特別なのかもしれないが、アリムが朧ながらに望んだ特別ではなかった。
「はいよ! いいねえ坊主、美人の姉さんに可愛がってもらって」
相好を崩した店主とは対照的に、アリムの内側は波打ち、堰を切った感情が溢れだす。
分かっていたのに。トゥミネより十も年下の、頭一つ分も背が低い自分では、彼女の恋人にはなれない。トゥミネの横に立つには、彼女を守り支えてくれる大人の男こそが相応しい。「子供」のアリムでは端から論外だったのだ。
春にしては冷ややかな風が肩を落とした少年の癖のある一房を弄ぶ。火照りの余韻を残す肌を撫でる冷気が煩わしかった。
「お前も後で姉さんに何かいいもん贈ってやれよ!」
豪快な笑みに見送られて進んだ祝祭の市場には世界が集まっていた。
山脈を超えた北方の国から輸入された穀物と乳製品は、東方の氷の国からの蜜と混ぜ合わされ、食欲を誘う菓子になる。芳ばしい揚げ菓子に混ぜ込まれる干し葡萄や柑橘の皮の砂糖漬けは、アリムとトゥミネが住まう広大な帝国のどこかで育まれ、運ばれたものだ。それがこのペテルデ総督領なのか、あるいは生涯足を踏み入れることなどありはしない、伝聞を縁に思い描くのみの地なのかは定かではない。
油と蜜が――人体が最も欲する栄養が、育ち盛りの胃の腑を刺激する。少年はきゅ、と瀕死の獣の仔めいた呻きを漏らした腹部を摩った。
「そこの坊や。お腹減ったんなら――」
美しい娘だった。銀の髪と凛と整った面差しが醸し出す冷涼な雰囲気を、鼻の頭を中心に散った
「……どこを見てるの?」
急に立ち止まったアリムを案じてか、しかしどこか詰るように擦り切れた袖を引いたトゥミネもまた、彼女にしばし魅入っていた。
「いいわね。綺麗だわ。羨ましい」
吐き出された羨望には悲嘆が混じっている。
「何がですか?」
「“何が”って。……あの人、銀髪でしょ?」
もはや神話よりも遠い原始の統一帝国時代と、五十年前に建国された第二帝国時代を除いては、絶え間なく大陸中部南方の地に押し寄せた征服者たち。地域によって程度は異なるが彼らとの混血を重ねたこの帝国には、様々な文化が並立し、時に互いに争っていた。西の端では漆黒の髪と瞳がもてはやされる一方で、東では処女雪の肌と碧眼が称賛される。しかしこの数え切れぬ言語と民族と軋轢で成り立つ帝国には、唯一共有される普遍的な美の基準があった。
「それがどうかしましたか?」
「どうかしましたか、って……。男の人は――もちろん女もだけど――みんな銀髪が好きでしょう? あなたは銀髪の女の人を“素敵だ”とか“綺麗だ”とか思わないの?」
白皙に映える銀の髪。それが、ナスラキヤの男が至上の美女に求める絶対条件なのだ。ゆえに帝国では太古の女神も森の精霊もお伽噺の姫君も、皆一様に白銀の髪をしている。
古来からの「純粋な」ナスラキヤ人の間では他集団よりも比較的多く銀の髪が見出せることから、銀髪は
『ま、ネミル人の私たちには関係がない話だけどね』
子守歌代わりに物語を謳う亡き姉に馳せた想いは、鬱屈した吐息に吹き飛ばされる。
「西の血を継ぐ以上は仕方のないことだけれど、私の髪は“これ”でしょう?」
嫋やかな指が摘まむ豊かな流れは、面紗が落とす影をも被って、烏の羽の艶を帯びていた。僅かに紫を含んだ黒褐色に比べれば、月光を弾く雪原の輝きなど寒々しいだけで少しも好ましくない。
「子供の頃、よく空想していたの。この髪がこんなつまらない茶色じゃなくて銀色だったら、どんなに良かったか――なんてね」
片方の手を握ると、トゥミネの口元に刻まれていた諦観と自虐は驚愕にすり替わった。
「つまらなくなんか、ないです」
「わざわざ慰めてくれなくてもいいのよ。別にそんなに気にしてはいないから」
ふわふわとたなびく髪を整えられると、自分がやはり子供でしかないのだと突き付けられる。アリムが大人だったら、侘しげに双眸を細める彼女を慰めるられもしただろうに。
「……そうじゃなくて!」
五年後。いや十年後ならばともかく、今この瞬間のアリムでは、想いの丈をぶつけることすらままならない。それでもアリムは伝えたかった。
「トゥミネさんの髪は暗いとこでは葡萄みたいだし、眼は木の実みたいで、とても――」
あなたは美しい、と。
期待で潤んだ実りを宿した瞳を覗き込むと、視線を交える合間すら与えられぬまま逸らされた。熟れた林檎に劣らぬ赤に染まった頬から、彼女の動揺が察せられた。
気まぐれな冷風が頼りない薄絹を捲り上げ、虚空に攫う。青空に広がった布を掴むと、あまりの儚さに心臓が騒いだ。
「……あ、ありがとう」
感謝の言葉は細かく震えていた。
「嬉しいわ。とても、」
涙ぐんですらいる女性に、少年は捕らえた一枚を捧げ持つ。そして指と指が再会を果たした瞬間――
「何すんのよ!」
先ほどの美しい娘の怒号が空気と人波を切り裂いた。
「あたしにはあんたたちと遊んでる暇なんか――誰か!」
三人の、にやついて品のない顔をした男に囲まれた娘は助けを求めているが、応える者はなかった。娘の腕を乱暴に掴む男達がエラムレ人――帝国に君臨する皇帝や、高級官僚たちの同胞であると一目で判ぜられる身なりをしていたから。由緒正しい血統を誇る世襲貴族ですら逆らえぬ権力に、内心ではともかく現実で歯向かう勇気と無謀を備えた英雄など、この市場には一人もいない。アリムとトゥミネをも含めて。
「……今に始まったことじゃないけど、酷いわ」
抵抗も虚しく物陰に連れ込まれた娘の苦痛と恐怖が一刻も早く終われと祈り、冷え切った掌を温める。それが少年にできる精一杯だった。
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