舌には蜜のように甘い Ⅲ
温かな毛が、しなやかな尾が引き締まった足首に絡む。
「猫。どうしたの?」
肥った虎柄の猫は、丸い茶の目を細めながら少年の土で汚れた手の甲に狭い額を擦りつけた。ごろごろと喉を鳴らす彼からは、野生の誇りは失われて久しい。人なれした虎猫は、アリムよりもはるかに長くこの屋敷に住み着いているのだから。愛嬌を振りまいてはおこぼれに与る彼が自分に懐くのは、アリムを同類だと見抜いてのことなのかもしれない。
温かな毛の塊をそっと抱き上げ脚の付け根をくすぐる。だらしなく腹部を曝け出した獣の弛緩した前脚の、擦り切れた毛の合間に潜む肉球は砂塵を被りかさついていてもなお魅惑的だった。
指の腹に跳ね返る弾力は胸の奥を弾ませ、大きな口の端を緩ませる。桃色の舌でもう一方の前脚を舐る猫の髭だけはぴんと伸びていて凛々しかった。くわ、と開いた口内には鋭い牙が備わっていた。
雪豹の王の末裔であるはずのアリムにはない武器をそっと撫でる。
「いいなあ」
もしも自分にも「これ」が生えていたら。あの日姉を助けることができたのではないだろうか。遠い昔、独り泣き叫ぶアリムを包んだ風とそっくり同じ、生温かな風は癖毛に覆われた耳に甲高い一声を運ぶ。
「そんなの、ちっとも良くないわよ」
くつろいでいた猫は柔軟な身体を強張らせ、アリムの腕の中から逃げ出してしまった。
「何よ、あいつ。わたしが近づくといつも逃げるんだから。ちっとも可愛くないわ」
幼い令嬢は丁寧に編みこまれたお下げ髪に結えたリボンの薔薇色と競い合うがごとく、ふっくらとした頬に憤りの紅を登らせている。
「……仕方ないですよ。だいたいの猫は小さな子供が苦手なんですから」
「うるさいわね! わたしは別に、あんな薄汚いやつのことなんてどうでもいいの!」
元来の、正統なペテルデ人――アリムの祖がこの地に侵攻する遙かな以前から連綿と続く血脈を継ぐ令嬢は真紅の飾り袖を翻しながら腕を組み、零れ落ちんばかりに大きな双眸でアリムをねめつける。
「同い年のくせに、年上ぶった口利かないでちょうだい! わたしは高貴なエテルヴェリ人の世襲貴族であんたは居候の賤しいネミル人なんだから!」
いかにもネミル人らしい――東方の
山岳部で羊を追うリニ人と、平野で葡萄を作るトヴィリ人。互いに反目し争いながらも長い長い歴史の過程でついに一つの「エテルヴェリ」と称される大河となった二つの河には、数多くの支流がある。その一つである、雪深い山脈を居住地とするリニ系の少数民族ツァディン人の裕福な地主の娘であった若奥方こそが、稚い令嬢に亜麻色の髪と翡翠の虹彩を与えたのだ。
光に透かせば金を帯びるだろう薄い茶の三つ編みに伸ばした指と腹の底から湧き起こる痛みは、誇り高い手に払いのけられた。
『……な、なに!? 汚い手で触らないでよ!』
愛くるしい唇を尖らせた令嬢には無礼を詫び、不吉な予感に慄く少年に背を向け走り去っていった。それがアリムとカトゥラの始まりだった。
――お嬢さま、黙ってれば可愛いんだけど、性格がなあ……。
油染みだらけの食卓に座りながら、粗末な寝具に包まれながら、幾度となく繰り返した自省に終わりはない。アリムはどうして自分があんなことをしたのか分からなかった。
深淵から浮かび上がっては弾ける泡沫の面影はカトゥラのものとは似ても似つかないのに。カトゥラはアリムが求める存在ではないのに。
目蓋を下ろせば朧ながらに描かれる顔は白い。穏やかな笑みを浮かべた彼女が、大きな目を細めながら自分を呼ぶ。ふっくらとした木苺の唇がほころぶ。歓喜と哀惜と悔恨が爆発しアリムを呑みこむ。
魂を焦がす激痛に苛まれながら掻き抱いた身体は柔らかかったが、彼女の生命は既に喪われていた。愛した青紫の瞳はもう二度と開かない。繰り返し繰り返し夢の中で再現され、少年から安らかな眠りを奪った光景は、しかし幻でしかなかった。
「――アリム!」
苛立ちの陰に焦燥を隠した詰りが少年を
「あんた、なに呆けてんの?」
「え、あ……もうすぐお祭りだから、何を買おうかなって考えてて、つい……」
「わたしがわざわざ身の程ってものを教えてやってんのに、いい度胸ね」
――僕はそんなこと頼んじゃいない。暇なら部屋に戻って、お貴族さまらしく外国語の勉強か楽器の練習でもしてろよ。
常ならば半ば反射的に怒りを喚起させる高音が、この瞬間ばかりはありがたかった。握り締めた拳を平らな腹部にめり込ませろと命じる衝動を、ぎこちない笑顔で封じる。
「すみません。……でも、楽しみだから」
「あんた、いつも祭の夜は独りぼっちで犬の餌みたいな串焼きの串にいつまでも惨めったらしくしゃぶりついてるくせに“楽しみ”ですって?」
吐き出された吐息に混じる驚愕は黙りこくった少年の誇りを逆撫でした。
生まれながらに全てに恵まれた令嬢は、気心が知れた友を伴に祝祭を謳歌する同僚の歓声に軋む心など持ち合わせてはいまい。だが痛みを受容する感覚ぐらいは備わっているはずだ。隠すつもりなど欠片もない嘲りと蔑みを、幼い美貌ごと殴り飛ばせたらどんなにか心臓に巣食う靄が晴れるだろう。
家に還ることのできない自分が屋敷から放逐されれば、死への道を進むしかなくなることは理解している。自らに課した贖罪を半ばで放棄し、かつて犯した罪を繰り返す恐ろしさも。だからアリムはカトゥラには――自分よりも力で劣る、弱い存在には手を出さない。だが、少しばかりはやり返してもよいだろう。
少年は獲物の影を捉えた、飢えた獣の笑みを形作る。尖って獣めいた犬歯をむき出しにして、華奢な二の腕を掴んで小さな身体を引き寄せた。整った耳殻に唇を寄せると、逼迫した肌は熱病患者の赤に染まった。
「な、なに? アリムのくせに、偉そうな真似して、」
傲慢を滲ませた声色にも戸惑いが滲んでいる。
「実は僕、今年は独りじゃないんです」
数日前に交わした約束は、反復するうちに磨かれ鍵のかかった宝石箱に収められる貴石のごとく煌めくまでになっていた。
「今年は離れのトゥミネさんとお祭りに行くことになったんです」
芳しい花の香りと強張った四肢を蕩かすぬくもりは、燻る熾火を沈め心地良い平穏を齎す。陽光に温められた春の泉に身を浸すかのような幸福は、しかし少年の面から獰猛を剥ぎ取りはしなかった。
「だから、もう飴は要りませんよ。今年はどんな風に貰えるか楽しみだったので、残念ですけど」
ムツタシに移って初めての春分の夜。「あんたが可哀そうだから」とうそぶくカトゥラに足元に放られ、砕けた飴を、女児用の靴に飛び散った細かな破片に至るまで舐め取らされた屈辱は未だ脳裏に焼き付いて癒えそうにない。いくらなんでもあんまりだ、と激高していた親方の妻とは対照的にアリムはどこまでも冷え切ってしまっていた。貴族とは、上に立つ者はそんなものだと分かっていたから。
諦観は鋼である。熱せられ、たたき上げられなければ強くならない。見世物の獣はどんなに鞭を振るわれ調教されていてもやはり獣であり、隙を見せれば鎖を引きちぎって主たる曲芸師に噛みつくのだ。
長い睫毛に囲まれた双眸に怯えと畏れの影が射す。人通りの少ない屋敷の一画は、あらん限りの声を振り絞っても母屋に届くかどうか。
「離しなさいよ! ……離して!」
単純な肉体の力という点では、アリムはカトゥラを凌駕している。ゆえにアリムは、下される罰を恐れぬのならば彼女にどんな暴挙も行えるのだ。小さな頭が割れて脳漿が飛び出すまで近くの樹の幹に叩き付けることも。内臓が破裂するまで柔な腹部に跟を振り下ろすことも。それを納得してくれさえすればいいのだ。
縛めを緩めると少女は毛を逆立て威嚇する猫さながらに飛び跳ね、微笑む少年から距離を取った。
「……あんた、わたしにこんなことしていいと思ってるの?」
「思ってますよ」
痣が残らないように手加減していたし、屋敷の家人たちもアリムに対するカトゥラの横暴には、良家の令嬢らしからぬ振る舞いだと眉を顰めていると耳にしている。だから今回の反撃をカトゥラが両親や祖父母に訴えても、性質の悪い虚言だと一蹴されて終わりだろう。恨むなら、あらぬ嘘をついてアリムを自分付きの使用人にしようとした過去の自分を恨めばいい。好き勝手ばかりしているから周囲の大人に信用されなくなるのだ。
「お嬢さまも、お祭りを楽しんでくださいね」
「――あ、あんたに言われなくてもそうするわよ!」
威勢だけは立派な叫びが木霊し、林檎の樹に止まって羽を休めていた小鳥が飛び立つ。
「馬鹿じゃないの! あんな女と一緒に、なんて」
前方にろくに注意を払わぬまま駆けだした少女の脚は、やがて石に絡め取られた。均衡を崩した肢体が地に叩き付けられる。脆い皮膚は砂礫に削られ、少女は鮮血を垂らした膝を抱えて座り込んだ。真っ直ぐな脚の白さと血の赤さが眼に突き刺さった。
「……アリム」
自分の体格と体力ならば、少女を背負って母屋まで歩めなくもない。カトゥラもそれを望んでいるのだろう。
「人を呼んでくるから、そこでおとなしくしていてくださいね」
だが伸ばされた手はかつてアリムが振り払った者の手ではないから、掴んで立ち上がらせてやる義理はない。立ち上がりたいのなら自分で立ち上がれ。お前よりももっと幼くか弱い子供にさえできたのだから、それぐらいはやってみろ。
「まって」
カトゥラはアリムの期待を裏切った。泣き喚いて助けを命じるだけの惰弱な生物を、自分はどうして恐れて服従していたのだろうか。
首を傾げながら血と土がこびり付いた指に己のものを絡め、引き上げる。しっとりと肌理細やかな肌だけは、カトゥラはトゥミネに似通っていなくもなかった。
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