舌には蜜のように甘い Ⅱ
待雪草が萎れ鈴蘭がくたびれ、三角草と忘れな草と
待ちかねた目覚めの季節。少年は春よりも温かな肢体のぬくもりを噛みしめる。恐らくは今年最後の水仙の花弁を撫でる手に鼓動が乱れた。数日に一度、露台に立つ女から枯れた花を差し出されると、アリムの胸は喜びに膨らむ。
結い上げられもせずに垂らされた波打つ髪がさらさらと揺れる。烏羽色の流れから漂う匂いは花よりも香しく鋭敏な鼻腔に迫った。
「ねえ、アリム」
稚い少女とも淑やかな女ともつかない微笑が跳ねる心臓を締め付ける。アリムとトゥミネが「友」となってからの歳月、大いなる存在にとっては瞬きに等しくとも、独りの少年と女性には決して短くはなかった。アリムはトゥミネとの語らいを通して、自分が世界と認識していた小さな家の外には道があり、またそれぞれの住まいに繋がっていることを知った。
この大ナスラキヤ帝国においては雑多に「カハクーフ人」と纏められる海の向こうから来たかつての支配者たちも、数多の系統に分かたれる。恐らくはトゥミネの亡き母はそのうちの一つの、熱砂の老帝国と接する国の流れを汲むらしい。
白磁の指が爪弾く琵琶の流麗な音に合わせて紡がれるお伽噺は、雪豹の王の遺骸から生えた林檎の実を齧った処女が産んだ英雄――アリムたちネミル人の祖の出生譚に勝るとも劣らぬ神秘と不思議に満ちていた。
「あなた、水仙になった男の人のお話は知っているかしら?」
「初めて聞きました」
小さな頭を左右に振ると、黄味を帯びた淡い灰色の、雪に擬態する獣の毛に似た毛髪がふわりと揺れた。アリムの母や姉が寝物語に謳った民話には、二つに割れば金銀財宝や宮殿が現れる柘榴の実さえ存在したが、花になった男というものと遭遇したのは初めてだった。巧妙に、時に狡賢く知恵を働かせて麗しの姫君と婚礼を上げ、一介の貧乏人から国王になった男の物語に胸を躍らせた経験はあるのだが。
「こんなお話があるのよ。昔々、天上に住まう神様
桃色の唇が、紅く艶めかしい舌が、泉のせせらぎの声が永久に戻らぬ
鼓膜から忍び込み、芳醇な葡萄酒のごとく聴く者を酩酊させる音が止んだ。
「これでおしまいよ」
何かを期待してか、じっとこちらを見つめる双眸は憂いの面紗に覆われていた。
「その男の人も神さまも、良く分からないですね」
「どうして?」
「だって、いくら呪いを掛けられたとしても、水に映った自分を死ぬほど好きになるっていうのは流石に気持ち悪いですし。神さまも神さまで後で後悔するぐらいなら罰なんて下さなければいいじゃないかと思いませんか?」
アリムなら水鏡の中の自分など一瞬で見飽きるだろう。太い眉と大きな目と口で構成された、素朴だが勝気そうな造作は姉のもので見慣れている。愉快そうに目を細める女の、清楚でありながら口元の黒子からそこはかとない色香を漂わせる面にならば、時を忘れて魅入られるかもしれないが。
「……まあ、そう言われてみれば、そうかしらね」
滑らかな喉から忍び笑いが漏れる。舌先で弄れば甘く蕩けそうな飴玉の虹彩からは陰鬱という名の包みが剥ぎ取られていた。
「でしょう? 西の国は、神さまがそんなに馬鹿で大丈夫なんですか?」
「さあ? でも、こっちの神さまも神さまで結構でたらめよね」
兄妹であり夫婦である原始の神々は互いの家畜の優劣の差を巡って仲違いし、天と地に分かれて別居する。父である至高神に焦がれた下位の女神は独力で子を孕むが、生まれた子が両性具有の醜怪な怪物であったために彼であり彼女を捨て去る。己を生み出した者への敬意と思慕を忘れて跋扈する人間を戒めるために火を取り上げた神は、結局はある英雄に出し抜かれ……。
この山間の国に堆積した文化と伝承は、互いにもつれ合ってついに一つの縄になった糸か織物のようなものなのだ。どれか一つでも欠けたらペテルデというタペストリーは成り立たない。不要と判断された糸は――帝国政府の管轄の下、彼らの故地への移住が推し進められついにペテルデから姿を消した「草原の民」などは――排除される。本来あるべき、彼らがかつて在った場所に戻される。その良し悪しは、アリムなどには判ぜられない。
異なる要素が混じり合うにはとてつもない時間と力を要する。九百年前は東方から侵攻してきた野蛮な侵略者であったがついにペテルデに根付いたネミル人のように、全ての民族がこの地の主たる民と融和できるとは限らないのだ。
飾り窓の向こうには柔らかな青が広がっていた。ぽっかりと浮かぶ白の一つは魚を形作っていた。彼にしては珍しく小難しい事象に注がれていた少年の関心は、瞬きよりも脈拍よりも素早く卑近の慶事に引き寄せられた。
何が面白いのかは分からないが――もしかしたら塵が付いているのかもしれない――じっとアリムの頬を眺めていた女の、華奢な肩を揺さぶる。
「あの雲、魚に似てません?」
はっと瞬いた目は夢を見ているようだった。起きながら夢幻を、あるいは過去を彷徨う女の、握り締めたひんやりとした指はひ弱な稚魚を連想させた。
誰が覗き見ているのかも定かではないのに、すんなりとした
大きな口の端をにんまりと吊り上げた、得意げな笑みが懐かしい。
「あら、本当だわ。たっぷり餌を貰った、丸々肥った小魚ね」
仰いだ泡沫の微笑は姉のものとはかけ離れているのに、アリムの記憶の澱から小さな水泡を浮かびあがらせた。
「僕の故郷では、春を祝うお祭りをやるんです」
「春分祭でしょう? たしか、お魚や鏡を飾って祝うのよね?」
「ええ!」
冬の終わりと春の始まりを言祝ぐ祝祭はアリムが属する民族特有のものだが、類する催しは他民族の間でも広範に行われる。刑死した救世主が天上に引き上げられた喜びを追憶する唯一神教徒の祭日と合体した新年祭は、もはやネミル人だけのものではなくなっていた。
長い長い、死にも似た眠りから目覚め、蓄えた生命を爆発させる樹々の世話に駆けまわっている最中。悪戯な風が運ぶ祭日の香りは故郷のものとは異なっているけれど愛おしい。屋敷の主人からしばしの自由を赦されるその日は、家族から離れ労苦を強いられる使用人たちにとっては待ちかねた休息の日である。この二年来、給金のほとんどを実家への仕送りに充てるアリムは適当な菓子を一つ二つ買うだけの、侘しい一日を過ごしていたが。
「……あの、だから、」
もしもトゥミネが喜びの刻の来訪を分かち合ってくれるのなら。
「僕と、一緒に……」
アリムはなけなしの小遣いを叩いて彼女と交換する贈り物を手に入れる。彼女が喜んでくれるのなら、月に一度の楽しみの買い食いだって一生我慢できる。
「おまつりに……」
行きませんか。
羽虫の羽ばたき同然の誘いを発し終えた途端、背には冷たい汗が噴き出た。元来血色の良い、林檎のごとくつやつやと色づいた頬は熱を帯びて紅潮する。琥珀の目を見開いた女は妖術師の魔術にかけられ石像と化したよう。
「トゥミネさん?」
呼吸も、瞬きすらも手放した女は、手を伸ばして彼女に生命が宿っているかを確かめずにはいられないほどに儚げだった。
ぺたぺたと、いささか無遠慮に触れた頬が赤らむ。
「あ、」
けぶる睫毛に囲まれた榛の実は潤み、桃の花弁は半開きに。
「――もちろんよ!」
悪しき呪いから解放された女性の面で大輪の花が咲き誇る。絢爛たる薔薇ではなく、控えめで慎ましい菫や清純な白百合に似た笑顔に少年は息を呑んだ。
トゥミネは美しいと言えば美しいが、その造作は決して抜きんでている訳ではない。単純に判断を下せば、屋敷の主人の孫娘の容貌の方が勝ってもいた。
カトゥラの癇癪と我儘の格好の的であるアリムは、幼い令嬢の怒り顔だけではなく、満面の笑顔を拝するという機会にも恵まれていた。あの令嬢は、見た目だけならまさしく精巧に作られた人形さながらに可憐なのだ。カトゥラと比較すれば、トゥミネはその足元ならばともかく腹部に及ぶかどうか、といったところだろう。昨年の春分祭に合わせて、遠方より訪れた屋敷の奥方の親類である、太古の女神に匹敵すると噂される美貌で幾人かの年頃の使用人の胸を掻き毟った、銀髪の「エルメリお姉さま」に比べれば、なおさら。
だがアリムは麗しい彼女らを凌駕する輝きを、美しいがありふれた容姿のトゥミネの中に見出した。
「嬉しい」
十も年下の、しかも大した金を持ってはいない――言い換えれば、自分を十分に満足させることなどできはしないと分かり切っている少年に祭に誘われた。ただそれだけでこんなにも無邪気に喜ぶ存在など、世界中を隅々まで探したって他にいるものか。
「今からわくわくするわ。……あなたも?」
「は、はい!」
アリムほどではないが頬を赤く染めたトゥミネの、背に回された腕は戦慄いていた。肌から沁みる体温と鼓動は、アリムの身体をも燃え上がらせた。
「一緒に飴を食べましょうね」
甘い甘い、幽かに湿った囁きが耳朶をくすぐる。煮詰め小麦粉でとろみをつけた果汁に木の実を浸し、陽光で乾燥させた
「……いいですね。トゥミネさんは何味が好きですか?」
「葡萄よ。こればっかりは譲れないわ! ……あなたは?」
「……僕もです」
互いの舌の上をくすぐる幻の風味は完全に同じものではないが、これからは同じになる。屈辱の味を忘れられる。
身体の芯を蕩かす幸福を噛みしめ、指と指を絡めながら見やった蒼からは、魚影は既に消え去っていた。それがどこに泳ぎ去ったのかは神以外のどんな者にも知り得ない。だが太陽を覆う厚い雲こそが、強風に千切られた尾びれの切れ端なのかもしれなかった。
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