舌には蜜のように甘い Ⅰ

「この花は好きですか?」

 匂菫の馥郁たる香気が土に塗れた指から白魚の指に移る。

「もちろんよ。……とっても綺麗」

 緩やかに持ち上げられた唇と頬には染みも不自然な赤らみもない。陰惨でありながら淫靡でもあった光景の名残は白粉で隠されているのか、始めから存在しなかったのか。トゥミネはそれを詳らかにしなかった。ただ、やんわりと触れたアリムに「昨日はびっくりさせたわね」と微笑むだけで。そして、申し訳なさそうに顔を伏せながら、けれども瞳を喜びで煌めかせながら、萎れた水仙を差し出した。

『お部屋がまた寂しくなっちゃうわ』

 濡れた灰色の瞳は、少年の脳裏から大人たちの制止を――あの女に関わるな――千々に切り裂き、吹き飛ばした。

「暇があるなら、お茶を飲んでいかない? 麺麭パンやお菓子も用意するから」

 うきうきと弾む声を裏切ることはできなかった。

 ――私、ずっと、友達と一緒にお茶をしたかったの。あどけない少女の笑みを散らすのは心無い者のすることだ。

「は、はい!」

「あなたはどんなお菓子が好きかしら? 紅茶にはお砂糖をどのくらい入れるの?」

 謳うように問いかける女の手の中にはアリムが差し出した菫の花束がある。藍色を帯びた、夜明けの空の紫は何故だか少年の胸に言語を絶する苦痛を齎した。アリムを生きながら焼く炎は過去を糧に燃え盛っている。ひっそりと咲き誇る野の花を宿した瞳の娘の笑顔が永遠に喪われたと突き付けられた瞬間の激痛は、時空を飛び越えてアリムに迫り、苛む。

 どうして姉が自死してしまったのかなど分かり切っているが、反復せずにはいられない。アリムが弱かったから、彼女は永遠に続く責苦の獄に堕ちてしまったのだ。

 水が欲しかった。この焼け爛れた心を癒し、包んでくれる何かが。薄い目蓋を下ろすと、暗闇のさなかにちらつく娘の笑顔が。

 ――ごめん。

 伸ばした手は叩かれ拒絶された。地に伏した子供は青い眼をぎらつかせる。取り返しのつかない過ちは穏やかな春の午後になされた。生命が横溢する刻を間近に控えた、けれども鉛色の帳に覆われた空の下ではなくて。

 厚い雲の隙間から零れる光が、熱に苛まれた双眸を刺す。

「……トゥミネさん?」

 少年は座る寝台の主たる女の姿がいつの間にか傍らから消えていたことに安堵し、一方で落胆した。密やかに抱え続けた身を蝕む毒を、腐り堕ちた肉と想いの断片を、トゥミネになら曝け出せそうだったのに。同じ悲しみを共有する家族にはもちろん、神にさえ告白できなかった罪を。

 幻の青紫の眼が柔らかに細められる。豊かな睫毛に囲まれた瞳が閉ざされる。小さな紅い唇は何かを待っているかのように淡く開いていて――

「ツァ―ラねえさん」

「ツァ―ラって、誰なの?」

 華奢な腕を細やかに震わせながらも銀の盆を捧げ持つ女の笑顔は、アリムが奥底に住まわせ続けた娘のそれと非常に似通っていた。

 差し出された白磁に湛えられた、琥珀を融かしたかのような液体から立ち昇る湯気は甘い。一口含めば穏やかに染み渡る香気と微かに接する肌から伝わる他者のぬくもりは、強張った舌の根を解きほぐした。

「……僕の、二番目のねえさんです」

 その名を口に出すのは数年振りだった。あまりにも久方ぶりなので、舌がもつれた。かつては自分の物のようにすら感じられるほど近くに在った響きなのに。

「本当は“ツァレ”って言うのが正しいんでしょうけど、僕の村ではツァ―ラって崩れた形で伝わってて」

 これ以上は今は何も言えそうになかった。灰とも茶ともつかない眼差しは少年に注がれていたが、残念ながらトゥミネの期待には応えられそうにない。

 小麦色の麺麭にかぶりつく。冷めても芳しい生地はふわふわと柔らかかった。焦げた乾酪チーズと卵の黄味の濃厚な風味が、小麦の滋味を引き立てていた。

「いいお名前ね」

 ツァレ。その短い連なりが飴玉であるかのように、遠い昔に別れた友のものであるかのように、トゥミネはうっとりと呟く。哀愁を帯びた吐息が象牙の髪に隠れた耳殻を撫でた。 

「そうですか? “ツァレ”って女だか男だかも分からない神さまの名前でしょう?」

 九百をも越える歳月を遡ればこの世の悪と女を創りだした女神として畏れられ、現在でも狩りを司り獣たちを保護する男神として祈りを捧げられる神。女としても男としても語られる神の異なる貌「屠る者ツァレ」とその変形ツァーラは女に与えるには猛々しく禍々しいが、ペテルデ人の女児の名としてはありふれたものでもあった。

「女神さまの別名よ。女神さまは銀の髪に緑の瞳の、お美しい方なのよ」

 麗しの森の女主人の別称でもあるがゆえに。

 禁じられ排斥されながらも根絶されるには至らなかった古代の異端の物語。お伽噺の枠の中でのみ命脈を保つまでに凋落した神々や英雄の武勇に、あからさまに異郷の血を継いでいると判ぜられる女が親しんでいることが不思議だった。

「でも女なのか男なのかはっきりしないんですよ」

 少年は苦味と違和感を嚥下する。冷めてぬるくなった紅茶からは快い甘味が失われていて、渋みばかりが舌を刺した。丹念に洗い流されてはいるが、染みが目立つ女物の上衣の袖を握り締める。普段は意識したこともない――正確には、気にする余裕さえないのだ――が、幾ら貧困に喘いだ末に奉公に出たとはいえ、着る物に困っているのはアリムぐらいのものだ。

『あんた、そんな服着てて恥ずかしくないの?』

 男だか女だかはっきりしない。

 いつかの幼い令嬢の嘲笑が、怒りと苛立ちを伴って蘇る。魂がひりつく――水が恋しくなる。

「あ、あの……」

 仰いだ面は静かに凪いでいた。泉の目。その喩えはむしろ淡い青色をした自分の虹彩こそが相応しいのだろうが、トゥミネの瞳は澄んで清らかだった。

「ああ、お代わりね。ごめんなさいね、気が利かなくて」

 華奢な指が空の茶器の把手に、少年の太く逞しい指に絡む。蛇の交合を思わせる艶めかしい動きには直視を躊躇わせる淫らが混じってもいた。

「……ささくれてるわ。痛かったでしょう?」

「柘榴の剪定をしたときに、ちょっと……。でも、もう大丈夫ですよ」 

 沈んだ黄金を秘めた灰色が潤む。整えられ、磨かれた爪の先が乾き黒ずんだ血の痕をなぞった。

「まだ完全に治ってはいないでしょう? この一体には昔から柘榴が多いから、また剪定することもあるわよね?」

「はい。でも、ご心配には、」

「もしよかったら、切り傷に効く塗り薬を分けてあげましょうか? 私、いいのを持ってるのよ」

 白磁ごとアリムの指を包む両手は染み一つ傷一つなく美しい。労働を知らぬ者だけに許される汚れない手をしたトゥミネも、不慮の傷を負うことがあるらしい。黒檀の髪がかかる細い首の半ばまでを淑やかに秘め隠す高い襟の隙間からは、薄紅が覗いていた。まさか、昨日アリムが目の前で繰り広げられる暴挙に気圧され、制止もせずに目を逸らしていた間に、あの傲岸な女中に首を絞められでもしたのだろうか。

「トゥミネさん」

 自由な左手で、滑らかな首筋を探る。白かった皮膚はたちまち漆にかぶれたかのような赤に染まった。

「……アリム」

 右手を縛めていた熱が離れた。トゥミネは上気した頬もそのままにアリムをひたと見つめている。

「……その、お茶には、お砂糖をどれくらい入れる?」

「さっきよりも少し、大目に」

「これぐらいでいいかしら?」   

 赤茶の湖面に漣が立つ。薔薇の蕾に彩られた陶器の匙は踊り、山盛りの白い粒は溶け消える。砂糖を融かす。ただそれだけの作業を、トゥミネは熱心に取り組んでいた。

 仄赤く染まった項も、飾り袖を纏った腕も、帯を締めた腹回りも、目の前の年上の女の身体は折れんばかりに細かった。その嫋やかさゆえに、胸部と腰回りの女性らしいまろみが際立っていた。目を離せなくなった。触ってみたくなった。そんなことはしていいはずはないのに。

 いい加減にこちらを向いてほしい。でないとアリムはとんでもないことをしてしまう。聞き覚えのない――恐らくは即興の――鼻歌を歌う女に跳びかかってしまいかねない。

 脳髄を焼く衝動をねじ伏せるのに要する労苦は、幼い令嬢の甲高い嘲りを堪える際のものの比ではなかった。母や姉などの身内の女には、どんなにひっついて触れ合っていても感じなかった欲望は鎌首を擡げる蛇だった。

 ――どうしてこんなに砂糖が溶けるのが遅いんだ。

 飾り窓から忍び込む陽光が、女の身体の輪郭を輝かしく縁どる。紫を帯びた暗褐色の髪に縁どられた沈鬱だが荘厳な面持ちはやがて驚愕と焦燥を通して恥じらいを滲ませて……。

「ごめんなさい、アリム」

 悪戯が発覚した少女そのものの顔で、トゥミネはアリムを見下ろした。

「お砂糖、入れすぎちゃったみたいなの」 

 融け残った甘味が底に溜った器に口を付ける。

 ――甘い。むせ返り、咳き込むほどの強烈な風味の襲撃は凄まじい。とても飲めたものではない。

「ほ、ほんとですね」

 砂糖をそのまま齧っていた方が幾分かましかもしれなかったが、アリムは一気に飲み干した。舌をざらつかせる溶け残りも、全て。そうすれば悲しげに眉を寄せた女の面に、再び笑顔が咲くと思ったから。この都で初めての「友」を喜ばせたかったから。

「……大丈夫だった?」

「まあ、なんとか……」

 トゥミネは萎れた花に変じ、きつく唇を噛みしめる。強張った横顔を解きほぐしてやれるのは、アリムしかいない。

「でも、また飲みたくなりました」

 擦過傷だらけの人差し指で品よく生けられた菫を指し示す。

「あれが枯れる頃に新しい花を持ってきますから、その時に、」

「ええ! そうしましょう!」

 白百合と見紛う笑顔と華やいだ声に魅せられてしまったために、少年は最後の一言を紡ぐことはできなかった。

「約束よ。あの花が枯れたら、あなたは私に会いに来る」

 ――待ってるわ。

 癖のある毛髪に隠れた耳をくすぐる囁きは蜜のように甘かった。 

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