わたしはお前の頭を砕かせる Ⅲ

 しっとりとした光沢を放つまでに磨き抜かれた飴色の扉は堅牢な要塞さながらに少年を威圧する。小刻みに震えう指を叩きつけようとしては引っ込めて。乱れた呼吸を整え、挑んでは破れてをもうかれこれ四半刻は繰り返している。

 飢え、ふらついた野の獣よろしく徘徊する少年の腕の中には滑らかな布があった。汚してはなるまい、と折りたたんで懐中に忍ばせていた肩掛けには傷こそないものの醜い皺が寄っている。隙を見せれば興味本位でアリムの手から見慣れぬ女物を奪い取らん、と目を光らせる同室の少年たちを警戒し、抱き締めながら眠ったのが悪かったらしい。

 早朝の凍てついた空気と怒鳴り声に導かれ辿りついた目覚めの朝、寝ぼけ眼が映したのは雑巾よろしく捩じられた紺だった。破れや解れがあっては大事だ、と広げた肩掛けに大きな唾液の跡を発見した瞬間。常ならばしつこくまとわりつく眠気は吹き飛んだ。

 アリムの寝相は決して良いものではないのに、どうして大切な物を抱えたまま床に就いたのか。

 いい匂いがしたから。自分自身すら誤魔化し切れぬ言い訳は、舌に乗せられることもなく。快い甘い香りはすっかり消え失せ、馴染みのあるアリムの体臭に――乾いた砂埃の匂いに染まっていた。

 有り余る腕力に羽交い絞めにされた布はあえかな衣擦れでもって抗議する。密やかな囁きは肩掛けの本来の持ち主の声に似ていた。

 癖毛に覆われた頭が傾ぐ。

 ぐしゃぐしゃに皺が寄ったままの状態で返されてもトゥミネを困らせてしまうだけだろう。もしかしたら、こんなものは要らないと突き返されてしまうかもしれない。ならばこっそり親方の妻にお願いして、一度洗濯をしてもらってからもう一度出向いた方が良いだろう。

 目覚めているかすら定かではない彼女に自分の存在を気取られてはならない。少年は得物を狙う豹の――伝承上の先祖の足取りを真似る。

 一歩は積み重ねれば十歩になる。彼女の部屋がある二階から一階に下る階段はもうすぐだったが、

「……おはよう、小さな庭師さん」

 昼食を半刻後に控える時間帯にはそぐわぬ気だるげな挨拶が、密やかな歩みを制した。弾かれたように振り返った少年は肩越しに女の甘やかな笑みを仰ぐ。

 緩やかに波打つ艶やかな髪を簡素に結い上げた彼女の露わになった首筋は折れんばかりに細い。帯が締められた腰は柳のようで、こうして立っているのもやっと、という儚い風情が漂っていた。

 紅も引かれていない、生来の桃色に彩られた花弁がほころぶ。

「それ、わざわざ返しに来てくれたの?」

 澄んだ榛の瞳は少年の腕の中の物体ではなく、狼狽え赤らんだ幼い顔を見据えていた。女が小首をかしげると、横髪がさらさらと華奢な肩を掠める。女が奏でる衣擦れはアリムのものと同じであるはずなのに違っていた。

「ありがとう。でも、それはあなたにあげたつもりだったから、返しになんて来てくれなくても良かったのに」

 言葉とは裏腹に、彼女の声音は奇妙に明るく朗らかだった。飴を貰った少女のあどけなさを纏ってもいた。

「でも、僕がこんなの持ってても、仕方な――あ!」

「どうしたの?」

 飾り袖から伸びた嫋やかな手が、ひび割れささくれた少年の指先を包む。頬紅を叩いてなどいないだろうに色づいた頬に落ちる睫毛の影は長く濃かった。美しい双眸を囲む睫毛そのものも、影に負けぬほどに黒々としていた。

 光の加減によってこちらとあちらに――かつて海峡を越えてこの地を征服した大陸西部の民にも、蹂躙され軛に繋がれながらも力を蓄えついに不遜な征服者を駆逐した中部の民にも変わる女は、憂いを湛えた眼差しでアリムを射抜き絡め取る。

「……その、僕、トゥミネさんの肩掛けに、」

「私の肩掛けに?」

「よ、よだれを……ごめんなさい!」

 犯した罪を吐露し、震える少年の耳朶を軽やかな笑い声がくすぐった。

「やだ。そんなこと気にしてたの?」

 目を細めて微笑む女性は腹を満たした日向で伸びをする猫に通じる優雅さを備えている。アリムより十は年上だというのに、少女のように可憐ですらあった。トゥミネの面差しからは怒気は感じられないが、彼女から許しを下されるまではアリムの胸中の蟠りは融けない。

「すみません。せっかく綺麗な刺繍がしてあったのに」 

「別によだれぐらいどうってこと――そうだわ!」

 頭上から降り注ぐ呟きに、隠しきれない喜色が滲む。自分の持ち物に他人の体液を付けられても激しないどころか、笑ってあしらえるトゥミネの寛大さはアリムの想像の範疇を越えていた。

「だったらアリム。あなた、私の“友達”になってちょうだい」

 とっておきの思い付きであるかのごとく齎された宣告も。

「え? ――僕とトゥミネさんが?」

 突然の申し出に不服を覚えるでも、まして煩わしさに悩まされている訳でもないが、こうなった理由が理解できない。何がどう繋がったら、所持品を汚されることと友人になることが等しくなるのだろう。

 ――まさか、まだ寝ぼけているのではないだろうか。

 渦巻く疑念はいささか落ち着きの足りない舌に乗せられる。

「あの、トゥミネさん」

「なあに?」

「寝言は寝ながら言うものですよ」

 少年の口をこじ開けて外界に飛び出た呟きは、意図せぬ辛辣な棘を生やしていて、いっそ冷淡にすら響いた。

「……そうよね。私みたいな女を友達にするのは厭よね」

 かける言葉が見つからない。どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。アリムはただ、トゥミネが正気かどうか確かめたかっただけで――

これもこれでいささか辛辣にすぎたかもしれない。

 どちらにせよ、アリムはトゥミネに対して二度もとてつもない非礼を犯してしまったのだ。だがその罪はまだ取り返しがつく。

「ト、トゥミネさん。僕は、」

「……いいのよ、そんな顔しなくても。あなたは何も悪くないんだから」

 勇気を振り絞って甘やかな茶の双眸を覗き込むと、気まずげに目線を逸らされた。握り締めた肩掛けの端を弄る仕草は、女の年齢不相応な脆さを示していていじらしかった。

 所在なさげに蠢く指先ごと細い手を掴む。

「違うんです。さっきのは、あなたと友達になるのが嫌とかそういうつもりで言ったことじゃないんです」

「……」

 ゆるゆると持ち上げられた半ば伏せられていた目蓋を、厚い雲と嵌め殺しの硝子窓に遮られた陽光が朧に照らす。その白さは少年の脳裏に凛と立つ水仙の像を描かせた。今日のトゥミネは深い緑に袖を通しているものだから、余計に踏みつぶされ打ちひしがれたか弱い花の精めいた風情が漂っている。トゥミネの面差しは整ってはいても、市街には掃いて捨てられるほど転がっている程度のものなのに、惹きつけられる。もう一度、彼女の微笑みに会いたくなる。

「あんまり嬉しかったから、信じられなくて。……もしかして、揶揄われてるんじゃないかって」

 しどろもどろに吐き出したのは紛れもない真実であった。

「夢みたいだったから、つい、あんなこと」 

 アリムは嬉しかったのだ。独りこの遙か昔――おおよそ千と数百年振りの大陸中南部統一がなされて五十年。以来ずっと総督府であり続けたペテルデが一つの国として在った頃からの都に移ってから、ぬくもりに飢えていた。極貧でありながらも温かな我が家や親きょうだいに代わる者を求めても与えられることは少なかったから、欲する熱を不意に差し出されて混乱に囚われてしまったのだ。

「……そう」

 拒絶への恐れに曇った双眸が交錯する。立ち込める暗雲は互いの瞳の輝きに吹き飛ばされた。

「そうだったのね。――私も、待っていたの。ずっと」

 嫋やかな腕が、肢体が、芳しい一房が少年にもたれかかる。肩に触れた弾力と柔らかさの正体に思い至ると、少年の心臓は咆哮をあげて悶え狂った。

 この穏やかな時が永遠に続けばいい。細やかな願いを込めて女の背に回した腕に、氷柱の一声が叩き付けられる。

「真昼間から男と抱き合うなんて、いいご身分ですね」

 戦慄き細い面を蒼ざめさせるトゥミネの背後に控える若くはない女の無表情には見覚えがあった。酒と友と宴会を愛するペテルデ人。中でも地位と財産に恵まれた者の常として、並外れたもてなし好きである屋敷の主人の遊興を管理し取り仕切る女の瞳は氷どころではない冷ややかさを放っている。恭しく持つ湯沸かし器サモワールと薔薇や果物の甘露煮が乗せられた銀の盆の比ではなかった。

「逢引は結構ですが、せめてご自分のお部屋でなさってくださいませ」

「ごめんなさい」

 噛みしめられた唇から漏れる囁きはほとんど呼気同然だった。生気が失せた目で背後の使用人の機嫌を窺う女には、「幽霊女」の仇名がこれ以上はないというぐらいに相応しかった。

「謝罪など不要です。あなたを赦すのも罰するのも、わたくしの役目を越えていますから」

「これからは気を付けるわ。だから、お願い……」 

 憐れみを誘う懇願を一蹴した女は、立ち上がったトゥミネの耳元で何事かを囁く。路傍に転がる小石か塵屑であるかのようにアリムを見下した女の口元は皮肉と侮蔑で歪められていた。

 ――このことは全て報告させていただきます。

 色褪せた唇の動きから読み取った宣告は、青菜にとっての塩、悪魔にとっての聖水に匹敵する効能があったらしい。

 女は、崩れ落ちアリムに抱きかかえられるトゥミネの意志など改めもせずに彼女の部屋の扉をあけ放つ。横目で覗いた室内に鎮座する寝台の、乱れた敷布を剥ぎ取った彼女の眉は不快を表し顰められていた。

「――い、た」

 アリムからトゥミネを奪い取った女の腕は太くも逞しくもない。ゆえに線が細いとはいえ女として十分に成熟した身体は寝台まで引きずられた。

「さあ、召し上がってください」 

 存外に繊細な指が嫋やかな顎を捕らえる。淡く開いた唇から柔な口内に赤茶の液体が侵入する。

「――っ」

 トゥミネが咳き込んでも、途切れ途切れの掠れた哀訴にも、女は揺るがなかった。差し込まれた銀の匙に絡む舌の紅さと、鏡台の上の花瓶に生けられた水仙の白の対比が艶めかしかった。昨日生けられたばかりの花は既にくたびれていた。

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