わたしはお前の頭を砕かせる Ⅱ

 目前の女の細い眉を吊り上がらせているのは怒りである。糖蜜を湛えた銀器の煌めきを放つ瞳は涙を湛えて潤んでいた。

 五人から六人の同年代の使用人が雑多に詰め込まれる寝室とは相容れない、華美になり過ぎない程度に飾られた部屋は異国のようで、柔らかな寝台に腰を下ろしているとかえって背筋が強張った。 

「だから私はやめてって言ったのに」

 腫れ、熱を持つ箇所に触れる指先の冷たさは心地良い。豊かな髪から漂う香りは――菫の香油に妨げられ、彼女本来の匂いは嗅ぎ分けられなかったが、恐らく甘く穏やかなのだろう。

「すみません。でも、」

「“命に別状はなかったからいい”じゃないでしょう? あともうちょっとで死んでいたかもしれないのよ?」

 トゥミネの美しい声は怒気さえも名手による琴の音に代える。離れの主たる彼女は、異国の薫風漂う顔立ちやすらりとした肢体も魅力的だが、何より声が素晴らしかった。妙齢の女性の華やぎと少女の透明なあどけなさをどこか少年のようですらある涼しさが引き締め、快い調和を生み出す。

 アリムの足首に布を巻く女の手つきは懸命だがたどたどしい。こちらから意識して話しかけなければ会話が途切れてしまう。

 ――もっと聞きたい。

 焦燥とも不安ともつかない、初めて経験する類の胸の軋みは耐えがたかった。この女性の前で取り返しのつかない失敗を――調子に乗って登った木から落ちる、という大失態を犯した少し前の自分を殴りたくなった。その失態のおかげで「手当をする」という名目の元、彼女の部屋に招かれたのだとしても。

「……でも、僕の着地は中々のものだったでしょう?」

 アリムたち、ペテルデ西南部の総督領特別管轄区ネミル州を生地とする民は雪豹の子孫であると伝えられている。豹とは猫の仲間であり、猫は高所からの着地に長ける。猫でさえ落下に耐える、いわんや豹をや。

「僕はネミル人だから、次はもっと上手くやれますよ」

 二階建ての民家の屋根に相当する高さから落下しつつも、機敏に枝を掴み衝撃を和らげた少年は誇らしげに胸を張った。これでトゥミネも、小枝に裂かれた頬から血を流し、捻った足首を掴んで呻る無様なアリムの姿を忘れてくれるに違いない。

「……私が言いたいのはそういうことじゃないのよ、アリム」

 しっとりと湿った、どこか蛇の腹に似た掌が乾いて赤黒い血を、一筋の擦過傷を撫でる。奔る痛みと手入れされ肌理細やかな肌のぬくもりは微かな疑問を霧消させた。自分だってこうして話をする以前から彼女の名を知っていたのだ。トゥミネが一介の使用人にしか過ぎないアリムの名をどこかで耳にしていたとしても不思議ではない。

 アリムの身体は年相応の、少女にも通ずる幼さを宿した顔立ちに反して、生来骨太でがっしりとしている。さらにその上に庭師として鍛えられる最中に培われた筋肉を纏う少年のほとんど唯一の柔らかさを――熟れた林檎のように紅潮した頬を撫でる女の口元はほころび、瞳は濡れて艶めいていた。

「あなた、せっかくの可愛いほっぺたに傷まで作って、」

 生まれたばかりの子羊を抱きかかえることを始めて許された故郷の村の娘と同じ顔でアリムを見下ろす女の熱が、肌から心に染み入る。湧き起こる炎は湖面に生じた漣のごとく密やかに、だが急速に少年を呑みこんだ。胸の奥の熾火は血の巡りに乗って癖のある淡い灰黄色の毛髪に覆われた旋毛から爪先まで、彼女と触れ合う頬にまで行き渡る。

 吐息が火照った項を撫でる。ふと気が付くと澄んだ薄茶が間近に迫っていた。自分より頭一つ分は背が高い女の骨格は華奢で頼りなかった。さして大きくはないが小さくもない、丁度よく膨らんだ胸部のまろみと折れんばかりの腰のくびれは男には無い美と魅力を形作っている。ふわりとした裳に線が隠れた臀部と脚は――それを確かめることは彼女を辱めることと同義であった。

「ぼ、僕は男だから顔の傷なんてどうでもいいんですよ!」

 ぶん、と勢いよく頭を振る少年が追い出したかったのは近頃芽生えだした異性の肉体への関心や不埒な妄想なのだが、相対する女は自らへの拒絶だと受け取ったらしい。

「あ、そう、ね。……ごめんなさい」

 はっと目を瞠り、けぶる睫毛を瞬かせる女の瞳に過ったのは焦燥だった。年端も行かない少年の頤を、まるで接吻をするかのように触れてしまった気まずさ。どうして自分がそうしてしまったのか理解できないという苛立ちと自己嫌悪。項垂れるトゥミネの横顔で渦巻く感情は分かりやすかった。最も明白なのは畏れだった。

「あなたに不快な思いをさせてしまったかしら? でも、私は……」

 気味の悪い女としてアリムに軽蔑されはしないかという不安が、とうに成人した女に少女めいた表情を浮かべさせている。

「ただ、あなたと、その……」 

 泣き出す寸前の少女の、縋りつく眼差しには覚えがあった。彼女の瞳から憂いを拭う方法も。  

「別に、僕は嫌だなんて少しも思ってませんよ。少しびっくりしたけど」

「……ほんとうに?」

 豪雨に打たれ萎れていた花が新たな蕾を付けた。躊躇いながら伸ばされた手を奪い取るかのような早急さでもって掴むと、蕾は満開に咲き誇った。

「はい。手当もしてくださって、とても感謝しています」

「……感謝、だなんて。あなたは私の我儘のせいで怪我をしたんだから、当然のことをしただけよ」

 今更だけど、ありがとう。

 トゥミネは鏡台の脇に置かれていた花を指さす。緩められた唇と上気した頬の桃色と水仙の白の対比が眩かった。紅や白粉、その他アリムには用途どころか名称すら察せられぬ細々とした小物が並べられた台の上には、丁寧に畳まれた紺の布があった。

「せめてものお礼に、これを掛けて行って。こんなに寒いのにそんな薄着のままでいたら、ほんとに風邪をひいちゃうわ」

 控えめながら精緻に柘榴を意匠化した刺繍が施された肩掛けは、擦り切れていながらも女児用の華やぎを残した上衣と喧嘩をする。

 いかにも高級な衣類は一介の使用人にはそぐわない。うっかり汚したり枝に引っかけでもしたら、何か月分の給金が飛ぶのか。考えるだけでも恐ろしいのだが――

「これ、すごく軽くて温かいの。あなたの仕事の邪魔にはならないと思うから」

 輝く笑顔は細やかな危惧を吹き飛ばした。

「あ、ああ、ありがとうございます! ええと、」

 彼女に手向ける敬称をいかほどのものにすべきか。数か月前、ふらりと主人に伴われてこの屋敷に現れたトゥミネの素性は晴れぬ霧に包まれていて定かではない。身分どころか、以前はどこで何をしていたのかすらも。週に一度、教会に通う以外は概ね部屋に閉じこもっていること以外は。

「……トゥミネ、さま?」

 少年はしばし逡巡した後、主である世襲貴族の男の孫娘に捧げるものと同程度の敬意を年上の女に捧げた。

「私に“様”なんていらないわ。私とあなたの身分は同じなんだから、もっと気軽に――」

「分かりました! だったらあなたは僕より年上なので“トゥミネさん”と呼びます!」

 たとえトゥミネの裡で流れる血に高貴が一滴すらも混じらぬのだとしても。彼女は尊敬の念を抱いて接すべき存在なのだと感じたから。

「駄目ですか? ――トゥミネさん」

 不服ながら上目づかいに呆然と立ちすくむ女を見上げる。口元に手を当てた彼女の頬は不自然に赤らんでいた。

「……ああ、」

 細い指の合間から漏れた呟きは細やかで、

「――どこほっつき回ってんだ、アリム! そろそろメシだぞ!」

 嵌め殺しの硝子窓の向こうから寒風の音と共に忍び込んでくる野太い叫びに蹴散らされ、少年の耳には届かなかった。


 使用人の食事にしては豪勢な羊肉の煮込みは、主人一族の昼食の残りだった。

 礼儀に適っていない、見苦しいなどの非難は承知で、アリムは口いっぱいに冷めても芳しい肉を詰め込む。お世辞にも裕福とは評せない故郷の村でも抜きんでて貧しく、また最も子沢山だった実家での食事は戦争だった。年の離れた末っ子のアリムでさえも、隙を見せれば容赦なく食べ盛りのきょうだいたちに好物を奪われる。奪われたくなければ、欲しいのならば、自分の物にすればいい。

 幼少期に叩きこまれた癖は、二番目と三番目の兄は出稼ぎのために、姉たちは嫁して家から離れても、アリム自身が奉公に出て二年経った現在でも抜けなかった。

「しっかしお前、足は少しおとなしくしてりゃあすぐに治るだろうから構いやしねえけど、頬は派手にやっちまったなあ」

 向かい合って食卓に坐す厳めしいひげ面の男の口ぶりは優しく、アリムを案じる調子を帯びている。

「これじゃカトゥラお嬢様が黙っちゃいねえぞ。もしかすると、面倒なことになるかもしれねえ」

「どうしてお嬢さまが僕の怪我のことで騒ぐんですか?」

 まだ昼間だというのに葡萄酒を干した親方は首まで赤く染めていたが、眼差しは明晰だった。

「どうしてってお前。……その傷、あの幽霊女のために拵えたんだろ?」

「はい。トゥミネさんがお花が欲しいとおっしゃったので」

「だったら、お嬢様は面白くねえはずだ。それぐらい分かる――わけねえか。お嬢様もだけど、お前もまだガキだもんなあ」

 途方に暮れて目頭を抑える男の溜息は重く、酒気を漂わせていた。

「いいか、アリム。これは俺からの忠告だからよく聞いて憶えとけ。――あのトゥミネって女は、猫なんだ」

 酒焼けしただみ声が一心に肉と麺麭パンを咀嚼していた少年の意識を皿の上から攫う。

「猫? トゥミネさんが?」

「そうだ。しかも、鼠一匹捕まえもしないでぐうたらしてる、鼠や小鳥の代わりにご主人様みたいな貴族や金持ちを捕まえて、飼い主に肉の欠片じゃなくて花や宝石を寄こせと強請る類の猫なんだ」

「……変わった猫ですね」

 仰いだ面に過るのは侮蔑だった。吐き捨てる口調が、親方のトゥミネへの蔑視を表している。しかし少年の頭は猫と称された女性と豹の子孫たる自分の奇妙な共通点で埋め尽くされていた。

 ――トゥミネさんも僕と同じなんだ。

 アリム達ネミル人とて、姿形は人間そのものだが人あらざるものの末裔だと言い伝えられているのだ。トゥミネのどこかに猫の血が混じっていても不思議ではない。

 汁を飛ばして汚しては大変だと、使用人部屋の寝台の上に置いてきた肩掛けの肌触りは猫の毛に似て柔らかで滑らかだった。あの艶やかな黒檀の髪は、月が出た夜の空の布にどんなにか映えるだろう。やはりあれは、彼女が持つべきものなのだ。

 明日にでもいいから、暇を見つけて返しに行こう。

 少年は汚れた指を舐り長く垂れた袖で拭う。トゥミネに再びまみえる瞬間を想うと、挫いた足に羽が生えた。

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