私たちはどこから来たのか

わたしはお前の頭を砕かせる Ⅰ

 万年雪を頂いた山々からの風が肌を刺す。アリムは薄手の――しかも男児が纏うにしては華やかにすぎる女物の、幾重にも折り曲げた上衣の裾からはみ出た手首を擦り合わせた。遠くの山々を除けば遮るもののない蒼穹には冬特有の、どこか寒々しさを覚えるまでに澄み切った快晴が広がっていた。生え揃った睫毛に囲まれた瞳は天空と大地が交わる地平線の淡い青を湛えていた。

 春の柔らかさを冬の透徹の内に隠した木枯らしが、少年の柔らかな毛髪をそよがせる。むき出しの項に纏いつく冷気は細い背を戦慄かせた。

 癖のある髪に覆われた耳殻のひび割れを、乾いた何かがくすぐる。土で汚れた、十二という年齢にはそぐわぬ節くれて太い指先は一片の葉を捉えた。

「……葉っぱ」

 黄と茶に彩られた葉を握り潰す。指の合間からさらさらと零れる細かな欠片はやがて風の一部となり、豪奢な囲いの外に飛んでいった。アリムが地縁血縁を頼って辿りついた、世襲貴族の屋敷の外に許可なく出入りできるのは、屋敷の主人一家と猫、そして木の葉ぐらいだ。いかにも堅牢に、居丈高に聳える黒鉄の正門は白き豹の裔たる「鉄の民」のアリムでさえも突破できない。次男、三男に留まらず、ついには十を超えたばかりだった末子を奉公に出さずにはいられなかった年老いた両親の家がある、塩害と異民族の総督に支配される貧村への道は遮られているのだ。

 太い眉の下の、くっきりと大きな目が潤んだのは郷愁のためではなかった。舞い散る破片の幾つかが、遙かなる外界ではなくアリムの水色の瞳と鼻腔に侵入したのだ。

 特大のくしゃみが乾ききった大気を揺るがした。生理的な涙が絡まる睫毛を瞬かせ、長い裾で鼻を擦る。

「……そんな薄着で外にいると、風邪をひいちゃうわよ」

 控えめな、ともすれば微風にすら吹き飛ばされてしまいかねない呟きが降ってきた。来るべき季節には薄紅の衣と甘い香りで庭園を華やがせる林檎の樹の向こう。細い枝が掠める白い露台バルコニーに立ちアリムを見下ろす女の唇は不安げに歪んでいるのに、頬は薄桃に上気していた。

 女はもうすぐ昼食時だというのに寝間着を纏い、緩やかに波打つ黒檀の髪を結い上げもせずに垂らしている。この大ナスラキヤ帝国ペテルデ総統領に住まう大多数の民とは異なる系統の――かつての征服者にして支配者の血脈を感じさせる色彩と顔立ちには、異国の唐草模様が良く映えていた。まるで、彼女をそこに置くために設けられたように。

「ねえ、小さな庭師さん」

 ふっくらとした桃色の唇が囁く。瞳の色はアリムがいる位置からは判然としないが、彼女の睫毛が長く濃いことは分かった。彼女の背丈が並みの女よりはやや高めで、葦のようにすらりとした体つきをしていることも。

 目を瞠る程ではないが整った小さな顔が、華奢でありながら相応のまろみを帯びた上半身が、異国趣味の露台から乗り出す。

「もし暇があったら、お花を持ってきてくれないかしら?」

 薄絹の面紗ベールや女の長い髪のような声は穏やかで柔らかい。彼女の名は確か「トゥミネ」だっただろう。同じ屋敷で洗濯係として働いている、庭師の親方の妻がそう呼んでいた。トゥミネ。あの幽霊みたいな女は、と。普段は明るく気風がよい親方の妻は、あんな女になってはいけない、とアリムより二つ三つ年嵩の娘たちに言い聞かせていた。アリムは姦しいが賑やかで温かな団欒の脇で、親方の娘のお下がりの裾をいじりながら、黙々と豆を咀嚼していた。

 アリムが知る女の声で、トゥミネのものにもっとも近いのは、亡き二番目の姉のものだった。声質は全く違うが、喋り方が共通している。側にいながら守り切れず、ついには自死に追い込んでしまった姉への追慕と罪悪感は、待ちかねた昼食の時間と空きっ腹をしばし少年に忘れさせた。

「どんな花がいいですか?」

 高みにいる彼女に届けるべくと、声変わりを控えた澄んだ声を張り上げる。

「いいの?」

 朝露に濡れた白百合のごとき笑顔を刻んだトゥミネには、屋敷の使用人たちに「幽霊女」と謗られる陰鬱な女の面影はなかった。

「白か青のお花がいいのだけれど、なければ何でも」

「何でも? それじゃあ逆に選びにくいです」

 凍てついた白と死の季節に片足を、もう片方を生命と喜びの季節に置いたこの時期であっても、贅を凝らした官僚の庭は選択に迷う程度の草花で溢れかえっている。そのためにアリムはこの寒空の下を駆けまわっていたのだから。

「それもそうね。でも、あなたが私に選んでくれるのなら」

 憂いを恥じらいを含んだ微笑を浮かべる彼女に捧げるに相応しいのは、やはり白か青の清楚な一輪だろう。庭師見習いとして時折は拳と共に叩き込まれた、本来は興味など欠片もなかった草花の名称と特徴を紡ぎ出す。

 勿忘草の開花には、短くともあと一月を待たねばならない。慎み深く下を向いた可憐な鈴蘭の目覚めには、それ以上の時を要する。

「ほんとに、何でもいいの」

 記憶と噂が真実であればアリムより十は年上の、結婚していたら数人の子がいてもおかしくはない年齢の彼女が、幼い弟を散歩に連れて行くのだと偽って意中の相手を目印の樹の下で待つ姉と重なった。甘やかに細められた双眸と、とろりと開いた唇は無垢な乙女のものだった。恋人であった青年と見つめ合い抱きしめ合う姉は美しかった。

 姉は何を想ってあの林檎の枝で首を吊ったのだろう。死の穢れを払うべく切り倒された樹の根元には、清楚だが葉と根に死に至る毒を秘めた水仙が咲いていた。優しかった姉の喪失を老母に縋りついて悼んだ幼いアリムではない、現在の成長したアリムが佇む観賞用の同種の樹の根元にも。

 鄙びた小村の外れと財と手間を尽した庭園。同じ水仙でも、背景が異なれば全く違う花に見えた。降ろされた姉の亡骸に潰されひしゃげ萎れた白と、自分の掌の中に在る白は同一ではなかった。

「ありがとう」

 この上なく幸福そうに微笑む女は姉ではない。胸を締め付ける懐旧の源泉を取り違えてはならない。姿を見かけたことは数回あっても、今日この瞬間に初めて言葉を交わした女の笑顔に覚える既視感などあるものか。亡き姉はもう二度と戻らない。大切な女を地獄に堕としたアリムの罪は永遠になくならない。この業は劫火程度では雪げない。

 ――ツァ―ラねえさんが生きていたらこのぐらいの年だなんて、考えちゃだめだ。

 脳裏に広がる菫の花束を握り締めて頬を紅潮させた娘の面影から逃れるべく絞り出した問いかけは掠れ、ひび割れていた。

「別に、これぐらい。……後は、この花をあなたの部屋に持っていけばいいんですか?」

 取り返しがつかない過去の痛みが頭上の女に届かなかったのは幸いだった。 

「ええ、そうね。私はまだ髪も結っていなくて、とても人前には出れる格好じゃないから、悪いけれどお願いできるかしら?」

 嫋やかな指先が豊かな一房を摘まむ。銀の鈴の笑い声は、枝に引っかかることなく地上のアリムの元まで落ちてきた。暗がりではほとんど黒に見えるだろう褐色の髪は、陽光に照らされると紫を帯びて艶めいていた。

 過ぎ去った黄金の時代に終止符を打ち、かつて三百年以上の長きに渡ってこの地の一部を支配していた、海峡を越えた大陸西部の老帝国の流れを汲む民は概して色素が濃い。髪と瞳は漆黒に、肌は褐色に色づいている。だが強い黒い血も、長きに渡る交雑で薄らいでいた。トゥミネの雪花石膏アラバスタ―の肌がその良い例だろう。

 彼女の瞳は何色なのだろう。大陸西南部特有の黒か、ナスラキヤ人としてはありふれた紫、あるいはアリムのような青かもしれない。

 確かめてみたい。湧き起こる好奇心と衝動もそのままに、少年は果樹の枝に手を掛けた。

「な、何をしているの?」

「階段を上ってあなたの部屋に行くより、こっちの方が早いですから」

 屋敷の主人が溺愛する幼い孫娘の「さっさと花を取ってきなさいよ、うすのろアリム!」との気まぐれに追い立てられ、幾度となく登ってきた木だ。どこに足を掛け、どの頃合いで体重を移動させればいいのかは熟知している。目を瞑っていても落ちない自信すらあった。故郷では「木登りといえば猿かアリムか」と称賛されていたのだから。

「でも、危ないわ。やめてちょうだい」

 ゆえに控えめに放たれるトゥミネの危惧は空に向かって放たれた矢も同然なのだった。太く逞しい基部から華奢で頼りない枝先に移動する。みしり、と軋んだ果樹に揺らいだ心に突然の強風が追い打ちをかけた。一瞬、怯えが固く閉ざした口から飛び出そうになったが、意地と根性で押し戻した。ここまで来てすごすごと引き下がるのは男ではない。

 天上に、彼女に近づくにつれて、細部は朧だった狼狽えた女の造作が鮮明になってきた。

 くっきりとしていながら清楚な面立ちに、左の口元の小さな黒子が落ち着いた色香を添えている。細い眉の下の双眸は、黒でも紫でも青でもなかった。トゥミネの瞳は、光の加減でけぶる灰から甘やかな榛に移り変わった。灰の瞳はナスラキヤの、榛は大陸西北部の特徴だ。数多の血脈が複雑にせめぎ合う虹彩は美しく、いつまでも見つめていられそうな気がした。星のようだ、と柄にもない感嘆の文句を心中で述べてしまうほどに。

「お気に召しましたか?」

 果たすべき仕事をつつがなく終えた満足に緩む頬を引き締め、蒼ざめた顔の彼女に水仙を差し出す。

「え、ええ……」  

 手を伸ばせば互いに触れる距離。並べば頭一つ分は背丈の差があるはずの女と少年の眼差しが交錯する。木の実の茶と、澄み切った泉の淡い青が混じり合う。

 温かな掌は戸惑いながらも土に塗れた指先を包んだ。アリムは滑らかで柔らかな、全てを受け止める手を知っていた。水仕事で荒れた村娘のものとはかけ離れた、労働を知らぬ綿のような手は……。

 赤みを含んだ夕暮れの、水で溶いた糖蜜色の午後の光はとうに失ったはずの感傷に他ならない。握り締めた細枝に爪を食い込ませる。庭仕事で鍛えられた、十二の少年にしては逞しいアリムの腕力に耐えかねた枝はぽきりと間抜けな叫びを発して折れた。 

「――あ、」

 均衡を崩した身体が宙に浮く。絹を裂くような悲鳴が轟く。褪せた緑の褥は、大地に叩き付けらえる衝撃を吸い取ってくれるだろうか。

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