そして、さいごにくちづけた

田所米子

祈り

 微睡みは鈍い軋みに破られた。老人は深い皺が刻まれた喉を震わせる。

「どうした?」

 朗々とした声は老いてなお――否、齢を重ねたからこそ醸し出される深みを帯び、厳かに轟く。だが、数え切れぬ迷い子を導き庇護するために鍛え上げられた声は、他者の耳には叱責の調子を帯びて響くらしい。

「も、申し訳ございません、聖下」

 現に、程なくして馬車の扉から顔を出した年若き従僕の顔は真っ青だった。がっくりと垂れた頭の下の両の肩などは、その逞しさに似合わぬ慄きを呈している。薄茶の巻き毛がかかる蟀谷こめかみには、冷や汗まで滲んでいた。

「私にはお前を責める意図はないよ。だからそう畏まらないで、何があったか教えてくれないか?」

 殊更に、柔らかに――至高に等しい座を数十年の長きに渡って守り続けた男の地位に相応しからぬ、砕けた物言いを意識する。もはや崩壊して久しい父の国が存在していた頃、年が離れた異母妹にそうしていたように。

 日頃から何くれと――鬱陶しいからやめてくれ、と冗談半分に追い払ってもなお――使者を寄こしてくる妹の息子に押し付けられた従僕は、恐らくは甥とそう変わらぬ年頃だろう。だが、妹が病に倒れ没した後、男が己が手で戴冠した甥とは異なり、腹芸を得手とはしていないらしい。少しは内心を隠すつもりがあるのか、と問い正しくなるほどにくるくると移り変わる表情がその証拠だ。

「車輪に、瓦礫に引っかかったようで」

「ああ。この辺りは多いからね。仕方がないことさ」

 男の衣服の裾を揺るがす吐息が、焦燥と不安を脱ぎ捨て安堵を纏う。

「ですが、その、日暮れまでに玉体を然るべき宿にお運びできるかどうか……」

「いざとなったら――君たちが同意してくれたら、だけれど――私は野宿でも構わないんだよ。若い頃は岩を枕に星を見上げながら眠ったこともあったんだから」

「聖下の若かりし頃の御武勇の数々はわたくしも存じておりますが、玉体が損なわれれば陛下が嘆かれます」

 血の繋がらぬ甥、妹に託されて育てたかつての戦争孤児を出されては、男も強くは自身の主張を通せない。彼らの平安を奪い、救済という名目を振りかざして――それが軍律に違反した兵による略奪の結果だったとしても――子供の村と両親を焔の餌食にしたのは男たちであったから。

『何故行かれるのですか、聖下――伯父上』

 男には、老体を案じる甥の反対を振り切って我が意を通した負い目がある。忙しなく辺りを彷徨う視線から守るように、背後に隠した素焼きのアンフォラ。遠い昔に炎に呑まれた友人の残滓が収められた、黒い葡萄が実る赤茶の陶器。その質素で素朴な表面には罅一つない。道中、男が常に手元に置き、難所を迎えれば膝の上に置いていたのだから。

 ――君はきっと、ジジイになった僕の弛んだ太腿なんかよりも、たった一人の女のむっちりした脚の方がいいんだろうけど。

 老い、ぼやける眼下で、項垂れた薄茶の頭が傾ぐ。ふと漏れた微笑を耳聡く聞きつけたのだろう。

「聖下? 如何なさいましたか?」

「何でもないよ。…ああ、そうだ。君、適当な村を探して、そこに泊めてもらえるように交渉してきて、」

 青年は命の終わりを待たずに、矢を射られた兎か鳥のように跳ねた。

「か、かしこまりました!」

 恐らく、一刻も早く男の元を離れたかったのだろう。実に分かりやすい。従僕の、あどけなくすら感じられる頼りない造作には、記憶の澱にこびりついて離れない男のものとの共通点など何一つ存在していなかった。男の記憶が正しければ、この従僕は友人の故郷の隣の小村出であったはずなのだか。

 とうとう男のものにはならなかった友人の面影は、数十の歳月によって隔てられてもなお色褪せることなく、男の裡に焼き付いていた。

 この国が父の――父が没し、父の王国が男の三人の兄と妹の手で分割されてからは、妹の――支配下に置かれる以前。逸脱した教義を奉じる神殿に支配されていた時分。友人は喪った者を取り戻すために国を捨てて各地を彷徨い、男と出会った。もっともそれは「発見」の呼び名こそがしっくりと来る邂逅であったけれども。


 数刻後には干物になりそうな男に水を与えて介抱してやると、彼は程なくして目を覚ました。

「君、一体どこから来たの?」

 幾つかの――それらも既に滅んで久しいが――友好国を除けば、頑なに外との繋がりを欲せぬ国の内情はいたく男の興味をそそった。健康を取り戻した彼を護衛として雇う決心を固めるまでには、大した時間は要さなかった。   

 友人は、片目を男に寄こしながらもう一方で喪った者を見つめるような人間だった。見目にも恵まれていた男は、残酷なまでに鈍感な仕打ちを承服しかね、ありとあらゆる手段を取って彼をこちらに振り返らせようとした。とうに喪った愛しい者たちではなく、生きて君の側にいる僕を見てくれ、と。

「なんで、選りによって僕にそんなことを頼むのさ。命惜しさに玉座を捨てて僧籍に下った、この僕に」

 だが結局、友人の瞳に映るのは早逝した妻と子供のみ。彼の心には始めから、男のための場所など存在していなかったのだ。

 妻と息子が眠る地を守れるのなら、命を捨てても構わない。どうせ自分は死にぞこないの、亡骸同然の身なのだから。

 男の足元に跪いて懇願する友人の指は固く、故地を離れてもなお鍬を振るい土に触れる者の手をしていた。生まれながらの地位のために、剣を扱えども農具の握り方すら知らぬ男とは相容れぬ手。

「分かったよ、分かった。……父上に頼んで、何とかしてみるから」

 踝に絡む熱はまるで真っ赤に熱せられた鉄のそれのようで、もがけばもがくほどに男の足首を縛めた。耐えかねて爪先を振り上げると、尖った足先が友人の口元を掠めた。

「……感謝します」

 友人は顎から赤錆を滴らせながらも、男が良いと命ずるまで跪いていた。友人が退去し、ただ独りで干した葡萄酒は濃く、苦く感ぜられたのは何故だろう。あれは王宮の父にも献ぜられる逸品であったのに。

 燭台の炎を透かして紅玉のように艶めく紫よりも、毛の長い絨毯に染みこんだ紅の方が芳しかったのかもしれない。少なくとも、己にとっては。

 あの時、逞しい肩を掴んで血で濡れる唇を引き寄せても、自分たちの関係は変わらなかったはずだ。だが、若かりし頃の男が積み上げた矜持の壁を打ち壊せていたのなら。つまらぬ嫉妬に踊らされていなければ――

「……あいつが、死んだ?」

 友人は、今なお自分の傍らにいてくれたのではないだろうか。形見の品を呆然と見下ろし、「彼」の喪失を噛みしめていた男は。

「君は、君の幸福を守ったんだよ」

 怒りと憤りが宿った双眸には悲嘆が滲んでいた。末期の友人の顔は、たった一つを除いてはどれも同じだ。

「俺は、あいつを犠牲にしてまでそんなものを守りたくはなかった!」

 ぎらつく円に映る顔は醜く引き攣れていた。醜悪なのは心だけで十分だろうに。

 そっと、微かな浅ましい願いを込めて差し出した手は、あえかな希望ごと振り払われた。掌は猛毒が垂らされたかのように痺れ、悪いことにそれは心臓にまで達したのだった。 

「あれはあの子供が自分で選んだことなんだ」

「――あなたが唆したんだ! だからあいつは……」

 言葉を紡げば紡ぐほど、友の心は遠ざかる。

「あれは君の妻でも、子供でもない。なのにどうしてそんなに泣いているんだい?」

 零れる激情は蜜酒のようで、男の舌先を滑らかにはしたが縛めはしなかった。あれが鉄の鎖であったなら、激昂する友をこちらに繋ぎ止められたかもしれないが。

「……あなたは、なぜ……?」

 あいつを死に追いやったのですか。

 形にされなかった問いは、どんな刃物よりも鋭利に男を貫いた。脇腹に突きたてられた、友の顔や胸を鮮血に染めた短剣よりも。

 他の従者や護衛兵に取り押さえられ、男の目の前から消えていった友人。彼との再会を果たしたのは、崩壊した白亜に囲まれた、侘しい処刑場だった。焼け焦げた柘榴の枝をそよがせる風は涼やかで、頭上の天は澄んで晴れ渡っていた。男の胸は荒れ狂う嵐そのもので、どんよりとした灰色の雲に覆われていたというのに。

 迷う衛兵に袖の下を渡し、主君の暗殺を企てた咎で火刑に処される友人と最期の挨拶を交わす。

「遅れて悪かったけど、地獄の土産にあの時の答えを教えてあげる」

「……」

「君を愛しているから」

 痛ましい殴打の痕に彩られた面に広がったのは驚愕であり、嫌悪ではなかった。それだけが男に齎された救済だった。

「……こんな時まで、お戯れを申さなくとも」

「――違う」

 せめて安らかに逝けるように、と手渡した毒の小瓶はやはり振り払われた。

「僕は、君を愛しているんだ」

 未だ傷の癒え切らぬ身体では、からからと転がる壜を追いかけることすらままならない。息を吐くごとに、身をかがめるごとに、腹部を中心に激痛が奔る。

「分かってくれ」

「……ですが、俺には」

「君が君の妻と子供だけを想い続けているのは知っている。君にとっての僕が、あの子供にすら及ばない――取るに足りない存在であることも分かっている。……だけど、」

 体内から溢れる熱と苦痛など、もはやどうでも良かった。あの眼差しが真っ直ぐに自分に注がれている。

「僕は君を愛しているんだ!」

 ほんの一瞬でも、自分は亡き女から友人を奪ったのだ。勝利は麻薬のように痛みを――危機に瀕した身体が発する警告を麻痺させた。 

「もう、お止めください。――あなたが、俺なんかのために、そんなことをしなくてもいいんです」

 友に制されなければ、いつまでもどこかに消えた壜を探し、己が足元に血溜りを作っていたことだろう。

「あなたにあなたの神の加護がありますように」

 これが最期と想って眼裏に焼き付けた面は、穏やかに凪いでいた。生涯忘れることはない。

「俺が、苦難の道を歩むだろうあなたに手向けられるのは、言葉ぐらいのものですから」

「……君こそ」

 密かに命じて集めさせた遺灰は、友人の髪と同じ色をしていた。戯れに指を沈めると、塵はずぶずぶと男を呑みこむ。しかし掴もうとするとさらさらと零れてしまう。友人は、生前も死後も変わらぬままだった。


 老骨を軋ませる長旅の果てに、ようやく辿りついた目的地は、男が長年密やかに思い描いてものとは似ていなかった。精緻な刺繍の入った紫衣を翻らせる風は葡萄の香りを孕んで甘い。それはむしろ、壺の中の友よりも……。 

 張りつめた一声が、定まりかけた少年の面差しを断ち切る。

「こちらです、聖下」

 頬を紅潮させた従僕の指先には、砂に塗れた墓碑があった。刻まれた名を判別することすら難しい墓石の群れから「彼女」とその息子に奉げられた一枚を特定するには、少なからぬ時間と労力を要した。

「少し、独りにさせてくれ」

「し、しかし……」

「ほんの少しだけだから」

 慌ただしい青年の足音に耳を傾けながら、蜜蝋の封を解く。灰は閉じ込められていた歳月と共にぽっかりと開いた虚ろから零れた。

「君は、君の妻と子供と共にいるんだろう?」

 一陣の清風が老いた目に一掴みの塵を運び、男はそっと目蓋を降ろす。

「それがたとえ、地獄の業火の中であっても――」  

 赤茶と灰色を混ぜる手は乾き、薄茶の斑が浮かんでいた。

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