第5話、期待され始めた日常

 まるで長い旅でもしてきたかのような感覚だった。それくらい、今日の闘いは激しかった。実際の戦闘時間は5分。現世の時間に換算して2時間。しかし私の体感としては、丸3日ほど戦闘していた気分だ。私は何の傷もついていない右腕をちらりと見る。そのまま敵に傷を負わせた左手を翳す。あの時のことは、ゲームの世界におけることは、この世界では何の形跡もなく存在しているのだ。赤の他人からしたら、私はトイレで二時間こもっていただけということになるのだ。これは大いに不満だが、仕方のないことだ。だって、ゲームの世界で命がけの戦闘をしてきたなどと言って、誰が得するのだろうか。奇異な目で見る他人。見られる私。たまに面白がる空想力豊かな人間もいるだろうが、そんなマイノリティに接待する義理はない。

  目を覚ました先がトイレの個室だったので、私はとりあえず安堵した。次に鍵が空いていないか確認する。それも閉まっていたので、私は胸を撫で下ろした。

「おーい、早く出てくれんかのぅ。トイレ掃除を始めたいのじゃが」

  外からやけに年季の入った声がした。掃除のおばちゃんみたいだ。後もう少し早く来ていたら危なかったなぁ。もしかしたら、今日は幸運の日なのかもしれない。

  幻滅したよ。附田さん。

  あ、やっぱ違う。今日は最悪の日だ。私史上、生まれて15年と数ヶ月で最も忌むべき日だ。どっかの国の国恥記念日の如く、私恥記念日と名付けてしまいたいほどの日だ。私は勝手に感じた幸福感を、勝手に打ち消した。そして元気なくドアを開け、手洗い場へと向かった。

  鏡で自分の顔を見た。細く切れた目。少し小さな黒目。色の入っていなければ、ウェーブも何も無い黒髪セミロングストレート。少し細めの輪郭。どこをとっても美人とも可愛いとも言えない。優しい人なら普通、厳しい人ならブサイクと罵られるような顔だ。わかっていたことだが、改めて見るとぐさっときた。やっぱり私に春なんて訪れないのかな?もう春とは到底言えない気温の中で、私はそう鬱になっていた。

  時刻としては、五時半だっただろうか。もう佐伯君は『一仕事』というやつに出掛けてしまったのだろう。私は弁明する機会すらないのだ。まあそんな機会があったとして、どのように釈明するべきかわからないが。

  私は一つ大きなため息をついた。ふぅという言葉は、掃除のおばちゃんの耳にまで届いてしまったのか、視界の端でおばちゃんが二度見していた。心配そうな顔をしていたが、大丈夫ですよ、と声をかける余裕などありはしなかった。

  私はわかりやすく落ち込んだ様子で、がっくりと肩を落とし項垂れていた。そしてそんなテンションでトイレから出てきたので、次に起こった出来事に対して敏感に対応できなかった。

  男子トイレと女子トイレの合流地点。彼はやけにキョロキョロしていた。辺りを見回しながら、それでも早歩きであった。この彼が佐伯君だと気づくのには、何故か多少の時間がかかってしまった。

  私が声をかける前に、佐伯君は私に気づいた。

「あ、附田さん……だっけ?何でまだこんなところにいる……の?」

  あ、やばい。私はこのシチュエーションになって初めて、トイレで佐伯君と会う危険性について考慮したのだ。私は大慌てだった。焦ったなんて生易しいものじゃなかった。それなのに、こんな嘘がぽろっと出てきた。

「あの、友達とこの駅の喫茶店で待ち合わせしてて、さっきまで一緒にお話ししてた……だけ」

  私は顔色一つ変えずに言い放った。嘘八百なのに。

「ふーん」

  佐伯君は相変わらず、少し淡白な答えを用意していた。それが、今の私にはありがたいことだった。

「んじゃ、俺は行くから」

「行くって?」

  そう言って、私は佐伯君が慌てているのを感じとった。あ、そういえばこの後一仕事あるとか無いとか言ってたな……

「あ、いや何でもない、何でもないよ。引き止めちゃって……ごめんね」

  そして私は佐伯君から数歩後退した。佐伯君は何も言わずに私の横を通り過ぎていく。やっぱり軽蔑されているかな?女子トイレに全力疾走する私を見て、こんな女とは関わらないでおこうと思っているのかな?

「附田さん!」

  背後から突然声がした。佐伯君の低くも滑舌の良い声が耳に入ってくる。私はふぁい、なんていう情けない声を出しながら、条件反射のように振り向いた。

「じゃあね。また明日」

  帰宅ラッシュ直前の駅の改札を背景に、佐伯君の爽やかな笑顔が輝いていた。手を大きく振る君の姿を、私は焼き切れるほど脳裏に刻み込んだ。自ら分かるほど赤面し、少し伏し目がちになってしまう。

  佐伯君は何処までも輝いていた。あんな醜態を晒した私に対しても嫌悪感一つ見せず、また明日なんて言ってくれる。それに柔らかい笑顔が追加されたら、誰もが君のことを夢中になるに決まっている。

「ま……また明日」

  そんな君を直視できない私がいる。小さな声でしか返事ができない私がいる。私は君みたいに笑えない。あんなに無垢で光り輝く笑顔を君に見せられない。

  でもいつかは、そう遠くないいつかは、私も君みたいな人になりたいな。たとえ、君の前だけしかできなくっても、あんな光り輝く笑顔を、君に見せたい。

  私は踵を返した。私の本来降りる駅は、次だ。そう思って、ふわふわした幸福感に満たされながら階段へ向かおうとしていた。現世に帰還した時の絶望感は抜ききっていた。しかし、振り返った先に居たのは、

「つくつく、なにしてるのかな〜」

  人の形をした小悪魔だった。

「た、多佳羅ちゃん⁉どうしてここに」

「言ったじゃん。今日は部活ないって。図書室で諒子と二人で勉強してたんだよー。つうかそのセリフ、私こそ言いたいんだけどな〜」

  多佳羅はにたっと笑った。頬の筋肉がつり上がっている。私がやるとただのキモいにやけ顏も、多佳羅がやるとまだ可愛げが残っていた。

「成る程成る程、なーんでつくつくは毎度毎度私のラブコールを断っているのかなぁ?なんて思っていたけど、そーゆーことか」

「あ、あのう、何か勘違いしてない?」

「そうならそうと言ってくれたらよかったじゃない。彼氏と会ってるから遊べない、って」

「そ、そんなんじゃないよ!」

 彼氏、彼氏……私はまた、みるみる顔を赤くした。傍からはそう見えていたのかな?彼氏と彼女が、トイレの前で話しているって……

「て、ていうか多佳羅ちゃん、いつからそこにいたの?」

「つくつくの彼氏が『また明日!』って言ったあたりかな?」

「だから彼氏じゃないって!」

「じゃあ何?友達の誘いを断り会いに行く他校の男子、なんて色恋沙汰が絡んでないわけないじゃない」

 そう言い切った多佳羅は唐突に私の肩を掴んだ。そして顔を下に向ける。女の子らしい手だった。剣など、ただの一度も握ったことのないような……

「大丈夫、大丈夫なのよつくつく。私は妬みや僻みの言葉なんてかけない。つくつくの恋路を邪魔してやろうなんてこれっぽっちも思ってない。ただ……」

 多佳羅は前を向き、私と目線を合わせた。

「詳しく話を聞かせてくれないかな」

 多佳羅ははじけるような笑顔を私に向けた。やはり可愛い。ちょっと嫉妬したくなるほどだ。そして私は、彼女が本当にこう思っていることも知っている。彼女は人の足を引っ張るようなことはしない。ただ少しだけ、こうした話を聞くのが好きなだけなのだ。だから、こんな場面では少し面倒くさい存在になっていた。しかし、彼女に逆らえないまま、私は出口を出た。

「そういや、この駅の近くにスタバ在ったよね。さっき諒子にも連絡とっておいたから、三人でお茶しましょうか」

「え、ちょっと待って、ちょっと待ってよ」

「それとも、まだ『用事』ってのは終わってないの?」

 多佳羅はしゅんとした声でそう言った。こういうところで一歩引くのは、彼女らしい気の遣い方だ。演技と呼ぶには真実味の帯びた顔。私は正直になるしかなかった。

「終わってないけど今日はもう空いてる……」

「じゃあ問題ないわね。さあ、みっちり話してもらいましょうか。つくつくと彼との出会いを」

 多佳羅は若干食い気味に、私の言葉を遮った。そして私の手を引っ張りながら、階段を下りていく。多佳羅の手はほんのりと暖かく、私の右腕を温めていた。そして、せかせかと動く人波に逆らいながら、私達は歩いていく。

 やはりこの世界は素晴らしいと、私は思う。敵に攻撃されたり、右腕を失ったりすることもないし、刃を振るったり敵を傷つけてしまうなんてこともない。何気ない景色に出会えるし、人のぬくもりにも触れられる。何より、彼に会える。

 それなのに、私はまた明日になったら、あの世界へと行かなければならないのだ。行きたくないと駄々をこねても、傷つけたくないと剣を捨てても、結局私は無理やりにでも死地に立ち、剣を振るい、血を流している。この世界だってそりゃ、人間関係云々で面倒なことやいやなこともあるかもしれない。それでも、あのゲームの世界へ飛び込んでみたらわかる。この世界が、どれだけ恵まれていているのかということを。

 私の日常は、神様の落とし物によって支配されている。このゲームのせいで、私は様々な不利益を被っている。でも……私は決意する。いつまでも支配され続けているわけにはいかないな、と。

 その後、喫茶店で諒子と多佳羅の二人からの追及に大慌てになりながら、神様の落とし物について言及せず言い訳を続ける私の姿があったことは、言うまでもないだろう。

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神様の落し物 春槻航真 @haru_tuki

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