Mai

第1話

私は、病院の屋上でぼんやりと夜空を見ていた。あぁ、こんなに役にたたない看護師なんていないよね。今日はみんなの足を引っ張ってしまった。明日、謝らないとなぁ。

「どうしましたか?」

後ろから声をかけられた。後輩かな。

「別に何でも・・・。」

「そんな顔しているということは、何かありましたな。舞さん。」

彼女は、私の顔を覗いて言った。

「結恵!おかえり!」

「ただいま!」

結恵は、研究者。彼女とは、中学からの付き合いで、高校も一緒だった。だが、高校生になってから成績はどんどんと彼女に追い抜かされていった。彼女はランクの高い大学に合格し、私は追いつくことができなかった。もう彼女とは会うことはないだろうと思っていたが、私が、この病院に就職して五年経った時、彼女が大学院を卒業して、この病院に就職し、また再会することとなった。

同じ場所に立てたというのに、結恵はこの病院に来てから、たったの一年で成果をあげ、第一期の研修生として一年間もオーストラリアに行っていた。

「いつ帰って来たの?連絡ぐらいしてほしかったよ。」

「今朝、帰って来た。連絡しなくてごめんね。これから医院長に挨拶に行きたいんだけど、医院長室の場所がわからなくて。案内してくれる?」

「いいけど。でも、いつになったら自分の病院の医院長室ぐらい覚えてくれるの?オーストラリアに行く前に一年はいたよね?」

「だって、研究室にこもっていたから、全然どこに何があるかなんて知らないよ。」

「最悪だ。よくもまあ頭が腐らないね。早く行こう。」

「やっぱり舞は優しいね。」

私たちは、医院長室に向かった。医院長室は最上階にあるから屋上から行くと楽だ。結恵の顔を見ると、病院が懐かしいみたい。一年も見なければそう思うか。そんなことを思っていると、医院長室の前に着いた。

「結恵、着いたよ。」

「ありがとね、舞。これが終わったらご飯食べに行こう!私が奢るからさ。」

「それは嬉しいけど、私はまだ仕事があるの。今度でいい?」

仕事があるというのは嘘。まだ、気持ちがスッキリしない。こんな状態で結恵と食事しても楽しくないだろう。

「もちろん!今度行こうね。じゃあねぇ!」

と彼女は医院長室に入って行った。私は、結恵のこと待ってなくても大丈夫かな。私は仕事があるって言っちゃったし。この後、研究室に行くと思うけど、研究室は地下にあるし、エレベータまで行けば大丈夫だけど。一応、あの後輩にお願いすればいいか。


 ここの病院の医院長は、今後、心配な体型をしていて、見た目がまさに、『タヌキ』。たった一年だから、変わらないだろうなと思いながら、結恵は医院長室の扉を開けた。

「失礼します。」

「久しぶりじゃないか。海崎君。元気だったかい?」

やっぱり体型は変わらない。安心したが、少し痩せていてほしかった。

「はい、お久しぶりです。夜遅くにすみません。元気です。医院長先生も変わらずお元気そうですね。」

「ああ。それでだな、帰ってきて早々だが、レポートを書いてほしいのだ。」

「研修の件ですか?」

「そうだ。君が第一期生として、研修したことを上の偉い方々が興味を持った。ぜひ今後に活かしたいそうだ。」

「それなら、私にお任せ下さい。」

「そう言ってくれると思っていた。では、宜しく頼んだよ。」

「はい。失礼しました。」

そう言って私は、医院長室の扉を閉めた。お土産でも渡せば良かったかな。まあいいか。お腹空いたから、何か食べたいな。久しぶりに日本食でも食べようかな。でも、その前に研究室に行かなくちゃ。場所は簡単なところにある。地下だ。たぶん、研究職なんかに就く人は、お日様なんて浴びないだろうと思われている。確かに私も、研究室にこもっていたが。そんなことを思いながら、研究室に向かったが、エレベータまでの道がわからない。

「あっ。お久しぶりです、結恵先輩!まさか一年前と変わらず、研究室までの道のりがわからない、とかないですよね?」

見覚えがあるような、ないような、二〇代ぐらいの男性に話し掛けられた。たぶん、後輩だと思う。そして、私は研究室の道のりがわからないのではなくて、エレベータまでの道のりがわからないのだ。

「先輩今、こいつ誰だったかなって思いましたよね。酷過ぎます。そして、研究室じゃなくて、エレベータまでの道のりだって思いましたよね。」

この後輩、人の心が読めている!

「ご名答だ、後輩よ!名前を名乗り、そして、エレベータまでの道のりを教えてくれたまえ!」

「なんで、人の名前も覚えてないのに偉そうなんですか。僕は、一之瀬 彼方です。」

「あー!大学の時の後輩君!」

「やっと思い出してくれましたね。嬉しいです。」

「途方の彼方君!何年ぶり?」

「しかも、あだ名までとは。あと、何年ぶりって酷いです。先輩がオーストラリアに行く前の一年は僕いましたよ。結構、研究室には通っていたんですけどね。」

「それは、私に恋愛感情があったということ?!それは悪かったね。付き合うつもりはないけど、許して。」

「僕は、先輩に恋愛感情があったわけではなく、研究室長の小林先生に用事があったんです。」

「途方の彼方君は、小林先生に気があったのか!」

「だから違います!勘違いしないで下さい。」

「はいはい。わかったよ、途方の彼方君。早く案内してくれたまえ。」

「お願いしますぐらい言って下さいよ。」

こんなやり取りをしながら、研究室に向かった。

 研究室に入ると、一年前にはなかった実験機材がある。そして、広くなっている。一年前までは何もかも古かったのに。

「久しぶりだな、結恵。」

途方の彼方は最初に会って覚えてなかったが、彼はさすがに覚えている。ここの病院の研究室長の小林先生だ。

「お久しぶりです、小林先生。夜遅くまで、お疲れ様です。研修の件では、先生のおかげでとてもいい経験ができました。ありがとうございました。」

研修に行った理由は小林先生に勧められ、せっかくの機会だからと言われたからだ。この先生が言うことは信じてやった方がいい。

「ご苦労様だったな。どうだ、研究室は?一年前と比べて機材も多くなったし、広くなっただろう。」

「はい、見違えました。新しい機材を使って、早く実験したいです。明日からいや、今日からでもやりたいです。」

「気合い十分で感激だが、今日はやめておけ。明日からやっても構わんが、こっちに帰ってきて疲れただろう。休みがほしくなったら、いつでも言ってくれ。」

「はい。ありがとうございます。」

 小林先生と話しを済ませ、舞と一緒に帰りたかったので、ナースステイションに向かった。

「んで、なんで途方の彼方君が私と一緒にナースステイションに向かっているの?」

「何を言っているんですか。研究室に行けなかった人がナースステイションに行けるわけがないですよ。」

「確かに。それでは、案内したまえ。」

「はいはい、行きますよ。」

途方の彼方君にあきれられたところで、ナースステイションに向かった。


 結恵はちゃんと研究室に行けたかな。一之瀬君にお願いしたけど。一之瀬君は勉強熱心だから、よく研究室に通っていたけど、結恵の方は、研究熱心だから一之瀬君が研究室を出入りしていたことなんて、知らなかっただろうな。こんな心配すよりも早く帰ろう。私しか、看護師は残ってないし。私が、バックを手に持つと、部屋の外から結恵と一之瀬君の声が聞こえてきた。ふたりとも、こっちに向かって来ているようだ。

「途方の彼方君って、今、研修生?」

「そうですよ。」

「何年目?」

「二年目です。でも、あと、三年も経たないと立派な医者にはなれないなんて苦痛ですよね。」

「なにそれ。あと三年間も研修するの?」

「はい。自分の専門科を研修します。」

「へー。大変だね。私、高校の先生に医者になったらって言われたけど、ならなくてよかった。」

「なんで先輩、医者にならないで研究職にしたんですか?僕は、先輩が医者になっても良かったとおもいますよ。」

「面倒っていうのもあるけど、医者になると大事な友達との・・・。」

結恵の最後の言葉が聞こえなかった。何て言ったのかな。それにしても、ふたりが楽しそうに話しているのを、聞いてしまった。そして、ふたりが、部屋に入ってきた。

「舞先輩!失礼します。」

「はーい!」

「やっほー、舞。失礼しますー。もう誰もいないのね。仕事終わった?」

そうだ、結恵に、まだ仕事があると嘘をついていた。普通に返事しないと。

「うん、終わったよ。」

「そうか!良かった。もう、ご飯を食べに行けるような時間ではないけど、一緒には帰りたいなって思って。」

やっぱり、結恵は優しい。私のために帰ろうと声を掛けに来てくれたみたいだ。

「僕も帰ります!女性ふたりが夜に帰るなんて危ないですから。」

「途方の彼方君、男気あるね。」

と、いうことで私と結恵と一之瀬君で帰ることになった。

 病院のドアを出ると、桜の木の前に相川先生が立っていた。相川先生は、結恵と一緒にオーストラリアに行った方だ。相川先生もたったの一年で成果をあげたが、私たちと二歳差で、医者だから、五年の研修がある。そのため、相川先生のちゃんとした医者の歴と結恵の歴が同じなのだ。相川先生に声を掛けようと思ったが、先に一之瀬君にやられた。

「真冬先輩!」

「あっ、彼方。」

「お久しぶりです。元気ですか?」

「この通り元気だよ。彼方の隣にいるの、結恵だよね。」

私のことは無視された。でも、次こそは声を掛けなきゃ、と思ったが、結恵にやられた。

「相川さん、飛行機ぶりですね。」

「そうだな。もう医院長に挨拶に行った?」

「行きましたよ。宿題がでましたが。」

「まじか。早く行ってくる。」

相川先生は、病院の方へ行ってしまった。私は、相川先生に、ひとつも声を掛けることができなかった。


 俺は、医院長室に向かった。

「相川です。失礼します。」

俺は、医院長の息子だ。なのに、息子として相手にしてもらえない。

俺が、小学生の時だ。おやじとおふくろは離婚した。理由は、おふくろの浮気だ。なのに、おやじのせいになってしまった。それでも、俺は、絶対におやじと一緒に生活するつもりでいた。なのに、俺が寝ている間に、浮気相手の家にいた。当時の俺は、おふくろに聞いた。

「パパはどこ?」

と聞くと

「ここにいるじゃない。」

と言われたが、そこにいるのは、おふくろの浮気相手。

「違う。前のパパ。」

と聞いても

「何言っているの。あなたには、前のパパなんて存在しないは。」

と言われ、何を言ってもはぐらかされた。これを機に俺は、おやじにまた会うために、医者になることを決意した。

 そして、とうとう医者になり、おふくろには内緒で、この病院に就職した。名字は変わってしまったので、この病院の職員には気づかれないが、おやじは気づいてくれると信じていた。だが、おやじは、俺のことなど初対面のように接してきた。だから俺は、この病院で研修の時から頑張って成果をあげ、自分の存在を主張した。

「はい、どうぞ。」

「オーストラリアから帰ってきました。」

「ご苦労様でした。疲れただろうから、早く休みなさい。以上だ。」

「えっ。あの、海崎から・・・」

「レポートのことかな。相川君は書かなくていい。」

「なぜですか?」

「上の偉い方々には、君がオーストラリア研修に行ったことは、伝えていないからだ。」

もうこれ以上聞いても、きっと何も答えないだろう。

「わかりました。お疲れさまです。失礼しました。」

俺はそれだけ言って、医院長室を出た。やっぱり、何をしても変わらない。なぜだか、目から涙が流れる。俺は、その場でしゃがみこんでしまった。そして、俺は、心で思っていたことが口からでてしまった。

「結恵がいなかったら、変わっていたのに。」


 私は舞と途方の彼方と別れ、久しぶりに家に帰ってきた。私は、大学生から一人暮らしをしている。バイトは塾の講師や、家庭教師などをやっていた。中学や高校の勉強を忘れないようにするために。時給はそこまでよくないので、飢え死にしそうになった時もあった。まあ、それでもなんとか生活していた。大学生の時は、舞を家に招待してよくお泊り会をしたが、私が大学院生になった時、舞は看護師となり忙しくなって、遊ぶことがなってしまった。私はひとりでいるのが寂しくて、猫を飼い始めた。高校生の時、猫が飼いたかった。でも、実家がマンションでペット禁止だったので、あきらめていた。まさか、こんな時に高校生の時の小さな夢が叶うなんて思いもしなかった。高校生の時からこの名前がいいと思っていた。それは『うり』。研修中、うりはいとこの家でお世話してもらって、私が帰って来る日には、家にいるようにしてもらった。

うりが私の足元で、体をスリスリしてきた。

「お前は可愛いなぁ。」

首元を撫でてあげると、ゴロゴロと鳴いた。

「さあ、医院長に頼まれたレポートを書き上げますか!」

と言って気合を入れた。

 気づいたら寝ていた。パソコンのキーボードの跡が顔についているのがわかる。現在の時刻は朝の四時。パソコンのデータを見ると終わっている。さすが、私。何か飲みたいなと思って立ち上がろうとした。が、お腹の辺りが暖かいなと思って見てみると、うりが温めてくれていた。

「うり、ありがとー。」

うりは私の声で起きて、私が動けるようにどいてくれた。そして、また寝た。

「うりは偉いね。おやすみ。」

私は水道水の水を飲んで、二度寝にはいった。


 私は、ちゃんと時間通りに出勤した。昨日は結恵と相川先生が帰ってきた。結恵が見当たらないので、たぶん遅刻かな。相川先生は、私より先に出勤していたようだ。相川先生が、私の前を通り過ぎる。挨拶しなくちゃ。

「相川先生、おはようございます。」

「おはよ。」

軽く返された。私の対応はそんなもんか。少し悲しいな、と思っていると、遅刻確定の結恵がダッシュで、私の前を通り過ぎた。

「おはよう、舞!」

「おはよー。速く研究室に行った方がいいよ。」

「はーい!」

いつも通りの結恵だな。いつも通り過ぎて、研究室長の小林先生には、何も言われないだろうな。今日は、新しい患者さんが来るから準備しないと。

 今回の患者さんは、七一歳のおばあちゃん。病名は、肺がん。ステージⅣ。もう手術しても治るかわからない。出来るところまで、サポートしよう。私は、新しい患者さんに話かけてみた。

「こんにちは。」

「はい、こんにちは。」

「今回担当することになった看護師の宮本 舞です。お名前をお聞きしてもよろしいですか?」

「雨宮 兎美です。」

「名前が珍しいですね。兎に美しいで、゙うみ゛って読むなんて。」

「はい、よく言われます。最初、この漢字を見ると、なかなか読んでもらえなくて。」

「そうですよね。これから、頑張りましょうね。」

「はい。よろしくお願いします。」

「こちらこそよろしくお願いします。」

とても可愛らしいおばあちゃんだった。私は、雨宮さんのデータを確認してから、部屋を出た。主治医も確認してみるとなんと、相川先生だった。相川先生とまさか仕事をする日がくるなんて。迷惑をかけないようにしないと。

 午後から、雨宮さんの治療の進め方を決定した。もちろん、相川先生も出席した。雨宮さんの肺がんはステージⅣで、がんが広がっている。なので、手術ができない。家族と相川先生が話し合って、抗がん剤を使ってがんを小さくできることに希望を持った。こうして、がんとの闘いは始まった。

 夕方になり、私は雨宮さんの体調チェックに向かった。

「失礼します。看護師の宮本です。」

「はい、どうぞ。」

私は、部屋に入り、体調チェックをすると、雨宮さんが話し始めた。

「私には、孫がいるのよ。この前、小学校二年生になったの。私、あの子が小学校を卒業するところが見たいわ。」

もう余命は、三ヶ月から四ヶ月と言われている。だけど、そんなのは関係ない。私は、

「雨宮さんの気持ちがきっと伝わるはずですよ。」

「そう言ってくれて嬉しいわ。」

雨宮さんの嬉しそうな顔の裏には、言葉には表すことが出来ない感情の顔があった。

 その日の夜は、結恵とご飯を食べに行った。結恵が帰ってきた時、私が嘘をついて断った時のことを結恵は気にしてくれていたようだ。

「舞、今日は私の奢りだからね。私が、オーストラリアに行く前、舞が奢ってくれたからそのお礼。」

そんな事、覚えていなかった。

「そんなの気にしなくてもいいのに。ありがとう。」

「えへへ。どういたしまして。」

それから、結恵がオーストラリアであったことや、今日あったことを話した。そういえば、

「今日、新しい患者さんが入ったの。」

「へー。どんな人?」

「なんか、可愛いよ。お孫さんがいるんだって。今日、話してくれた。」

「ふーん。なんで入院したの?」

「肺がん。」

「ステージは?」

「ステージⅣ。」

「・・はっきり言って、治るの?」

「抗がん剤でがんを小さくすることに決まった。」

「そう。頑張ってね。」

少ししんみりしてしまった。話を変えよう。

「そういえば、オーストラリアでは、ホストファミリーの家でホームステイした?」

「うん。連絡を入れたらいいよって。」

私たちは、高校生の時、学校研修の一貫でオーストラリアに短期留学した。たったの半月だったが、私も連絡をよくしている。

「ホストシスターは元気だった?」

確か、結恵のホストシスターは同い年で、一人子だった。

「それがね、結婚して家を出ていたの。」

「それはすごいね。結恵、見習ったら?」

「うるさいな。私はゆっくり決めるの。」

「はいはい、すみませんでした。」

「でも、私が来るって言ったら、帰ってきてくれたの。」

「会いたくないって言われなくて、良かったね。

「ひどっ。」

「あはは。もう帰ろうー。」

「あー、流した!」

久しぶりに結恵と楽しく話して帰った。


 俺は、雨宮さんの体調を聞きに宮本さんと一緒に向かった。そして、今日から抗がん剤を始める。抗がん剤の多くは、効果を得るため副作用が生じる。主に、脱毛、吐き気などだ。また、その人に合う、合わないがある。

「雨宮さん、これから抗がん剤を始めます。」

「はい、お願いします。」

抗がん剤で治った人はいる。だが、そこまでいくのに力尽き、途中でやめてしまう人はたくさんいる。今回は、どこまでいくか。雨宮さんの腕に点滴を通し、部屋をでた。


「相川先生。」

宮本さんが話し掛けてきた。

「なんだ。」

「雨宮さん、今後良くなるのでしょうか。」

この看護師は、言ってはいけないことを言ってきた。

「お前は、看護師だろう。なぜ希望をもたない。雨宮さんだけじゃない。この病院のすべての患者がそう思っている。その思いを叶えるのが、俺たちのすべきことじゃないのか。」

宮本さんは、黙り込んでしまった。でも、俺は続ける。

「看護師は、俺みたいな医者のサポートだけじゃなく、患者の心に寄り添うのも仕事だろう。お前が、希望をなくすな。」

俺は、宮本さんに俺の思いを伝えた。俺が思う看護師はこうだと思う。宮本さんは、

「・・・はい。私、頑張ります。」

こう言ってくれた。俺は、それを信じて前へ進んだ。


 お昼の時間になった。僕は、食堂に向かった。そこには、結恵先輩がいた。

「結恵先輩、お昼ですか?」

声を掛けると僕に、

「あっ、途方の彼方君。そうだよ。一緒に食べる?」

結恵先輩のお誘いを受け、僕は結恵先輩と一緒にお昼を食べることになった。

「先輩、今日は何にしたんですか?」

「ラーメン。」

これって・・・、

「大学の時と同じですね。」

「そんなこと言って、途方の彼方君は、何にしたの?」

「カレーライスです。」

「そっちこそ、大学の時と同じじゃん。」

言われてしまった。そういえば、

「真冬先輩って大学生の時、」

「かつ丼だったね。」

大学時代、真冬先輩と結恵先輩と僕はお昼を一緒に食べていた。僕は、一人で食べていたがある日、結恵先輩に声を掛けられ、一緒に食べるようになった。でも、結恵先輩と真冬先輩が、一緒に食べるようになった理由を今でも知らない。だから、聞いてみた。

「先輩、大学生の時、どうして真冬先輩と食べていたんですか?」

先輩はニコニコして言った。

「ヒミツ。」

「えっ、教えてくださいよ!」

「ヒミツって言ったらヒミツ。」

僕は、先輩にしつこく聞いても、「ヒミツ。」と言って答えてくれなった。こんなくだらない事でお昼の時間を潰してしまった。


私は仕事が終わらず、お昼を食べることが出来なかった。夕方になったので、雨宮さんの体調チェックに向かった。雨宮さんの部屋の前には、小学校低学年ぐらいの女の子がいた。

「こんにちは。」

その女の子は、か細く

「こんにちは。」

と、挨拶してくれた。もしかしたら

「雨宮さんのお孫さんかな?」

聞いてみると、首をかしげた。この聞き方だとわかりにくいか。もっと簡単に、

「おばあちゃんは、ここのお部屋かな?」

この聞き方だとわかったようで、うなずいてくれた。もうちょっと聞いてみよう。

「お名前は?」

「こと。小さいに、兎。それで、小兎。」

雨宮さんのお孫さんにも、兎がついているのか。

「小兎ちゃんね。一緒におばあちゃんの部屋に入ろうか。」

小兎ちゃんはうなずいて、一緒に入った。

「失礼します。宮本です。」

「はい、どうぞ。」

中に入ると、雨宮さんの旦那さん、小兎ちゃんのおじいちゃんがいた。

「こんにちは。体調チェックしますね。」

体調チェックもしつつ、抗がん剤の様子を見ようと思い腕を見た。その腕は・・・。

「一回目の抗がん剤は失敗か。」

相川先生は、何とも言えない表情で言った。雨宮さんの腕は、湿疹だらけで皮膚呼吸もできないくらいになっていた。相川先生の判断で、今度の抗がん剤は、肺がんに効く抗がん剤にする事になった。


もう一二時を過ぎた。俺は、雨宮さんの今後の治療方針を考えていた。二回目は、肺がんに効くものにしたが、うまくいっても副作用がついてくる。そして、最初の検査で、脳にも転移していることがわかっている。いろんな医者に相談しても納得する回答がもらえない。俺は、父親である医院長に相談しに行った。

「失礼します、相川です。」

「はい、どうぞ。」

俺は、今回のことで相談したくなかった。だが、この人しかもう、聞くことが出来ないのである。

「ご相談の件で来ました。肺がん、ステージⅣの雨宮 兎美さんなのですが。」

俺は、雨宮さんのカンファレンスを渡した。そして、俺は話を続ける。

「もう手術が出来る状態ではなく、抗がん剤を使い続けても、副作用で体がボロボロになりいつかは、意識が遠のくと思います。」

「そうだな。」

俺は、迷っている。選択したくない事実。俺は、医者だ。絶対にあきらめたくない。だから、聞く。俺が、尊敬している父親に。

「なので、自宅療養の方がいいと思っています。」

「やはり、患者の事を考えてか?」

「はい。」

「でも、相川君は、あきらめたくないのではないのか?」

やっぱり、自分の父親だから俺の考える事は、お見通しって感じだな。

「そうです。」

医院長として考えるのか、それとも父親として考えるのか。答えはすぐにきた。

「あきらめたくなければ、あきらめるな。最期までやれ。突っ走れ。以上だ。」

簡単だった。俺の本当の意見を通した。逃げた考えではなく。俺は、この人を俺は信じる。

「はい。わかりました。失礼します。」

俺は、自信を持って医院長室を出た。


私は、舞の患者のデータを見ていた。データは、パソコンで簡単に見ることが出来る。まあ、主治医のパスワードとか、いろいろ必要だけど。名前が、『兎美』で“うみ”。娘の名前が、『兎妃』で“とき”。孫の名前が、『小兎』で“こと”。みんな、名前に兎がついている。変なの。私の名前も変だけど。

肺がんで、ステージⅣ。舞が言っていた通りだ。抗がん剤の様子を見ると一回目は、全身に湿疹が出たようだ。その写真があった。私は、湿疹と書いてあったから、小さいのがいっぱいあるのかと思っていた。だが、私の予想の真逆だった。言葉にできない。見ていて、心が痛む。二回目の抗がん剤は、副作用で脱毛になりつつある。抗がん剤のことなんて研究したことなかったけど、副作用がないものを研究してみるのもいいな。

「お前、勝手に俺の患者のデータ見るな。」

いきなり声を掛けられ、私はびっくりして飛び上がってしまった。主治医は、さっきデータで見た。だから、簡単にパスワードがわかった。

「あはは。相川さん、お疲れ様です。」

「お疲れさまです、じゃない。結恵が見ていたせいで、こっちがデータを見ることが出来ないじゃないか。」

あっ、そうなんだ。知らなかった。でも、

「どうしてデータを見ているのが、私だと思

ったんですか?誰でも、いいはずですよ。」

相川さんは、あきれた顔で言った。

「あのな、ほかの医者や看護師は、一言ぐらい言ってから、データを見るぞ。」

「そうですか。データを今、見ています。」

これでいいかな、と思っていたが、これにもあきれられた。

「お前は、研究者だろ。俺の患者のデータを見る必要はない。」

この言葉に私は、ちょっとむかついた。研究者だから?

「研究者だから、なんですか。」

相川さんは、私の気持ちに察した。

「悪い。俺が悪かった。」

相川さんは、私が研究者だからという差別的な行為は好きではない理由を知っている。


 私は、雨宮さんの体調チェックに向かった。この頃、抗がん剤の副作用の影響が脱毛のほかに嘔吐が多くなってきた。私は、部屋に入った。

「失礼します。宮本です。」

中に入ると、小兎ちゃんと小兎ちゃんのお母さんがいた。雨宮さんは、赤い帽子をかぶっていた。抗がん剤の副作用である、脱毛で、髪の毛の抜けが気になると帽子をかぶる人は少なくない。

「こんにちは。食欲はありますか?」

「あまりないですね。やっぱり、抗がん剤のせいなのかしら。」

小兎ちゃんのお母さんが言った。雨宮さんは、話すことも少なくなってきている。

「そうだと思います。」

もうすぐなのかもしれない。話題を変えなければ。

「そういえば、みなさんの名前に兎が入っていますよね?どうしてですか?」

小兎ちゃんが答えてくれた。

「それはね、たすけたからだよ。」

助けた?兎が?どういう意味だろう。

小兎ちゃんが続けた。

「むかし、山でたおれていたおじいちゃんがいたの。それで、ウサギとキツネとサルが、たすけたくて、ごはんをとってきたの。だけど、うさぎだけとれなくて、じぶんを食べてもらったの。それで、おじいちゃんが神さまになって、月にうさぎをのぼらせたの。」

話によると、その兎のご先祖になるのが、小兎ちゃんたち、だそうだ。

「面白いですね。」

「そうですよね。私の姉も、兎と雪で“とゆき”です。」

と小兎ちゃんのお母さんが言った。今日、私は、名前に兎が入っている理由を聞けた。

 夕方、また雨宮さんの体調チェックに向かった。もう、小兎ちゃんたちは、帰ったようだ。部屋には、雨宮さんだけだった。

「こんばんは。」

雨宮さんは、もう挨拶をしてくれない。ただ、目をぱちぱちはしてくれる。挨拶はしてくれているつもりのようだ。その時、部屋に人が入って来た。

「こんばんは。」

雨宮さんの旦那さんだった。もう定年のご年齢は過ぎているのだが、自営業でまだ働いているそうだ。

「お仕事、お疲れ様です。」

「ああ、そちらもお疲れ様です。」

旦那さんは続けた。

「孫はもう来た?」

「はい、お昼ごろに来ましたよ。」

「そうか。あんな小さい子でも、おばあちゃんが病気っていうことはわかるのかな。なぜ自分が病院に来ていることがわかるのかな。」

旦那さんは、独り言のように私に聞いてきた。私は答えた。

「はい、きっとわかります。今、わからなくても。」

旦那さんの目には、涙があった。

「兎美がいなくなったら、俺はどうすればいいかな。一緒にいろんなことをやりたいよ。」

私は、その答えを知っている。

「小兎ちゃんの小学校の卒業を見てあげてください。中学を入学して、卒業するところ、高校だって。それから、結婚式も。それから、お孫さんを見てあげてください。」

雨宮さんは、あの時言った。卒業したところを見たいと。それだけじゃない。もっといっぱい見たいと思っているはずだ。だが、時間がないのだ。

「見たい。」

後ろから、声が聞こえた。雨宮さんだった。その目には涙があった。


 俺は、パソコンにあるデータを見ようと思った。だが、開けない。俺は地下に移動した。

 やっぱり結恵が使っている。またかと思い、声を掛けようと思ったが、結恵の隣には宮本さんがいた。ふたりの会話が聞こえる。

「副作用がない抗がん剤なんてあるの?」

「あるには、あるよ。」

「えっ、それ使おうよ!」

「でも、ホルモン依存性がんには、よく効くって言われているけど、肺がんに効くかどうかは、未定だよ。」

「でも、肺がんに効果があればいいんじゃ?」

「そうだけど、雨宮さんに時間がない。効果があっても、副作用がないだけで、治らないこともある。」

ふたりの会話の内容は、雨宮さんの抗がん剤のことのようだ。確かに、宮本さんがいうように、抗がん剤の副作用がなければいいのではないかと思うが、結恵がいうように、治らないこともある。

「それで、相川さん、どうしてここに?」

結恵は、前から俺がいることがわかっていたようだ。

「えっ。相川先生、いたんですか!」

宮本さんは、知らなかったようで、びっくりしている。

「結恵が、俺のデータをまた見ているからだろう。」

「だから、病院の携帯にメールしておきましたよ。」

あのな、

「それは、俺が来てから、メールを送っただろう。」

「あっ、知っていましたか。」

宮本さんは、話についていけていない。

「勝手に俺のデータを見るな。」

「はーい。」

結恵のやつ、またやるだろうな。


 昨日、相川先生のデータを勝手に見たので怒られた。結恵が相川先生のデータを見ていたなんて知らなかった。親しき中にも礼儀ありで、相川先生にちゃんと連絡してあると思っていたのに。私は、今日もまた雨宮さんの体調チェックに向かった。

「失礼します。宮本です。」

部屋に入ると、小兎ちゃんと、お母さんがいた。雨宮さんは、寝ていた。雨宮さんは、あの日以来、声を聞かなくなった。あと、1ヶ月もつだろうか。それとも、1週間。それとも・・・。考えたくなくなる。

 少し待ってみたが、起きそうにもないので時間がたったら、また来ることにした。私は、部屋を出ると小兎ちゃんが私に話し掛けてきた。

「みやもとさん。」

「小兎ちゃん、どうしたの?」

「ことはね、ばあばが、おうとしなくなってうれしかった。もうすぐでなおると思ったけど、ちがう。おしゃべりしてくれないの。」

嘔吐しなくなったのは、栄養剤を点滴でいれているからだ。お話しをしなくなったのは、意識が遠くなっているからだ。子供だからこそ、思うことはいっぱいのようだ。私は、答えに迷った。本当のことを教える勇気なんてない。

「そうだね。」

こんなことしか、答えられない。ごめんね、小兎ちゃん。ずるい大人でごめん。

「小兎、帰るよ。」

お母さんに呼ばれた小兎ちゃんは、ばいばい、と、言って別れた。


 私は、また相川さんのデータを見ようとパソコンを開いた。雨宮さんのデータだ。見ようとすると、開けない。パスワードは間違っていないはずなのに。

「なんで、開けないって思っただろう。」

後ろから声を掛けられた。相川さんだ。もしかして、

「相川さん、パスワード変えましたね。」

「ああ、お前が勝手に俺のデータを見るからな。」

やられた。

「なら、」

私はパソコンを素早く打ち始めた。

「何やっている?まさか。」

そのまさかだ。

「開きました。」

私は、相川さんのパソコンのパスワードを開けてやった。

「お前、なんで俺のパスワードわかるんだ?」

そんなの簡単だ。

「相川さんのパスワードは、」

私が言いかけたその時だった。相川さんの病院用の電話が鳴った。

「はい、相川です。えっ、はい、今行きます。」

時間切れだ。相川さんは、急いで研究室を出た。


 俺は、走った。全力疾走で。さっきの電話は、宮本さんからだ。

「今、戻った。」

「相川先生、さっき電話で言った通り、雨宮さんの状態が・・・。」

「ああ、家族に連絡はしたか?」

「しました。」

「人工呼吸器を準備しろ。」


 私は、相川先生に連絡をいれ、家族の方へ連絡をいれた。とうとう、この日がきてしまった。もう、逃げることが出来ない。

「人工呼吸器の準備が終わりました。」

 雨宮さんに、人工呼吸器を取りつけ、ご家族に集まってもらった。

「みやもとさん。」

小兎ちゃんに話し掛けられた。

「どうしたの?」

小兎ちゃんは、黙ってしまった。

「・・・・なんでもない。」

聞きたくても、聞けないことは小兎ちゃんもわかっている。もう「最期なんだよね・・・。」と、聞きたかったはずだ。

 ご家族には、病院に泊まってもらい、夜を過ごした。現在の時刻、朝の六時。今日は、平日。小兎ちゃんは、学校だ。一度、家に帰らないといけない。

「ばあば、じゃあね。」

小兎ちゃんは、手を握って言葉を残した。小兎ちゃんとお母さんは、先に帰った。

 そのあと、小兎ちゃんが学校に行っている間に雨宮さんは、天国に旅立った。雨宮さんの旦那さんは、涙を流している。私は、看護師の仕事をして、もう七年目になるのに、この瞬間は何回経験しても、慣れない。慣れてはいけない。

 私は、病院の屋上でぼんやりと夜空を見ていた。

「どうかしましたか?」

その声、知っている。

「結恵、私、またダメだった。」

結恵は、私の隣に来てくれた。

「舞が悪いわけじゃない。時が来ただけ。」

「そうだ。」

後ろから、相川先生が来た。

「今回、手立てがなかった。後悔しても、もう遅い。」

先輩は続けた。

「舞は、ちゃんと看護師として、患者の心に寄り添った。ちゃんと仕事した。」

相川先生は、私のことを褒めてくれた。

「相川さん、やっと、舞のことを、呼び捨てで呼びましたね。」

相川先生は、そっぽを向いて、

「そんなことない。」

「相川さん、可愛いね。」

「うん。」

私は、まだまだ未熟だ。それでも、私は、看護師として、患者の心に寄り添っていきたいと実感したのだった。

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Mai @mai_

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