猫の気持ち
syatyo
猫の私と、私の猫
私は猫になった。夢なのだろうと、何度か瞬きをしたが、世界は景色を変えない。ならば妄想の類なのだろうと、現実に回帰しようと腐心しても、私の視線は地面を這うばかりである。
いよいよ本格的に、私は猫になったことを認めるしかなかった。ただ、不思議と心は体の変化に違和感を感じていない。まるで長年、猫の姿でいたかのように。
しかし、私は長年どころか、一年も猫の姿で過ごしたことはない。私が猫になってしまったのは、つい先程のことである。朝七時、会社に出勤しようと妻に見送られ家を出て、夏の日差しに懐かしさを感じたことが、人間としての最後の記憶だ。そこから猫になるまでに、そう時間はかからなかった。
まず、全身という全身に痒みを感じた。肌の下を何かが蠢いているような感覚だ。次に、全身から毛が生えた。茶と白と黒。おおよそ、純日本人である私からは生えないであろう色の毛が、身体の隅まで覆ったのである——そも、純人間ならば、三色の毛に身体を覆われることはない。更に、私の目線は、屈んでもいないのにみるみるうちに地面に近づいていくのである。
ただ、ここまでならば、猫になったなどという突飛な発想に至る前に、夏の日差しで人間から進化したのだと考えていたに違いない。だが、胸の内から湧き上がる欲求が、私に確信を与えた。
無性に魚が食べたくなったのである。私は元来、海の幸は口にすることさえできなかった。よく、友人からもったいないなどと言われたものだが、それほどまでに私は海の幸——すなわち、魚が嫌いなのだ。
ここで私は、四足歩行に移行した退化した自分の姿を見て、合点がいった。それはまさしく空想じみた結論で、信じがたい現実だ。
猫。
かくして、私は猫になったのである。
猫になってから一時間ほどだろうか。正確な時間など、腕時計(正確には前足時計)をつけていない私にはわからない。ただ、人間だったときの腹時計を活用しているのみだ。
あれから猫になった理由を一つずつ吟味し、その度にあり得ないという結論に至っていた私であったが、家から一キロメートルほど離れたコンビニエンスストアに着いた時点で、理由探しは諦めることにした。いくら考えても答えが出ないのだ、時間の無駄と言わざるを得ない。
ならば、どこに時間を使えばいいのか聞かれても、その使い道が見つからない。時間の無駄というよりは、無駄な時間である。
どうも猫という生物は暇を持て余すらしいと、私は気づいた。よく、住宅街で野良猫を見かけたときに何をしているのだろうと思ったものだが、その実、何もしていなかったのだ。まさしく、今の私のように。
ただ、私の場合、人間としての自我があるのだから少し趣が違うだろうが。
…………。
こう考えると、人間という生物は難儀なものである。毎日、仕事があれば忙しいと嘆いたものだが、こうやって仕事を失い——というよりは人間としての立場を失い、暇を持て余したとき、何かをしたいと思うのだ。忙しくありたい、と。
「にゃー」
一度、声を出してみる。今一度、私が猫であることを確認させられた。思えば、猫としての初鳴きは今の瞬間か。ならば、私の人生で二回目の産声ということだ。
「…………」
今の鳴き声が産声だと考えるならば、今この瞬間、私の猫としての精神年齢は生後一時間であるだろうが、姿はどうなのだろう。一時間もの間、あてもなく歩いたわけだが、身体の不自由は感じていない。
私はふとそう思い、コンビニエンスストアのガラスに姿を映してみる。なるほど、私は猫に詳しくはないから、正確にはわからないが、四歳というところだろうか。立派な大人の姿だ。
面白い。私はそう感じた。猫の体が私の意思で動くのを、私自身で見るというのは面白い。まるで私が猫かのように顔を手で撫でてみれば、猫にしか見えない。だが、まるで私が人間かのように後ろ足だけで歩いてみれば、人間のようにも見える。
それから一頻り、私は猫がし得ないような行動を取って遊んでいた。しかし、私はあくまで猫なのである。猫が人間のような行動をしていれば、人々の興味が集まる。興味が集まれば、人間も集まる。という具合で、私が満足したときには既に群衆に囲まれていた。
しまったと、そう気づいたときには手遅れだった。「かわいい」や「人間みたい」などと、おおよそ人間のときには言われなかっただろう言葉が、私に浴びせられた。それと同時に、携帯のフラッシュも私に浴びせられる。
「…………」
なるほど。よく道端で猫や犬を写真に収める女子高生を見て、動物にもプライバシーがあるなどと考えたことがあったが、今、猫の立場になってプライバシーを侵害されてみると、予想外に快感を覚えた。いわゆる承認欲求というものだろう。
「にゃー」
と、私はサービスであるかのように一鳴きしてみる。人間たちは、私の思惑通り、騒ぎ立てる。
ふむ、猫も案外悪くないかもしれないと、思ったとき、群衆の中を何かが通り過ぎた。二足で優雅に立つ私の前を、何かが——いや、何か、ではない。スーツを着て、口に黒い鞄を咥え、四足歩行で駆け回る人間だ。群衆は、その珍奇な行動をする人間を見て、悲鳴をあげて散り散りになった。
「…………」
ふむ、やはり猫は案外悪くない。もう、人間に戻りたくないと思うほどには。どうやら、私がと同じような経験をしたような猫がいたようだ。段々と違う生物になるという経験をした猫が。これで合点がいった。
私は猫になったのではなく、猫と入れ替わっていた。
猫の気持ち syatyo @syatyo
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