どこにも行けない自転車
とうふ屋のお兄さんはいつもおんぼろの、さびた自転車に乗っていた。
「これ、買い替えたほうがいいんじゃないの」
「うーん、これは大事な自転車なんだよ」
お兄さんは腕を組んでぼくを見下ろした。
「これは、ひみつなんだけど、乗るとすごいことが起こるんだ」
「どんなこと?」
「それは、ないしょなんだ。神さまと約束したからね」
とうふ屋さんは、ぼくにとうふをわたすと、そのさびた自転車に乗って去っていってしまった。
数日後の夕方、とうふ屋さんのラッパの音を聞いてぼくは玄関から出た。
とうふ屋さんがおんぼろの自転車を下りて、となりのおばさんと話し込んでいる。自転車は、お兄さんよりちょっと遠い街路樹の影に置いてあった。ぼくはできるだけ息をひそめながら、その自転車に近寄った。
ぼくはとうふ屋さんの自転車にまたがってみた。かぎはかかっていない。足を伸ばしきると、ぎりぎりペダルに届く。スタンドを外して、半分立ちこぎのような姿で、ペダルを回す。見た目とは違って、チェーンは簡単に動き出した。
自転車は前に進まなかった。
そのかわり、ぐるぐると風景が周る。ペダルから足を離しても、流れていく町並みは変わらない。ぼうぜんとして、ぼくはサドルの上にすわっていた。
やがて風景は止まった。もとのぼくの家があり、となりのおばさんの家がある。
ぼくは自転車のスタンドをもどして、ちょっと考えこんだ。こいでも進まないのは不思議といえるかもしれないけど、「すごいこと」とは思えない。
お兄さんはまだ、となりのおばさんと話していた。
「ただいま」
ぼくは家にもどって、玄関でくつを脱ぐ。
「おかえり」
そのときはすごくびっくりした。ママの声だったから。
「今日はリョウくんの好きなオムライスよ」
ママは鼻歌を歌いながらフライパンを動かしていた。ケチャップのにおいが家にたちこめている。こんなふうに家でお料理をするなんてずっとなかったことだ。パパは料理がへただから。
とまどっているうちにオムライスが完成して、ママはテーブルに食器を並べる。シーザーサラダがぼくとママのお皿の間に置かれて、ガラスの水さしが汗をかいている。水の中にはレモンが一枚。
「今日はパパ遅いから二人きりで食べましょう」
そのことばに、ぼくはますますびっくりした。
「ママ、どうしてここにいるの」
「リョウくん、なんでそんなことを聞くの?」
「だって、ママはパパとけんかして出て行っちゃったんだよ。ほかに好きな人ができて、もう家にはもどってこないんだよ」
そう、ぼくのパパとママは離婚した。ぼくは両親のどちらかを選ばなくてはいけなかった。熱を出してまで悩んだあげく、ぼくはパパを選んだ。
はずなのに、ぼくの目の前にはママがいる。最初から離婚がうそだったかのように。
「そんなわけないでしょ? ママはずっとここにいるわ」
お腹の中にお湯を入れられたみたいに体があったかくなった。ぼくはよろよろとスプーンをとり、オムライスを食べた。間違いなくママの味だった。
「ほら、食べたらもう行かないと」
「どこに?」
「塾の時間でしょ」
そういえば、ママはぼくの進路についてよくパパと話しこんでいた。ママはぼくにいい学校へ行ってほしいと主張したけど、パパはそれに賛成しなかった。若いうちから生き方を決めなくてもいいじゃないか、というのがその理由だった。本人であるぼくが一番、意見を持っていない。
ママに追い出されるように家を出たけれど、どこへ行けばいいのかわからない。ぼくは今まで塾なんて通ったことがないんだから。自転車に乗ってから、何もかも変だ。
もうとっぷり日がくれてしまってとうふ屋さんもいない。
「あ、やっと出てきた」
ぼくに声をかけたのは、とんぼ玉のネックレスをした若い女の人だった。足首には金のくさりが巻いてある。となりには新品の自転車を引きずっている。全然知らない人に話しかけられたので、ぼくはとまどった。
「帰るよ」
「えっ」
女の人はぼくをむりやり自転車の荷台に載せる。落ちないようにすがりつくと、女の人は男らしく傷だらけの自転車にまたがり、勢いよくペタルをこぎだした。
ふたたび世界は回り、走馬灯が終わったときにはまた同じ玄関の前にいた。やっぱり変わらない風景の中、自転車とそれをこぐ人だけが変わっていた。
「とうふ屋さん?」
「びっくりしちゃったよ。人の自転車とったらだめでしょ」
とうふ屋のお兄さんは、今まで女の人が乗っていたサドルから下りた。自転車はさびと荷台のついたものに変化している。
「どうして……?」
「並行世界、って知ってる?」
ぼくは首を横にふった。
「要はもしもの世界、ってことだね。この自転車はそこに行ける」
「なんでそんなもの持ってるの」
「うーんとね、神さまは、たくさんの『もしも』からひとつひとつ選択肢を選んで、今の世界の姿を決めてる。でもまあ神さまだってなんでもできるわけじゃないから、うっかりもしもの世界がここにまぎれ込むこともあるわけ。おれはそういううっかりを直すように神さまから頼まれてるの」
「さっきの女の人は?」
「あれは『もしも』のおれ。大変なんだよ、別の自分で動くのってさ。でもあの世界ではおれ女だったから」
お兄さんはまるで世間話をするようにほほえんでいた。さびた自転車をひとなですると、悲しげに告げる。
「でもきみとはここでさよなら」
「どうして?」
「自転車のことばれちゃったから」
「だまってるよ。ないしょにするよ」
「でも、いつかままならないできごとがあったとき、もうひとつの世界に行きたくなっちゃうかもしれない」
「それって、だめなの?」
ぼくは本気で聞いた。ママといられる世界があるのなら、ぼくはちょっと気持ちが楽になると思う。パパがきらいなわけじゃない。でも、ぼくはパパとママをてんびんにかけたくはなかった。ぼくはどちらも選びたかったし、選びたくなかった。そう考えるぼくに、お兄さんはおごそかに応じた。
「もしもの世界のことばかり考えていたら、自分がだれなのかわからなくなっちゃうからね。おれみたいに」
とうふ屋さんはスタンドをけっとばすと、夜のやみに消えた。
家のとびらを開けると、だれもいなかった。ぼくはレトルトカレーがテーブルに置いてあるのをみつけたけど、おなかはすいていなかった。お皿をあらったふりをして、ぼくはそれを食べなかった。パパは、ぼくが眠るちょっと前に帰ってきて、ぼくに学校のようすをたずねた。
次の日からとうふ屋さんは別の人を雇った。なんと、もしもの世界で出会った女の人とそっくりだった。今も新品の自転車が、彼女にともなわれて働いている。
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