氷菓子の夢

 そのときはとにかくお金がなかった。ギターの弦を買ったり、スタジオを借りるたりする金はもちろん、まともに食っていけるだけの収入すらなかった。昔の彼女に土下座して金を借りたこともあったが、結局焼け石に水だ。

 俺は、とりあえず働かなくてはならない、と思った。親には大学を退学して以来勘当されたようなものだし、ヒモにしてくれる彼女だっていない。今こそ労働というものに従事しなければ。

 さりとて、長年定職にもつかなかった男を雇用したがる会社などないことも知っていた。

 暗い気持ちで就職情報サイトを検索していると、ひとつの求人が目に止まった。


――――――

簡単な作業のお仕事

※未経験者歓迎

時給1300円~

交通費支給、制服貸与

アイスクリーム工場での簡単な作業!

30代男性活躍中!

――――――


 この求人は、書いてある住所がとにかく近かった。それに、時給もかなり高い。バンドマン崩れなどお呼びではないかもしれないが、ちょうど電気代も止まりかけていた。一度だけでも、電話をかけて話を聞いてみよう。

 電話をかけると、すぐに工場に来てくれと言われた。俺は住所を見返して、少し首をひねった。こんなところに工場なんてあっただろうか。



 はたして工場はそこにあった。入り組んだ道の中にうねるように存在していた。俺はよくこの道を通っていたけれども、こんな建物は初めて見た。

 履歴書を持って行ったら、いらないと言われた。そりゃ俺だってこんな水増しだらけの紙切れは見て欲しくないが。

「あなたはいままで何をやっていたんですか?」

 一瞬答えに詰まった。しかし、嘘を言っても仕方がないと腹をくくった。

「バンドをしていました」

「バンドを?」

「はい」

 落ちたか、と察して、それからの応答はあまり覚えていない。最後に明日から来てくださいね、と言われ、やっと自分が受かったことを知った。



 この工場で作っているものはアイスクリームだった。よくスーパーで89円で安売りされている。味はバニラ、いちご、メロンの3つ。俺も何回か買ったことがある。

 まずは牛乳や砂糖やその他の原材料を機械で混ぜあわせる。それをごみが含まれないようにろ過して、「ホモジナイザー」とかいうよくわからない機械にかける。一度液体を殺菌してから、0℃くらいまで冷やす。それから味をつけて、やっと凍らせる過程に入る。色とりどりのカップにつめて、さらに凍らせたらだいたいはできあがりだ。あとは検品をして、出荷する。

 この説明をしてくれたのはまだ年若い青年だった。多分俺よりずっと年下だ。

 会話の合間にいくつなのか聞いてみると、19歳だという。しかもしばらくはこいつが上司なんだそうだ。やってられない。



 19歳にさせられることになったのは検品の作業だった。ベルトコンベアで流れてくるアイスに異常がないか調べる。

「まあ、たいていは機械がはじいてくれるんですけどね」

 19歳はすました顔で付け足した。時給1300円の仕事だとは思えない。体も何も使わないじゃないか。

「Nさんってバンドマンだったんですよね」

 唐突に、19歳はたずねた。俺が肯定すると、さわやかな顔に笑みを浮かべて、こうのたまった。

「そういう人は、この仕事に向いているんですよ」

 結局、ばかにされているのだ。

 ともあれ他に行くあてもない。俺は素直にアイスクリームを見守る仕事についた。非常に退屈な仕事だった。やっていると少しずつ、自分の人間性が擦り切れていくように思えた。

「Nさん、独身ですか? うち、寮があるから入れますよ」

 ある日の休憩時間に19歳が言った。家賃も滞納しかかっていたから渡りに船だった。少ない家財道具を寮に移し、俺は働いた。

 次第に、何かがおかしいな、と思い始めた。

 どんな音楽を聞いても、心が動かなくなった。仲間のライブにも行かなくなった。ギターそのものに触ることも減っていく。バンドは自然消滅して、もうメンバーがどこへ行ったのかもわからない。

 ストレスを感じているのか、とはじめは思った。だが、気分は凪のように落ち着いている。曲作りに四苦八苦していたあのころが、蜃気楼だったように感じる。

「仕事に慣れてきましたね」

 19歳が満足そうに笑う。薄っぺらい顔だ。だが真実なのかもしれない。ブルジョワとはとても言えないが、少なくとも世の中には参加している。前よりよほどマシな人生なのかもしれない。

 やがて俺は、みんなと同じ制服を着て、みんなと同じ髪型の、みんなと同じ仕事をするただの人間に成り下がった。



 本当に不満はなかった。だからそれを見てしまったのは本意ではなかった。

 急にベルトコンベアが止まってしまったので、その場を他の従業員に任せて19歳を探しに行った。探してもいない。機械の波をかき分けていると、まったく知らないマシンが置いてあるところに出た。

 無機質な機械の群れとは反して、その機械は禍々しかった。魔術的に入り組んだパイプが、大きな樽のようなものに巻き付いている。その下に19歳はいたので、俺は話しかけようとした。

「Nさんベルトコンベアが止まっちゃったんですか。たぶんこれが調子悪かったのが原因ですね」

 俺は別に魔術的機械について知りたいとは思わなかったが、19歳は勝手に続きを話した。

「うちの会社のキャッチコピーを覚えていますか。『アイスクリームに夢を』。その機械です」

 CMでやっているのを見たことがある。俺は頷いた。早く元の位置に戻って欲しいと思っていたからだ。

「これは夢を搾り取る機械です。つまり、昔のあなたみたいな人から、『将来の夢』を拝借して、アイスクリームに混ぜているんです。だからうちのアイスクリームは売れるんです」

 怒るべきなのだろうか、と考えた。けれども心は動かない。

「あなたのような、いつまでも夢から覚めない人間は害悪ですからね。だった、と言うべきでしょうか。当然の報いだと思いませんか。僕は家が貧しくて、ろくな夢を見ずにこの会社に入りました。だからいつまでも夢を追い続けている人間を見ると腹が立ちます」

 そういうものかもしれない。自分が19歳に嫌われていると知っても、大した感慨はわかなかった。

「僕はこの仕事、好きですよ」

 19歳はまた笑った。本心からの感情に見えた。



 俺はやがて検品よりもう少し責任のある仕事を任されるようになった。その間にアイスクリーム工場にはさまざまな人間が訪れた。残る人間もいれば、去っていく人間もいた。

 あの魔術的機械を、再び見ることはなかった。それこそ俺の罪悪感からやってきた、蜃気楼だったのかもしれない。ただ今となっては、どうでもいいことだった。

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