REASON ー取引ー

「本日も、ありがとうございました」

「いいえ。私は本を運んでいるだけですから」

「十分すぎるほどです。本来なら、自らあちらへ赴ければ一番いいのでしょうが」

「難しいでしょうなあ。空気が肌に合わないというのは、対策のしようがない」

 森の一番奥。

 龍を祀った祠へと、私は案内されている。

 この森を創り出した、すべての生命の源とされ、神と崇められる龍。恐れ多いことに、この人間のじいさんは、森へ来るたびに謁見の機会を頂いているのだ。

「案内できるのはここまでです。またのちほど」

「はい。帰りもお願いしますね」

 崖を切り出した祠に、私は足を踏み入れた。



 大きな、しかし神龍という言葉から想像するよりは、小さな龍である。

 あえて人間界の動物で例えるならば、きっとカンガルーがこれくらいのサイズではないだろうか。カンガルーを生で見たことは、残念ながらないのだが。

「ごきげんよう。遠くからはるばる」

「いえいえ。相変わらず、お美しい」

 実際、その神様は美しかった。

 体を覆う緑銀の鱗は淡く光を放ち、ひとたび羽ばたけば煌びやかな鱗粉が舞う。鋭利な爪と頭の双角は純金を思わせ、光を逃さぬ瞳の黒は吸い込まれるように深い。どんな獲物をも逃さぬ強靭な牙からは――おや、橙色の果汁が漏れている。

「申し訳ございません、お食事中でしたか」

「大丈夫。あなたは私の創造物ではない。信仰する理由も意味もない」

 神龍様は翼を広げ、一仰ぎ。それだけの動作で、竜巻にも似た強風が巻き起こった。少し運動ができるおじさんに踏みとどまれるはずもなく、私は吹き飛ばされて地面を十メートルほど転がった。

「すまない。大丈夫だろうか」

「ええ、なんとか。いや、死んだかと思いましたよ」

 翼の奥から声が聞こえる。隠した顔がゆっくり露わになると、真っ白な牙がお目見えした。意外とお茶目な神様である。

「では、いつものを」

「はい。いつもありがとうございます」

「こんなものでいいなら、いくらでも持たせよう」

「いえいえ。一つで充分すぎるほどです」

 駆け寄り、私はトランクケースを開いた。

 鋭い爪で抱えている、大きく透き通った塊。それは卵のような形をしていた。実際に、神龍様の腹から産み落とされたものだという。

「いつも気になっていた。一体何に使うのだ?」

「なんだと思いますか?」

「見当もつかないな。なにせそれは、命のない卵。言うなれば、失敗作だ。本物の命を生み出す前に生まれる、自ら割れることのない卵」

 失敗作ときたか。確かに、実用性はないかもしれない。

 だが、向こうの世界では価値のあるものだ。と、素直に教えてもいいのだけれど――少し、遊んでみたくなった。つい自分の知識をひけらかしたくなるのは、老人の悪い癖だ。

「答える前に、ひとつ質問をしていいですか?」

「ああ」

「神様は、炎を出せますね?」

「ああ」

 おや、もう少し驚いてくれるかと思ったのだけれど。

「外から森を守るための力であり、万が一子供たちが外道に堕ちたとき、自ら終わらせるための力。幸いにも、今まで一度も使う機会は訪れなかったが」

「エルフの皆さんは温厚ですからなあ。きっと、後者の理由で使う日は永遠に来ないでしょう」

「どうして、それをあなたが知っている? 子供たちさえ知らないはずのことを」

 知っているわけではなく、一つの仮説だった。

 大きなトランクにギリギリ入るサイズの卵――これがダイヤモンドだと知っているからこそ、立てられた仮説だ。


「これも科学ですよ。私はただの本好きですから、間違ってるところもあるかもしれませんけどね」

 モノが燃えるには炭素が必要だ。炭素の結晶であるダイヤモンドが体内から排出されるということは、そういうことである。

 察するに、炎を出すために蓄積している炭素が卵を造る際に邪魔になるため、あらかじめ放出しているのではないだろうか。だから本当の産卵の前に、失敗作の卵が産み落とされる、と。解剖をしたわけでも生物学に通じているわけでもないから、単なる仮説にすぎないが。人間界の生物学が、こちらで役に立つかは別として。


「このよく燃える石はね、あっちの世界ではすこぶる価値の高いものなんですよ。ほら、私の指にも」

 左手の薬指。まだ若いころに、身を削る思いをして少しずつ貯金して買った、結婚指輪だ。

「小さいですが、綺麗でしょう? 私と妻の、愛の証です」

「ああ。同じものだと言われても、納得できないな」

「大きなものは、本当に珍しいんです。砕いて、削って、磨いて、加工して……そしてまた、誰かの愛の証になるのです」

「それは、素敵だな」

「はい。とても」


 神様の腹から宝石が生まれる――偶然にしては、なかなか洒落ている。

 ただ、この事実は私だけの秘密だ。欲にまみれた誰かの耳に入ったら、きっと、次の報酬はいつもよりはるかに小さくなることだろう。

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