辛子と漆黒

 山間やまあいにある村での現地調査と試料収集を終えて大学の研究室に帰り着いたのは、もう夜中だった。学生は誰も残っていなかったが、助教の中里くんがデータシートを見比べながらコンビニのおでんを食っていて。研究室の中には醤油とダシの匂いがぷんと漂っていた。


「おー、うまそうな匂いだな」

「あれ? 新井先生。まだ夕飯食べてないんですか?」

「向こうを出るのが遅くなっちまったからな。帰りにコンビニで何か買って食うさ」


 おでんが入っている黒いポリ容器。端に和芥子がへばりついていて、醤油モノトーンの世界に唯一原色を主張していた。それを横目で見ながらでかいバッグを床に降ろし、中から保冷容器を取り出す。今回のお宝は種子だ。そのものを解析するわけじゃなく、播いた種子が芽を出してくれればいいので、保冷と言っても適当。ユニパックに小分けにしてある種子を容器から出して、実験室の冷蔵庫に収めた。


 中里くんが、口をもぐもぐ動かしながら俺の首尾を確かめる。


「先生、種子は入手できたんですか?」

「ああ、農家さんが分けてくれた。ただ、アブラナ科の作物はとにかく交雑しやすい。昔ながらの形質がちゃんと遺存しているかどうか、心もとないけどね」

「そっか……」

「それでも、遺伝解析の材料としては十分価値がある。山間部で細々と作付けされてきたなら、少なくとも外来品種との交雑頻度は低かったはずだからな」

「そうですよね。すぐ播いてみるんですか?」

「もうすぐ学生の実験が一段落して三号のグロースチャンバーが空くはずだから、栽培するのはそのあとだな」

「楽しみですね」

「まあな。でも、それまでの間にしておかんとならんことがあるんだ」

「近似系統の予備解析ですか?」

「いや、もっと泥臭いこと。官能試験さ」


 保冷容器の中から、鮮黄色の物体が入った小さなガラス瓶を引っ張り出す。それは資料保管用のそっけない管瓶ではなく、装飾の施されたレトロなガラス瓶だ。首を傾げながら小瓶を受け取った中里くんが、中身を矯めつ眇めつ観察していたが……。


「これって練り芥子ですよね?」

「そうだよ。俺が採種に行った村で、伝統的に作られている練り芥子さ」

「へえー。じゃあ洋芥子じゃなくて和芥子ですよね? それにしては、ずいぶん色が……」

「鮮やかだろ? だから、わざわざ調査に行ったんだ。本当に希少な品種だろうなと思ってね」


 研究室の冷蔵庫から二本の練り芥子のチューブを出し、白い小皿の上に中身を少し絞り出す。


「和芥子と洋芥子の違いは知ってるだろ?」

「もちろん。本来は品種の差ですよね。和芥子はオリエンタル種。洋芥子はイエロー種」

「そうだ。今は配合で調整しちまってるから、それほど厳密ではないけどな」

「挽きぐるみにするか皮を剥くかの方が、色の差異としては大きく出ますよね?」

「ああ。皮ごと挽いた和芥子は、くすんだ黄色になる」

「味は和芥子の方が辛いんでしたっけ」

「種皮の近くが一番辛いからな。でも、それは配合次第さ。なんとも言えん」


 二種類の芥子を乗せた小皿をテーブルの上に置き、その横に先ほどの練り芥子の瓶を並べる。


「これって、色だけ見たら絶対洋芥子ですよねえ」

「だろ? さて、さっそく官能試験だ」


 ガラス瓶の蓋を開け、中の練り芥子をスパチュラで少しだけ掬ってさっきの皿にとんと置いた。


「うおっ!」


 よく見ようと皿に顔を近付けた中里くんが、弾けるように顔を背け、むせた。


「けほっ! す、すごいな」

「はっはっは! それがこの品種の売りなんだよ。味も見てくれ」


 シンクの横から爪楊枝を持ってきた中里くんは、市販のチューブ芥子の方は事も無げに舐めたが、俺が持ってきたやつにはすぐに手を出さなかった。


「じゃあ……」


 何かを覚悟したように爪楊枝の先を舐めた中里くんが、さっきよりも激しくむせた。


「げほっ! げほっ!」

「すごいだろ?」

「こんな芥子、見たことないです。強烈! えほっ」

「官能試験のやり甲斐があるってやつだな。はははっ」

「けほっ」


 涙目で口をすすいだ中里くんが、鮮黄色の芥子をじっと見つめる。


「先生、これって、自家用ですか?」

「そう。昔は出荷もしていたらしいが、風味が荒々しすぎるんだよ。芥子は香辛料さ。それ自体が主役ではない。でも、この芥子は主役を食っちまうんだ」

「ええ。それじゃあ……」

「でもな」


 俺は、練り芥子の瓶を目前に掲げる。


「目を引く鮮黄色。立ち上る香気。口から鼻に突き抜ける刺激。本来、芥子は脇役にしては目立つ存在だった。この芥子は、その原則に忠実なんだよ。育種の過程で野生を丸められた現代っ子とは違う」


 おでんが入っていた黒い容器の端。そこにへばりついている芥子を指差す。


「味の濃い惣菜に付け合わせるなら、あるんだかないんだか分からないような芥子じゃ本来寸足らずなんだ。だが、今市場に出回っているのはそういう芥子もどきばかりさ」

「もどき、ですか」

「そう。別に芥子なんざなくたって食えるだろ?」

「ええ」

「それじゃ芥子の意味がないよ」

「うーん……」


 バッグの底からもう一つ紙箱を取り出してそれを開く。箱の中には薄紙に包まれた一枚の漆器。なんの装飾もない、漆黒の丸皿だ。


「黄色は膨張色さ。淡い色彩の中に置けばボケる」


 先に芥子を並べた白い皿を指差して、確認する。


「ぱっと見には、微妙な違いが分からないだろ?」

「そうですね」


 漆黒の皿の上に、ガラス瓶の中の芥子を少し置く。


「こうすると、黄色が黒に引き締められてその存在が際立つ」

「警戒色、ですね」

「ははは。そうだな。でも、中里くんの持っているおでんのプラ容器。それも黒なんだよ」

「あ!」

「そいつに芥子がへばりついてたって、ああ芥子があるんだという見方しかされないよ。芥子の違いに着目されることなんかないね」


 改めて、芥子の瓶を目の前にかざす。


「つまり。黄色にも黒にもクオリティがある。単なる色の個性や色同士のコントラストで訴える以上のでかい要素が、それぞれの色の背後に潜んでいて。その要素は、二色どちらのクオリティが低くても探り出せないことがある。俺は、そういうことだと思うんだよ」

「あの、先生」

「うん?」

「それは……何かのたとえですか?」

「もちろんだよ。中里くんへの謎かけじゃない。俺自身にとってもすごく大事なことなんだ。だから、わざわざ官能試験を先に組み込んだんだ」


 芥子が乗った漆黒の皿。それを手に取った中里くんが、顔をしかめた。


「中身をどんなに調べても、飼いならすことなんか永劫に出来ないぞ。その荒々しい芥子は、俺に挑んでいるように見えるのさ」

「挑む……ですか」

「そう。内包されている強い野趣が色に出る。そして黒で際立つ。俺に対してだけじゃない。その芥子は料理人にも挑むんだよ。俺を使えるもんなら、その気取った黒皿に乗せて使ってみやがれってね。だから今まで品種が残ってたんだ」

「すげえ……」


 ことん。

 黒い皿をテーブルに置いた中里くんが、ぎっちり腕を組んで鮮やかな芥子を凝視する。


「なあ、中里くん」

「はい?」

「選抜育種ってのは……なんだろうな」

「……」

「次のゼミのテーマはそいつだ。いつものゼミは白い皿。漆黒の器は、試験だよ。官能試験は、データを得るだけが目的じゃないんだ。学生には、その芥子を食って泣いてもらう」



【 了 】



+++++++++



自主企画、『テーマ小説「黄色と黒」』参加作品。


見出し:芥子の黄色と黒い器。対比の結果はいつでも同じか?

紹介文:芥子菜の希少品種の種子を譲ってもらうために、山間の村に出向いていた新井教授。夜中に帰着し、研究室でおでんを食っていた助教の中里さんに、その芥子種から作られた練り芥子を試食させますが……。


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