窮鼠猫を噛む
敵意や悪意を持っている相手と会話を交わす意味はそもそもないし、無理に話をしたところで何のメリットもない。そこまで極端ではないにせよ、自分に対する意識に強度のバイアスがかかっている相手とは話をしたくない。それを自由に取捨選択出来る奴はいいご身分だと思う。商売が絡むと、そうは行かないんだよ。
俺らの商売は記者だ。丁寧な取材姿勢を徹底して相手から必要な事実と執筆材料を聞き出せれば、あとは筆力の出番さ。会話術の巧拙は記者としての資質に直にはつながらない。会話術が拙い部分は、事前にきちんと備えることであらかたカバー出来るからだ。ただ、その備えが間に合わなかった時が問題なんだ。
今みたいにな。
◇ ◇ ◇
とことん難物の老劇作家矢部とのインタビューを突然任されることになった新米記者の岡田さんは、最初から矢部のいかつい雰囲気に飲まれていた。さながら、蛇に睨まれた蛙。挨拶がまともに出来るかどうかすらおぼつかない。
話題をあらかじめ予測して頭の中に想定問答を叩き込んでおくことは、緊張由来のパニックを回避するという点では有効だ。でもそいつには厄介な副作用がある。想定から外れた展開になった途端、逆にパニックの原因になっちまうってことだ。記録係として備えていた岡田さんの今の状態が、まさにそう。パニックを防ぐには、アドリブの能力を鍛えるしかないんだ。
まあ、何事も経験だ。お手並み拝見と行こう。最初にインタビュー風景を撮り込んでおけば、いざという時にはバトンタッチできる。そこまではなんとか踏ん張ってくれよ。
かちかちに緊張していた岡田さんが辛うじて声を絞り出し、インタビューを始めた。
「ほ……本日は、当社のインタビューを受諾していただき、本当にありがとうございます。私は週刊メダイユの岡田と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「そんなのはどうでもいいから、さっさと始めてくれ」
これだよ。最初から嫌兵衛節全開だ。顔を引きつらせた岡田さんが、俺の書いた要点メモに素早く視線を走らせた。まあ……いくらアドリブと言っても、丸腰ってわけには行かないからな。
「それでは、始めさせていただきます。先生が書き下ろされた新作『
「手応えなんざどうでもいい。俺は、いつも書きたいように書いてんだよ。くだらねえこと聞くな」
絶句する岡田さん。そうさ、万事が万事こうなんだよ。横柄な態度をぶちかますだけならまだいい。こいつはすぐに人の粗探しを始める。油断するなよ。
「あ、あの……先生の脚本は着眼点が唯一無比であり、そこが……」
「おい!」
矢部の顔が瞬時に真っ赤になった。俺も頭を抱えた。あーあ、やっぱりやらかしやがった。メモには無難に『ユニーク』と書いといたのに、なんでとんでもないアドリブをかますんだ! 言い換えるなら唯一無二だよ。唯一と無比を無神経にくっつけた造語が出回っていて、不幸にもそれが岡田さんのどたまに刷り込まれていたんだろう。これがごく普通の会話なら、気付いた聞き手に苦笑されることはあってもほとんどスルーされる。だが、矢部は絶対にそれを許してくれない。まんまと餌を与えちまったなあ。
これで、残り時間は矢部の雑言を一方的に聞かされるだけになるだろう。俺は、早々に撤退を考えることにした。そらあ、ヘマった岡田さんのせいじゃないさ。アポをぶっちしやがった江口のせいだ。後でとことん吊るし上げてやる!
「こんな日本語のまともに使えねえバカ女を連れてくるな!」
矢部が大声で吠えた。まだ自分のへまに気付かない岡田さんが、慌てて謝罪する。
「申し訳ありません」
「おまえ、そもそも俺の脚本をろくに見てねえんだろ?」
「いいえ、熟読させていただきました」
「じゃあ、タイトルになっている揺籃が何を意味しているか分かるか?」
ほら始まった。こらあきついぞ。揺籃は揺りかごのことだが、劇中ではそれを何種類もの
「……」
数秒間じっと考え込んでいた岡田さんは、わずかに微笑んで思いがけない答えを返した。
「存じません」
「なんだと!」
意味一つだけでなく、全部ばっさり、か。岡田さんの表情を見て、俺は確信した。矢部の罵倒でぷっつんして、戦闘モードに突入したんだろう。
俺は腹を括った。そうだな。どうせ撤退ならきっちり自力で落とし前をつけたほうがいい。玉砕してこい! 骨は拾ってやる。
「先生。わたしは、演劇評論家でも演劇愛好家でもありません」
「そ!」
……んなやつを連れてくるなと吠えたかったんだろう。矢部の口を、岡田さんが言葉でぴしりと塞いだ。
「わたくしどもで刊行している雑誌は、演劇専門誌ではなく大衆紙です。この度の特集は、演劇に興味はあっても敷居が高いなあと感じているわたしと同じような読者さんに、演劇の魅力を紹介するのが目的です。さらに、どうしても役者さんの演技に向きがちな視線を、脚本という劇の屋台骨にも向けてもらおうという狙いで、複数の劇作家の先生に取材を申し込んでおります」
「それがどうした!」
「矢部先生は、その企画の趣旨を理解した上で取材を承けてくださったんですよね?」
「……」
ううむ、見事だ! 脚本の趣旨を理解していないという矢部の太刀を、取材の趣旨を理解していないという同じ理由で真っ直ぐ切り返した。矢部が引きずり込もうとしていた文法や用語の誤謬指摘という泥沼を、一瞬で消し去りやがった。やるなあ。
岡田さんは攻め手を緩めず、そのまま本丸に切り込んだ。
「正直に申し上げて、先生の脚本は無学なわたしにとってはとても難解です。理解力の乏しいわたくしどもが先生の手掛けられた演劇を通じて気付きや感動を得るには、どうしても補助や手引きが必要なんです。分かる人だけ見なさいという記事を載せても、演劇愛好者の裾野拡大にはつなげられません」
「く……」
その後どう持って行くのかなと見守っていたが。岡田さんは、微笑を浮かべたまま矢部に向かって丁寧に頭を下げ、インタビューを切り上げた。
「ご多忙中、煩わしいことをお願いして本当に申し訳ありませんでした。わたしの不勉強で先生に多大なご迷惑をおかけしたことを、深くお詫びいたします」
席を立った岡田さんは、改めて矢部に向かって深く頭を下げ、すでに撮影機材を片付けていた俺より先に部屋を出た。
「失礼いたします」
◇ ◇ ◇
そのあとトイレに駆け込んで号泣していたんだろう。目を真っ赤に泣き腫らした岡田さんが、とぼとぼとロビーに戻ってきた。
「おう、ご苦労さん」
「チーフ、済みません。失敗しちゃって」
「唯一無比はねえぞ。唯一無二」
「あ……」
「たった一字。その一字の違いで意味も運命も変わることがある。ジャーナリストなら、もっと神経を使わないとだめだ」
「……はい」
「まあ、でもあんなもんだ。俺が取材したって、実を取れるかどうかは極めて微妙だったからな」
「どうしてですか?」
「脚本の根幹部分で丁々発止をやらかすほど、内容が難しくなる。俺自身はそういうひりひりしたやり取りが大好きなんだが、記事にはならん」
「あっ!」
「岡田さんが言った通りさ。特集記事としてきちんと読者への訴求力を持たせるには、矢部さんか俺のどちらかが内容を噛み砕いて表現する必要がある。だが、俺が勝手に平易な解釈をすれば矢部さんが黙っていないし、矢部さんには読者に理解されようという意図がそもそもない」
「そっか」
「どっちにしても、最初から失敗を覚悟の上でのインタビューだったからな」
「それでも……」
完全に意気消沈している岡田さんに、甘ったるい缶コーヒーを差し出す。人影まばらな空間に、プルタブを起こす小さな衝撃音が響いた。
「なあ、岡田さん。窮鼠猫を噛むっていうことわざを知ってるだろ?」
「ええ」
「意味を説明出来るか?」
「ええと。鼠でも、追い詰められたら猫を噛むことがある。弱い立場の者でも、切羽詰まったら逆襲する……ってことですよね」
「合ってる。じゃあ、そいつを会話や記事で使ったことがあるか?」
岡田さんが、ひょいと首を傾げた。
「うーん……ないかも」
「だろうな。そのことわざ、自分が鼠の立場なら使わないし、自分を表す言葉として使って欲しくもないのさ」
「あっ!」
「だろ?」
「はい……」
「それだけじゃない。そいつを使うということは、ことわざで表現される誰かを鼠と同一視する、低く見るということだ。だから、少なくとも俺は極力使いたくない」
「そっかあ」
「それを今、あえて使う」
「……」
「さっきの岡田さんの逆襲は、まさに窮鼠猫を噛む、だ。矢部さんに食い殺されたくない君は、反撃後にさっと撤退した。それは賢明だと思うよ。頭に血が上った矢部さんと低次元の罵り合いをしたって、記事にはならん。互いに遺恨を残すだけで何の益もないからな」
「はい」
「だが、撤退も結果としては同じなんだよ。あれじゃあ記事が書けない。そうだろ?」
「う……」
「鼠っていう立ち位置に甘んじて欲しくない。俺らは、常に俺らより大きいものに挑まないとならないのさ。それなのに鼠だから猫に勝てないと思ってしまうようじゃ、鼠クオリティの記事しか書けん」
さっきの悔しさがこみ上げてきたんだろう。頷いた岡田さんがしきりに目を擦り始めた。
「インタビューを始める前に俺が言ったこと。それをよく覚えておいてくれ。インタビューは真剣勝負だ。する側される側が真正面からどっぷり四つに組まないと、いい記事にはならん。それが今日みたいな刺々しい雰囲気でも、和気あいあいであってもだ」
「そう……か」
「それなら、自分は鼠だっていう引け目や
「はい」
「根性を鍛えろって言ったのは、図太くなれってことじゃないからな。自分が相手と対等の立場になるには何が必要かを常に考えろ。どこまで譲歩しどこまで攻め込めば実を取れるか……いついかなる時にもそう考えられるように、思考や感情の芯を鍛えて太くしてくれ。そういうことさ」
「うう、反省ばっかです」
「いや、感情を爆発させずにきちんと筋で押し返したのは見事だったよ。これで『次』につなげられれば、インタビューの中身が何であっても満点だったんだが、まあ初陣としては及第点だろう。経験をこれから活かしてくれ」
「はい!」
「さて、と」
さあ帰ろうと思ってカメラバッグを担いだら、背中にしわがれた声が当たった。
「おい、逃げるのか?」
ちっ! 嫌兵衛め。のこのこ出て来やがったのか。しかも、どっかで俺たちのやり取りを聞いてたな。本当に食えねえやつだよ。とりあえず、毒ガスをぶっ放しておこう。
「逃げるつもりなんかありませんよ。でも、記事にならないインタビューをぐだぐだやったところで意味がありませんから」
俺の嫌味を薄笑いで跳ね返した矢部は、顔が強張っていた岡田さんにも同じ
「逃げるのか?」
「逃げるつもりなんかないです」
眉を吊り上げた岡田さんは、きっぱりと言い切った。それは、鼠に甘んじてしまった自分自身への決別宣言でもあったんだろう。
岡田さんの
「じゃあ、部屋に戻れ。続きをやろう」
「はい!」
ふむ。早速『次』が来たな。これで、満点だ!
【 了 】
+++++++++
自主企画、『間違いやすい日本語を題材にした短編』参加作品。
見出し:窮鼠猫を噛む……で、いいの?
紹介文:嫌味な老劇作家にインタビューしなければならなくなった、新米記者の岡田さん。チーフの闘魂注入を受けて、いよいよ実戦になりましたが果たして……。
リクエストにお応えして、やべえとの対決を。『食い放題』の続編、かつ顛末記ということになります。
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