結納の後

「出されたの、蘭茶らんちゃだったね」


 少し残念そうな口調で、家内が呟いた。


「ああ、そうだな」


 娘の結納の儀が滞りなく終わり、ホテルから自宅に戻ってほっと一息。堅苦しい雰囲気と着慣れない服装から解放された俺と家内は、なんとも珍妙な顔合わせになった今日の会食を微苦笑とともに思い返していた。


 専門学校を卒業した後、結婚式場付きのメイクアップ担当社員として働いていた娘は、まだ成人していくらも経っていないのにいきなり結婚する宣言をぶちかました。付き合っているカレシの存在すら知らなかった俺たちは、あまりに唐突な娘の宣言に絶句するしかなかった。

 しかし。すでに成人し、働いて自力で食ってる娘の決断に俺たちがけちをつける筋合ではない。おまえの好きにしろで済ませようとしたんだが、そうは問屋が卸さなかった。カレシは娘の一つ年上らしいが、ほぼ同い年と言っていい若者なのにとてもしっかりしていた。常識や礼儀を俺たちよりもわきまえていて、所帯を持つまでの手順をきちんと踏みたい……そう申し出てきたのだ。俺たちに似てどこかぶっ飛んでいる娘にしてはずいぶん堅実な男を選んだものだと、驚くやら呆れるやら。


 ただ……結納の儀でカレシのご両親と顔合わせをすることに、俺も家内もひどく気後れしたのは事実だ。そらそうだろう。俺と家内は還暦をとうに過ぎている。紛れもなくじじばばだったからね。


◇ ◇ ◇


 恋人同士ではなく、夫婦になること。法的責任を課せられることを含め、結合やリセットにより多くのエネルギーを要する夫婦になることは、軽々しく決断できるものではない。結婚に踏み切るには、どうしても大きなパッションが要る。


 だが、俺と家内の場合はそこがぼろぼろだった。食い詰めた劇団員同士が生活のために同棲を始め、はっと気付けば二人揃って社会の最底辺もいいところに転げ落ちていた。そこから這い上がるには、夫婦というユニットの方が使い勝手がよかったんだよ。だから夫婦と言っても気の合う友人同士みたいな関係で、それ以上でもそれ以下でもなかった。婚姻届一枚書いて出しただけで、双方の親に何を報告するでもなく、結婚式もしなかった。


 貧乏ながら好き勝手に暮らしていた俺たちの生活が一変したのは、家内が四十を過ぎて妊娠したからだ。俺たちは、そこから慌てて夫婦としての格好をばたばた取り繕い始めたんだ。夫婦として在ることに大したパッションを使わなかった俺たちが、家族になることにそいつを注ぎ込む。どうにもバランスが悪かったが、まあなんとかここまで破綻せずにやってこれた。


 娘は、そんな俺たちの無軌道な性質を根底に受け継いでいながら、一方で俺たちのパッションの配分に強い不満を持っていたんだろう。それが、今回の唐突な結婚宣言に表れたのかなと思ったりする。


「ねえ、慎ちゃん」

「ん?」

「向こうのご両親、まだ三十代だったんじゃない?」

「若かったな」

「じゃあ……」

「そう。あらあ、十代で出来ちゃったのカップルだろさ」

「そんな印象。でも、すごくしっかりしてたね」

「俺たちよりずっと、な。きっと苦労を重ねて息子をしっかり育ててきたんだろう。そうでなきゃ、結納がどうのこうのって話にはならないよ」

「ふふ」

「まあ、俺たちは俺たち、若夫婦は若夫婦さ。自分たちで納得の行くパッションの使い方を考えてくれりゃあいい」

「そうね。ねえ、慎ちゃん」

「なんだ?」

「結婚式の時、泣く?」

「泣かないよ」

「どして?」

「それどころじゃないからさ。記念撮影の時に、どこに新郎新婦の両親がいるのかと思われるのが目に見えてる。逃げ出したいね」

「ぎゃははははっ!」


 若い頃のように慎みもなにもなく大笑いをぶちかました家内は、その笑いに紛れ込ませるようにして目を擦った。おいおい、今からそれじゃ本番がもたんぞ。


 俺は、ハンガーにかけてあった背広のポケットから小さな紙袋を出し、その中のものを座卓の上に乗せた。


「あ……ら」

「こっちの方が好みなんだろ?」

「うん」

「俺たちには結納も結婚式もなかったんだ。ちょっとだけ、あやからせてもらうさ」


 わずかに微笑んだ家内が、キッチンから湯呑み茶碗二客とポットのお湯を持ってきた。ビニール袋の封を切って中身を湯呑みにそっと落とし込み、湯を注ぐ。


 ふわりと漂う春の香と、パッションのかけら。


 湯の中で開いた薄紅色の花弁を覗き込んだ家内が、水面にいくつもの環紋を描いた。


「うっ……うっ」



【 了 】



+++++++++



【三題噺】桜、熱、涙。ただし、文中でその言葉を使わないこと。


見出し:娘の結納の後、心に去来すること。


紹介文:娘の結婚が決まり、その結納の儀を終えて帰ってきた老夫婦が、ふと来し方を振り返ります。


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