予兆

 仕事帰りに同僚のケリーに誘われた俺は、やつの部屋で分厚い本を開いていた。読むなら薄っぺらいペーパーバックでいいんだが、業務に必要な仕様書じゃしょうがない。オフまで仕事に拘束されるのはなあ……。ぶつくさこぼしながら、本のちょうど中程なかほどの頁に目を落とす。


「なあ、ハービー」


 打ち合わせに誘っておきながら、俺より先に飽きたんだろう。ケリーが膝の上で開いていた本をばさりと音を立てて閉じ、俺の読書を邪魔しにかかった。


「なんだ?」

「おまえの前を何が横切ったら、凶兆を感じる?」

「ごきぶり」

「同じ黒くてもそれじゃなあ……」

「殺虫剤で予兆が消えて未来が明るくなるなら、世の中万々歳だ」

「ふん!」


 俺の皮肉を鼻息一つで瞬殺したケリーは、窓の外に目を遣った。鉛色の雨雲が全天を隙間なく覆い、今にも大粒の雨が地を叩き出しそうな空模様。ケリーが、がたがたとせわしなく音を立て始めた窓を指差した。


「じゃあ、嵐が近付くってのは凶兆か?」

「絵柄的にはな。だが、そいつは予測可能なただの気象現象だ。快晴なのに自分の頭上にだけ雷雲が集まってくるとかなら別だが」

「ありえんな」

「だろ?」


 壁に掛けられている晴雨計バロメーターを指差す。針は、大雨のところまで振り切れている。


「そいつは、女たらしの観察から生まれたのさ。雨が近付くと女の指がどこをいじるかが変わる。女の行動変化に気付いたやつが、そいつと天候との関係を導き出した。科学者はその因果関係を天候変化の予測に活用したが、女たらしはそれを予兆を置くことに使う」

「予兆を置く……か」

「そう。あえて予兆を女に吹き込むことで、心を支配するのさ」

「ふむ」

「予兆は偶々たまたま起こるんじゃなく、目的に応じて意図的に製造、使用されるってことだよ」

「じゃあ……意図を伴わない予兆もどきには意味がないってことか」

「そらそうさ。意図に勘付かない連中は、そいつを無視するからな」

「まあな」


 本を畳み、それをテーブルの上にぽんと放り出す。


「さて、与太話はこれくらいにしておこう。仕事だ」

「そうするか」


 席を立ったケリーが、ぎしぎしとせわしなく軋んでいた窓を力任せに押し開いた。その途端、咆哮とともに侵入した横殴りの雨が俺たちの顔を容赦なく叩いた。諦めたようにケリーが呟く。


「物は考えようか。こういう大荒れの時には俺らが予兆にならないから、かえって仕事が楽になるってことだな」

「まあな。俺らの商売には予兆なんざ一切要らん。邪魔だ」


 俺は、黒い皮表紙の二冊の本を指差した。閉じられていたはずの本が開いて、ぽっかりと白い腹を見せている。そこは、俺とケリーが先程まで見ていた頁だ。部屋を蹂躙している悪魔の咆哮は紛れもなく現実だが、それが開かれた頁や運命を動かすことは決してない。予兆オーメンなんてものはどこにもない。全ては予定調和さ。


 改めて紙面を確かめた俺とケリーは、開け放たれた窓から外に飛び出した。


「ケリー! 予兆で終わらすなよ。確実に仕留めてこないと、後で面倒なことになるぞ」

「分かってるって。じゃあな!」



【 了 】



+++++++++



【三題噺】風、猫、髪。ただし、文中でその言葉を使わないこと。


見出し:俺の仕事には、予兆は要らない。


紹介文:嵐が近付く中、二人の男が本を読みながら仕事の打ち合わせをしていますが……。




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