届かない懇願

「おい、頼むよ! 頼むから出てきてくれ!」


 若い男が、ドアを力任せにがんがん叩き続けている。

 その拳は頑丈なドアを打ち壊せるほど頑強ではなく、黙したままのドアは容赦なくそれを叩き返す。哀れ、男の拳は何箇所かで裂け、拳もドアも血塗れになっていた。


 ドアの向こうにいる女は、男がドアを殴りつける勢いが収まるのを待って新聞受けの隙間から男の様子を伺おうとしているようだ。だが、そのタイミングが掴めないのか、ドアから少し離れた位置に両腕をだらりと垂らしたまま立ちすくんでいた。


「頼む! 頼むよ! 出てきてくれ! おまえの欲しいっていうものはなんでも買ってやる! 金で買えないものなら、俺がなんとしても手に入れて持ってくる! だから出てきてくれよ!」


 男の懇願とドアにくるりと背を向けた女が、すいっと顔を上げて呟いた。


「あなたが与えようとしているものは、どれも即物的なものばっかり。わたしが、どうしても欲しいもの。あなたは、それだけは持ってきてくれないの。何度押しかけて好き勝手なことを喚いてもだめよ。それじゃ、わたしの心の扉は開けられないわ。そこの扉を開けられたとしてもね」


 大声で喚き続ける男には、女の呟きが届かなかったのだろう。買ってやると言ったものはどんどんエスカレートしてゆく。その対象が決して金銭では入手出来ない馬鹿げた架空のものになっても、男の懇願は止まなかった。


 じっと立ち尽くしていた女の背には、声もドアの向こうに塗りたくられている血しぶきも届かない。新聞受けの穴からわずかにかさりと漏れ落ちて、女の足元に無為に沈殿してゆく。


 突然、二人の頭上から大きな音声おんじょうが降り注いだ。


「残り三十分しかありません!」


 それを聞くなり、若い男が砕けたように両膝をついた。


「まだ……三十分もあるのか」


◇ ◇ ◇


 アナウンスのあと、舞台の上でがっくり項垂れてしまった男。それを見て、マイクを持っていた助手の安浦やすうらが、はらはらしながら助監督の志貴しきを見上げた。志貴はその視線を跳ね返すかのように両腕をがっちり組み、一枚のドアが隔てた舞台上の二つの空間をじっと見比べている。


「ねえ、志貴さん」

「ん?」

「これって、舞台稽古にしてはしんどくありませんか? あれって、作り物の血のりじゃなくて、本物でしょ?」


 なんだ、おまえは何も知らないのか? そんな風情で、志貴が舞台から視線を外さないまま無表情に答えた。


「君は、新任か?」

「あ、はい。昨日からバイトで……」

「ふうん。団員じゃなくてバイト、か。それじゃ分からないかもな」

「なにが、ですか?」

「稽古に一切手抜きは許されん。それがうちのやり方さ」

「でも、怪我しちゃったら、本番もへったくれもないような」

「大丈夫だよ。代役は山のようにいるから」

「は?」


 ぽかんと開いた安浦の口に、志貴が火が点いたままの吸い殻を放り込むような仕草。慌てて口を閉じた安浦に向かって、志貴が淡々と告げる。


「アマテラスは世界に唯一残されている希望だ。その女神を闇の奥から現世へと引き戻すために、どれほどの犠牲と奉仕が要るか考えてみろ」

「う……」

「男の甘言にほいほい乗って出てくるようなら、そいつはアマテラスじゃない。全能神の資格はないんだ。いかなる誘惑にも惑わされることのない絶望の果てにアマテラスがいるなら、君ならそれをどうやって引っ張り出す?」

「げー。そんなあ。無理ですよう」

「ちっとも使えんバイトだな」


 志貴が、短く切って捨てた。


「でもお」

「なんだ?」

「これは、あくまでも演劇ですよね?」

「そうだ」

「劇のテーマは理解できるんですけど、これじゃ観客には訴求しませんよ?」

「ほう? なぜだ?」

「だって、アマテラスを引っ張り出そうとしていろんな男が懇願を繰り返し、それらが全部失敗して、みんなアマテラス以上の絶望を抱えて去る……そういう話ですよね?」

「そうだ」

「変化もないし、見終わった後に残るものもないし。見ていて何もおもしろくないような」


 腕組みを解いた志貴は、台本を丸めて安浦の頭をぽこんと叩いた。


「てっ」

「バイトに応募してくる時には、そこがどういうところかをよく調べろ。うちをただの劇団だと思っていないか?」

「もちろん、ただの劇団だとは思ってませんよ。異色劇の雄、劇団女王蜂」

「なら、もう少し掘り下げるんだな。女王蜂は絶対。あとの蜂は奉仕のみの使い捨てだ」

「え?」

「それでも、巣が維持されるのはなぜだ?」

「それは……劇とは違う話かと」

「いや、演劇の話だよ。演劇は、演じるものとそれを観るものとが揃って成り立つもの。そして、観客は俳優の演技で満足すればカタルシスを得られる。そうだろ?」

「ええ」

「そいつと蜂の巣を重ねてみろ」


 必死に半腐れの脳細胞を動かした安浦だったが、何もビジョンが出てこない。


「わけわからないっす」

「簡単なことさ」


 志貴は舞台をすっと指差した。最後まで懇願が届かなかった男優が無言ですごすごと立ち去り、女優が一人ドアの向こうで立ち尽くしている。


「監督は真性のサディストだよ。そして、この劇を観に来るやつは一人残らずマゾ。被虐趣味を持っているやつだけさ。この劇を観に来るのは、監督に奉仕するためなんだよ」


 どすん。腰を抜かした安浦を見下ろした志貴は、にやっと笑って説明を続けた。


「ピンヒール、ボンデージ、鞭、蝋燭、罵詈雑言、強制命令と支配。そういうイメージばかりが加虐と被虐のイメージとして押し付けられている。そんなのはどれも皮相的なものだよ。ただのポーズに過ぎない。真の加虐は意思の徹底無視、真の被虐はあらゆる懇願の却下さ」

「じゃあ……」

「さっき舞台にいた男優はプロじゃない。観客だよ。だから、懇願がダイレクト過ぎて劇としては三の線になっちまう。監督があっさり無視出来てしまうから、無視する者としての演技の深みは出せない。まあ……銭を取ってるし、稽古だからな」

「だけどさっきの人、あと三十分しかないって俺のアナウンスのあとで、がっくり来てましたよ?」

「がっくりじゃないさ」

「え?」

「あと三十分も無視して虐めてくれるのかって、心底喜んでたはずだ」



【 了 】



+++++++++


 自主企画、第二回「1シーンから連想して物語を書く」コンテスト参加作品。


【お題】

・男が必死な様子で扉を力強く叩いている。

・扉には、男の腰あたりの高さにパカパカと開く(まるで郵便受けの差入口のような)箇所がある。それはおよそ、横ニ十五センチ、縦五センチ程の大きさをしている。

・男から見て扉の反対側には女がいて、男が扉を叩くのを止めるのを見計らい、穴から様子を伺おうとしている。

・どこからか大音量の声が二人の耳に届く。「残り三十分しかありません!」


【ルール】

1・この状況から連想される「その後の展開」を書く。お題の前に文章を足しても良いし、要素を守っていれば描写も自由に変更して構わない。

2・5000文字以内の物語、又は、プロット状態、アイデアのみでの参加OK(とはいえ要素をすべて盛り込んだ内容にする事)。

3・男、女の年齢は自由。ジャンルは自由だが暴力表現などはタグで明記。


 ……というレギュレーションでした。


見出し:どうしても届かない懇願を見てしまった、あなた。それをどう思いますか?

紹介文: ドアの向こうで、出て来てくれと必死に懇願する男。それを無視する女。その帰結は?

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