千字三千字コン

仮説の検証

◎千字版


 博物館の閉館時間が来て、館内の灯りが落とされた。学芸員のネームタグを外した私は、すぐに研究室に移動してもう一つの仕事を開始した。学会要旨申し込みの締め切りが近くなってきたからね。でも……。


「ふうっ」


 ノートパソコンの画面を埋め尽くしていたエクセルのシートを次々に畳む。解析の結果が期待していたほどクリアじゃない。立てていた仮説をこのデータから裏付けるのはしんどそうだ。


「うーん、どうしようかなあ」


 解析の精度が甘くてこの結果なら再チャレンジする気力が湧くんだけど、今回は根を詰めてきっちりやったつもりだ。それでこの結果って言うのは……正直めげる。


 画面には、数字を満載していた味気ない升目の代わりに、壁紙にしてあるアマゾンの密林画像が一面に広がってる。私はそれを見て、ふと思う。


 あれからもう二年以上経った。慶ちゃんならどうしただろうと。


◇ ◇ ◇


 大学の一年先輩で、恋人だった慶ちゃん。慶ちゃんは、どんなに緻密な仮説を立てていても、調査結果へのフィッティングが期待値以下なら即座に仮説を捨てた。研究以外のことにはすごく鷹揚だったけど、結局私は慶ちゃんが立てた人生っていう仮説のコアには入れてもらえなかったんだ。口癖のように研究と愛情とは違うよって言ってたのは、甘ったれの私に厳しい自己管理を侵食されないようにするための、慶ちゃんなりのバリアだったのかもしれない。


 私を置いて渡米した慶ちゃんが飛行機ごと密林の中に消えて、私の心に残されたのは空白のセルだけ。それは本当は空白なんかじゃなく、慶ちゃんの意味を示す数字か文字列が入るはずなんだ。でも慶ちゃんはもういない。そこに入るのは、全て私の仮説から来るものだけ。そして、それは……検証しようがない。


「ふうっ」


 傷だらけになった薬指の結婚指輪を外す。それは、慶ちゃんの死後に私が買ったもの。私にとっての慶ちゃんの意味を代弁してきた。でも……きつい。だんだん合わなくなってきた。


 もう潮時なのかもしれない。データが仮説に合わなければ、捨てるのは仮説の方。だって、事実は嘘をつかないから。それは、仮説を作るのにどんなに手間暇かかっていようが関係ない。


「捨てなきゃね」


 仕事で立ててる仮説は、いつでも作り直せて、事実で裏付けることが出来る。でも……慶ちゃんのことでいくら仮説を立てても、検証するための事実を得ることは二度と出来ない。


 もうそろそろ仮説を捨てないと……だめだよね。



【 了 】





◎三千字版


 博物館の閉館時間が来て、館内の灯りが落とされた。学芸員のネームタグを外した私は、すぐに研究室に移動してもう一つの仕事を開始した。学会要旨申し込みの締め切りが近くなってきたからね。でも……。


「ふうっ」


 ノートパソコンの画面を埋め尽くしていたエクセルのシートを次々に畳む。解析の結果が期待していたほどクリアじゃない。立てていた仮説をこのデータから裏付けるのはしんどそうだ。


「うーん、どうしようかなあ」


 解析の精度が甘くてこの結果なら再チャレンジする気力が湧くんだけど、今回は根を詰めてきっちりやったつもりだ。それでこの結果って言うのは……正直めげる。


 立てた仮説に明らかに無理があるなら破棄して作り直せば済む。だけど、そんな風にあっさり見切ってしまうわけには行かないんだ。単なる思いつきや他説の流用じゃなくて、これまでのデータを順々に積み上げてかなり緻密な仮説を立てたから、これでだめなら最初から全部やり直しってことになってしまう。それは……とってもきつい。

 あてがいぶちのテーマなら、そんなこともあるよねって割り切れる。でも、これは私がずっと拘ってきたテーマだ。それを中途半端に放り出すわけにはいかないんだ。


 エクセルの白いシートが全部消えて、代わりに壁紙にしてあるアマゾンの密林が一面に広がった。私はそれを見て、ふと思う。


「慶ちゃんなら、どうしたかなあ」


 飛行機と一緒にアマゾンの密林の中に落ちて、突然消えてしまった慶ちゃん。もう、あれから二年以上経ってしまったんだね。自分の中では、まだ昨日の出来事のようなのに。私は、左手の薬指にはめた銀色の結婚指輪をそっと撫でる。すっかり傷だらけになって、くすんでしまった指輪を。


◇ ◇ ◇


 私の一年先輩で、恋人だった慶ちゃん。ほんとに大きな人だったなあと思う。


 私や慶ちゃんがいた大学は、そんなに一流校っていうわけじゃない。卒業が近くなったら、ほとんどの学生は食べていくためにどうするかを考える。職を探すのは、一にも二にも生活のためだ。自分の好きなことを仕事に合致させようとするガッツは、世の中の荒波を被る度に擦り減って失われて行く。波に洗われて角が取れて行く小石のように、私たちはいつの間にか丸められ、ころころと転がって、どこかの会社にぽつんぽつんと嵌っていく。つまらないって小さな声でぶつぶつ文句を言っても、それは社会どころか自分を変えるエネルギーにすらならない。そうやって、自分が小さく丸くなって行く。


 慶ちゃんは、そういう考え方に全力で抵抗した。自分を小さくしてどこかに押し込もうとするアクションを全て拒否した。自分の時間を自分が納得出来るように無駄なくかつ惜しみなく使い、そこから得られたものについても厳しく自己査定した。どんんなに自分が注力した成果であっても、それが自己基準を満たさなければ容赦なく捨てた。そのバイタリティは、先生以外は誰も理解出来なかった。うちの大学は、慶ちゃんを入れておくには小さ過ぎたんだろう。そしてもしかしたら、私も慶ちゃんにはうんと小さかったのかもしれないなと。最近、そう思うようになった。


 慶ちゃんは、私が大学にいた時も就職してからもいろんなアドバイスをくれたけど、ああしろこうしろって指図をしたことがなかった。あの当時は、それが慶ちゃんのおおらかさから来てるんだろうと思ってた。でも今は、それは違うように感じる。慶ちゃんが厳しく査定していたのは自分自身だけだ。それ以外のものは全部自分の外に置いてたんだ。もちろん、私も含めて。

 慶ちゃんがもし生きていたら。私の疑問と非難に、研究と愛情とは違うよって答えるだろう。確かにそうかもしれない。研究ってことにどこまでも拘っていた慶ちゃんは、そこから一歩離れたらすごく鷹揚だったから。私のわがままや甘えを苦もなく飲み込み、慶ちゃんのエゴを私に押し付けることはなかったんだ。


「りえのプランでいいよ」


 慶ちゃんの口癖。でもそれは、慶ちゃんが投げやりで何も考えてないってことじゃなかった。私に妙案がない時には、じゃあこんなのはどうって慶ちゃんがプランを出してくれたんだもの。


 慶ちゃんの包容力はものすごく大きい。でも、それは私が中途半端だったからそう感じたんだろう。自分のテーマに向き合う時のとてつもない厳しさを私に向けなかったのは、私がその厳しさの枠の中に入れてもらえなかったってこと。もちろん慶ちゃんが言ったみたいに、白黒をはっきりさせないとならない研究と、形や決まりのない愛情とは違う。もちろん違う。それでも、私が慶ちゃんのコアに入り込めなかったことは厳然とした事実なんだ。

 慶ちゃんが研究環境のステップアップを求めて渡米する時、なぜ私が全てを捨てて付いていけなかったのか。それは……私には慶ちゃんの愛情がよく見えなかったから、よく分からなかったからだ。


 優しい、穏やかな慶ちゃんの中の鋭いやいば。慶ちゃん自身にしか向けられることがなかった刃。それを私に向けなかったのは、私を傷つけないためではなくて、慶ちゃん自身を守るためだったんじゃないだろうか。中に入り込んで自分を浸食しようとする甘ったれな私を押しとどめる、柔らかいけれどどこまでも強固な防護壁が、慶ちゃんの鷹揚さだったんじゃないかなと。


 ああ、でも。いくら思い返したところで、それは何もかもただの仮説に過ぎない。


 エクセルのシート中の一マス。そこに数字が入っていなければ、どんなにご立派な計算式があっても全く意味がない。何も解が出てこない。そして私のシートの中で、慶ちゃんの項目は全部空白になっている。それは未入力ブランク。ゼロじゃない。ゼロなんかじゃない。そこにはちゃんと慶ちゃんの意味を示す数字か文字列が入るはずなんだ。分からないから空きになっているだけ。


 でも、慶ちゃんはいない。もういない。ブランクセルに入るのは全て私の仮説から来るものばかりで……検証しようがない。


◇ ◇ ◇


 冷めてしまったコーヒーをちびちびなめながら、結婚指輪をゆっくり回す。愛情という形のないもの。慶ちゃんはそれに形を与えること、型にはめることをすごく嫌がった。だから、物も約束も何一つ残してくれなかった。慶ちゃんの死後にあつらえた結婚指輪は、突然拠り所を失った私の自衛措置に過ぎない。それにはなんの意味もない。単なるごまかしだ。


 前に、見学に来た高校生のカップルに私が言い放ったこと。


『生きるってことに正面から向き合わないで、愛だの恋だの結婚だのって言うのは論外』


 ははっ。偉そうによく言うわ。

 見ていていらいらした、自己保身と愛情との間で揺れる不器用な関係。でも、彼らはそこで互いの刃をじかにぶつけ合ってる。理解者同士を装っていた私と慶ちゃんよりも、ずっとライブな生き方をしてる。そこにあるのは仮説じゃない。全て事実なんだ。


「ふうっ」


 傷だらけになった薬指の結婚指輪を外す。きつい。だんだん合わなくなってきた。


 もう潮時なのかもしれない。データが仮説に合わなければ、捨てるのは仮説の方。だって、事実は嘘をつかないから。それは、仮説を作るのにどんなに手間暇かかっていようが関係ない。


「捨てなきゃね」


 仕事で立ててる仮説は、いつでも作り直せて、事実で裏付けることが出来る。でも……慶ちゃんのことでいくら仮説を立てても、検証するための事実を得ることは二度と出来ない。


 もうそろそろ仮説を捨てないと……だめだよね。



【 了 】



+++++++++


 自主企画『高難度、挑戦者求む! 千字と三千字で同じ物語』参加作品。


見出し:仮説とデータ、どっちを捨てる? そりゃあ……

紹介文:博物館で学芸員として働いている神村りえ。恋人だった沢井慶を飛行機事故で亡くした後も、生前の彼の生き方に強く影響されていましたが……。


 三千字の方がオリジナルで、千字の方はそのサマリー(要約)の位置付けになります。


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