第13話 るっく アイ しー

 12月24日はクリスマス・イヴだ。

 そんなことは小学生でも知っている。サンタクロースという白鬚のじいさんが、全国各地の子供達に不用品をプレゼントだと押し付けて回る一日である。新しいゲーム機をねだった子供にはとかとかのよー分からんものを押し付けて、読んだことのない小説を欲しがる子供には読む気も失せるほど分厚い図鑑を手渡してみる。そういった、自分が一番気持ちよくなれる善行を大人から子供に向かって押し付ける日がクリスマスというイベントの正体だった。

 とまぁ、個人的にクリスマスへの印象が悪いものである理由は、俺の誕生日が12月24日だからに他ならないのだが。誕生日の話題になると級友にからかわれるばかりだし、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントを一緒に渡されるし、その上両親から送られるプレゼントは前述したとおりのクッソ微妙なものだったりで、まったくいい思い出がないのだった。

「なんてこったい」

 そして今日も、嫌な思い出が増えてしまった。理由や過程など他人にはどうでもいいことを省略して結果だけを説明すると、失業した。このご時世に給料未払いの会社があることとか、上司にその旨に関する説明を求めたら倉庫裏に呼び出されてされたりとか、まぁよくあることだよネ。

 退職願を書く必要がなかったのは不幸中の幸いということで。

 普段より数時間はやく会社を抜け出した俺は、その足で映画館に行って楽しみにしていた映画を見た。タイトルは伏せるのだが、これがまぁ滅茶苦茶つまらなかった。個人的に格好いいと思っていた俳優や、原作小説を書いていた作家はデビュー作から追い続けている人だったりとすごく待ち望んでいた映画だったのだけど、見ている途中で眠ってしまうほどの駄作だった。

 俺は一体、なんのために金を払ったんだ……リラクゼーションルームかよ……などと映画館を出た後もしきりに首を傾げていた。そういうものだと、割り切るよりほかにないのだけど。

 終電ギリギリまで粘って充実感を得ようとしたけど、徒労にしかならない。

 割と最悪な一日だった。

 財布の中を覗くと、もう二千円しか入っていなかった。まだ、大学生とかの方がまとまった額を持っていることだろう。ひょっとすると、高校生とか中学生にも負けているかもしれないな。

 なんだか惨めな気分になって電車の窓から外の景色を眺める。特に見所のない、つまらない夜だった。季節がら寒く、透き通るような闇に沈んでいる。都会の方はイルミネーションで輝いているけれど、俺の地元は田舎だからな。帰り道で、徐々にショボくなっていく電飾を眺めているとなんだか物悲しくなってくる。

 終点が目的地だから、何度も開いては閉じる扉を眺めていた。扉が開くたびに寒さで身を震わせ、閉じた後もすぐには温まらない車内に不平を漏らす。あぁ、なんて矮小な人間になってしまったのだろう。小学生の頃の自分が見たら、きっと――。

 そういう、益体もないことを考えてばかりだ。

 ようやく目的の駅に着いた後は、我先にと社会人ばかりが乗り込んでいた電車を降りて深く息を吸いこむ。冷たい空気は消毒を終えた直後のような清潔感があり、嫌いじゃなかった。ただ、寒いのだけが苦手なんだ。

 改札を出た後は駅の中を探しまわって、ようやく見つけた自販機横のゴミ箱へと定期券を押し込んだ。もう使うことがないから持っていても仕方ないし。更新まで数日に迫った定期券では換金も出来ないだろうし、これを見る度に今日のことを思い出してしまいそうで憂鬱なんだ。

「まったく、これだから……」

 再び溜息を吐きそうになって、自分の頬を叩いた。

 最悪な一日だった。今日の感想は、それに尽きる。

 駅の二階から降りて、コンビニへと向かう。昔ながらの筒形吸い殻入れの設置されたそこには、いつでも人が集まってくる。娯楽施設の少ない田舎町では酒と煙草、そして他人の噂話が最高の嗜好品になるのだ。

 そんな大人には、なりたくなかったんだけどなぁ。

「ダメな奴だ」

 煙草を内ポケットから取り出して、いつもの場所へと向かった。

 昨日まで暖かかったのに、急に寒くなったからだろう。喫煙所には、珍しく誰もいなかった。残り少ない一本に火を点けて深く吸い込むと、体の隅々まで煙が行き渡るようだった。見上げた鈍色の空に紫煙を吹きかけると、久しく忘れていたような肌寒さに身震いをした。

 灰を落とそうと視線を下げる、すると見知らぬ少女が横に立っていた。近隣高校の生徒だろうか、見慣れた制服を着ていた。比較的背が高く、細身だが可愛らしくて魅力的な少女だった。顎の高さに揃えられた短めの髪、整った容貌を持ち、成程、同級生からの人気が想像できる。

 そんな少女が服を掴んで来たのだ、驚かない方が不自然だろう。少女は俺の同様を無視してスーツの匂いを嗅いでいる。少女からうっすらとミントの香りがした。驚きが緊張に変わり始めた頃、少女がゆっくりと顔をあげる。キャラメルだ、と小さく呟いて俺から距離を取った。

 ……確かに、映画館ではキャラメルポップコーンを食べていた記憶がある。サイズの小さいものを買って、上映開始後十五分で食べ終わって、後はぐっすり眠っていたので味の記憶も薄れているけれど。

 少女の嗅覚が優れているというのは分かった。だから彼女には煙草の匂いが堪えるのかもしれない。ひょっとすると煙草を消せとでも言うつもりだろうか。喫煙所で聞く台詞じゃないなぁと、肩を竦めた。

 俺はそっぽを向いているのに、彼女の方から話しかけてきた。

 面倒ごとは、嫌いだなぁ。

「あの、ひとつ、お願いしたいことがあるのですが」

「……なんだ?」

 腕に嵌めた時計を確認すると二十三時を過ぎていた。無視しても良かったのだが、夜遅くに徘徊する未成年なんて「触らなくても祟る悪霊」みたいなものだからな。最悪の結果になるよりは、ある程度コントロールできた方がいいに決まっている。厄介なことになるよりは、と少女の言葉の続きを待った。

 少女は両手の指を絡め、視線をどこか遠くに合わせている。手を解くと、そのまま差し出してきた。何かを口の中で呟いて、決心したように俺を見上げる。

「タバコ、くれませんか」

「ダメにきまっているだろう? 君、高校生だよな」

「別にいいじゃないですか。減るもんじゃないし」

 お前の寿命と俺の楽しみが減るんだよ。

 困ったことになったと頬を掻く。法律では、と言いかけたところで少女の指が俺の口をふさいだ。細くて小さな指だ。力仕事などしたことがないように、その手には傷ひとつ、ついていなかった。

「本当に断るつもりですか」

「そりゃまぁ。良識ある大人だし」

「悪人面して、意外と真面目ですね……これなら、どうですか」

 少女は悪戯っ子の顔になって、自身の制服に手を掛けた。そして、一息に上着を捲ってしまう。観てはいけないような気がして、思わず目を逸らした。何か良からぬことを閑雅ているんじゃないかと――痴漢詐欺の話を思い出したのだ。組織だった行動を起こして、無辜の民を陥れようとする奴らがいたらしい――周囲を見渡したが誰もいない。

 単純に、からかわれているのだろうか? 服を捲ったままの彼女に手を降ろさせようと努力してみたが無駄だった。かえって左腕を捕まれて、少女の脇に手を挟まれてしまった。かじかむ指先が温かくなったのはいいけれど、これを傍から見れば完全に不審人物として目に映ってしまうことだろう。

 間違いなく、俺が。

「ね、どう?」

 意味の分からない行動をとりながら、彼女は不敵な笑みを浮かべている。

「タバコが欲しいだけなのよ。『脱がされた』なんてことになれば、貴方を変質者として通報しなくちゃいけないし」

 そういって、彼女は自分の脇腹へと、俺の手を持っていこうとした。

 回りくどい言い方をしているが、要は煙草をくれなきゃ通報するぞと、そう言っているのだろう。つまり脅しだ。やっていることは小学生染みた難癖つけだが、この年代の子が何をするかなんて、当時の俺にもわからなかった。今でも分からんけど。

 闇に浮かび上がるほど白い少女の肌と、朧な街灯に照らされた帰り道を見比べる。逃げ出すのは簡単だが、住んでいるアパートはすぐ近所だ。後を追われて住所まで知られると面倒臭いことになるし。

 コンビニ前の喫煙所だから、どこかに監視カメラくらいはあるはずだった。だけど、この状況の詳細を説明したうえで身の潔白が証明できるかどうか、自信を持つことは出来なかった。観念した俺は悲鳴にも似た声を出して、彼女に箱を差し出すことに決めた。

「お前、狡い奴だな」

「あなたが弱気なんじゃない? そんなこと、本当にするわけないのに」

「あいにく、万難を排して物事にあたる質でね」

 俺が手をひっこめるより早く、彼女は箱から一本の煙草を抜き出した。それを二本の指で自慢げに挟みながら、もう一方の腕を突き出してくる。ライターの類も持っていないようだ。呆れつつも手渡すと、彼女は満足そうに頷いた。そこで初めて服がまだ捲れていたことに気付いたように、あっちを向いてよ、と頬を赤らめた。

 何を今更、恥ずかしがるようなことがあるんだろう。

 呆れて、溜め息の一つも出なかった。

 彼女が煙草を咥えるのを眺めながら、ふと考える。ここで彼女が補導された場合、俺はどう扱われるのか。……脅された、とでも言っておこう。事実、その通りだしなぁ。

 子供に脅される大人って、どうなんだろう。

 そんな、益体もないことばかりを考えた。

 肌寒い夜風に身震いして、ライターが返ってくるのを待つ。待てど暮らせど、少女の煙草には火が点かなかった。相変わらず雨は降り続いているけれど、多少濡らしたところで煙草が吸えなくなるわけじゃないし。

 不味くはなるけどな。

「……大丈夫か?」

「へーきよ」

「火、付けられないんじゃないか」

「別に大丈夫だってば」

 このまま放置して、吸わせないのもひとつの策だろう。燃やしてないんだから、煙草を吸っていることにはならないはずだ。つまり、俺も補導される心配はない。

 へへ、いい気味だぜ。

 先端ばかりを炙る少女を見て、幼気な子供にイタズラする大人の気分を味わっていたら睨まれた。親の仇を睨むようなきつい視線が飛んでくる。どうやら吸い方を教えて欲しいらしい。念のため確認してみたが、オイルはほぼ満タンだ。本当に、煙草の点け方を知らないようだな。

 息を吸い込め、と教えたらすぐに火が点いた。そして、少女が盛大に噎せた。

 ……初めての喫煙か、おめでとう。

 これで君も不良少女の仲間入りだ。

 見ていると、耳まで赤くした彼女に睨まれた。恥ずかしかったのだろうか。俺も自分の世界に戻ることにした。と言っても、既に短くなった煙草では長々と楽しむことも出来ないが。小指の先ほどの長さになった煙草を吸い殻入れへ投げ捨てて、財布の中身を確認した。もう働き口はない。二度目の就職活動が控えている。だが、今日くらいは大丈夫だろう。

 誘蛾灯に誘われるように店内へと踏み入り、酒の小瓶を購入した。店員に店先の少女について告げ口することも考えたが、止めた。不良少女も、補導されるまでは本当に悪い奴が分からない。シュレティンガーの不良少女ってわけだ。何か、事情があるのかもしれないし。

 初対面の男に阿呆みたいな方法で脅しをかけてくるところは気に入った。見ている限りは、面白いやつだ。……まぁ、関わってもロクなことがないのは、重々承知の上だけど。

 袋を提げて店を出ると、少女が短くなった煙草の火を消そうと奮闘していた。どうにも、揉み消しが出来ないらしい。彼女が火傷をすれば責任を押し付けられ、目覚めが悪くなりそうだった。そっと手を貸すと、彼女が飛び退いた。肌が触れ合った部分を、じっと見つめている。割と年頃の女の子っぽいな、しかも純情乙女とみた。だったらこんな時間に出歩かないで欲しいのだが。

 内心で抱く偏見を覆されると、矮小な自分を見つめ直す破目になるじゃないか。

 それはとても嫌なことで、俺はしかめ面になった。



***



 雨脚が強くなっている。月明かりも届かない地表は薄暗く、心の奥底に仕舞いこんだ不安を暗闇が呼び起こそうとする。呼びかけられ、次いで袖を引かれてから、俺は少女へと向き直った。

「お酒、買ったの?」

「いいや」

「嘘はダメだよ。それで、お酒をくれないなら、どうなるか分かってるんでしょ」

「……分からん」

「私が被害者になって、貴方を犯罪者にしてあげる」

 つい数分前と同じ要領で、彼女は服を捲り上げた。今度は調子に乗り過ぎたのか、水色の下着が微かに顔を覗かせるようになった。自身の破廉恥な姿に少女が気付く様子はなく、俺も知らない振りをしておいた。

 まぁ、その方がみんな幸せって奴だ。

 ちっちゃい胸には、それほど興味ないですし。

「はやくしてよ。それとも、もっと見たいの?」

 彼女は狼狽する俺を見て愉しんでいるようだ。他の男にも、この綺麗な少女は同じことをしているのだろうか。不埒な妄想が膨らみそうになって思わず首を振った。そこまでするバカじゃないだろう。そんな、根拠のない憶測を頼りにして。

 結局、俺は少女に小瓶を手渡した。

 年上の男が思い通りになるのが余程嬉しいのか、彼女は満面の笑みを浮かべている。法治国家だからこそ生まれた怪物だな、こいつ。両親は彼女を教育するとき、どんな教材を使ったのだろう。是非ともご教授頂きたいね。

 瓶を空けても彼女はすぐに口を付けようとはしなかった。匂いを嗅ぐことが好きみたいだ。ポップコーンの匂いなんてもう抜けていそうなものを嗅ぎ分けたのも、彼女の趣味が高じた結果かもしれないな。

 あまりにも口を付けようとしないので瓶を取り上げようと手を伸ばすと、彼女は瓶口を咥えて、瓶そのものを傾ける。そして、苦い顔をした。ウォッカベースで癖も弱く、オレンジ風味の飲みやすい酒を買ったはずなんだけど、子供には早かったのかもしれないなぁ。

「なによ」

「いいや、別に」

「……ッ」

 にやついていると、少女が恨みがましい目で俺を睨みつけてきた。どうやら、不味い酒を故意に手渡されたと邪推しているらしい。飲む、なんて選択をしたのはお前だろ、とは言わない。どうせ無駄だ。

 少女の手の内から取り戻した酒を飲んでいると、袖を引かれた。徐々に彼女の反応を見ることが楽しくなってきている自分に驚いて、ふと真顔になる。

 雨音がはっきりと聞こえる静寂の中で、少女は呟いた。

「まだ、帰らないよね?」

「……まぁ、雨も酷いからな」

「だったら、おしゃべりしない? 私と、あなたで」

 この年頃の少女が、俺に?

 なにか、聞いて貰いたい愚痴でもあるのだろうか。腕時計を見ると、既に遅い時間だ。もう少しでクリスマス本番、25日になってしまうところだった。明日からは仕事もなく、しばらくは心を休めることに専念しよう。厄介ごとなんて真っ平ごめんだし、誰かの悩みを一緒に背負うなんて苦行以外の何物でもないじゃないか。

 そう思っているのに、気付けば自分から話を促していた。

「話したいことでもあるのか」

「……ちょっとだけね。愚痴なんだけど」

「そうか」

「誰も、私の話を聞いてくれないの。あなたは、聞いてくれる?」

「構わないよ。今の俺は暇人だからな」

 頷くと、彼女は安堵したような溜息を吐いた。

 ぽつぽつと、雨の音よりも随分と弱い口調で語り出した。

 彼女の両親は内装工事を請け負う自営業者らしい。裕福と平凡の中間に生まれた、言ってしまえばごく普通の、恵まれた家庭だ。懸命に働く両親の背中を眺め、幼い頃から愛情を一身に受けて育った彼女は、それが期待に変わりつつあることを知った。

 よりよい高校へ、よりよい大学へ、よりよい会社へ。

 そして、よりよいへ。

 成長するに従って背負うべき期待は重くなり、いつしか、彼女が抱えきれないほどに大きくなった。遊ぶところもない田舎町で夜遅くに外を出歩いているのは、大学受験のために塾通いをしているからだそうだ。高校卒業と同時に就職した俺には、彼女の家庭環境が異世界で暮らす誰かのそれに思えて仕方がない。

 でも、そういう奴だっているのだろう。真面目に生きてきた大人は努力の重要性を知っていて、同時に努力は万能だと勘違いをしている。彼らの期待に応えようと奮闘しているうちに、子供はくたびれてしまうのだ。

 俺が相槌を打つたびに、彼女の口調が明るいものになっていく。雨空と比較するべくもない、穏やかな表情に変わっていく。我儘で自分勝手な奴だ。愛情に甘えて駄々をこねているだけの、イヤな奴だ。でも、彼女の気持ちは分からなくもない。頑張った過程を褒めてもらうこと、それが一番の喜びだった彼女が結果しか見て貰えなくなったなら、それはとても辛いことだった。

「そうか……実は、俺も面白い話があってな」

 気付けば俺も過去を話していた。高校時代の話、独り暮らしの話、仕事をクビになった話。手にした酒を言い訳に使い、両親にも言えなかった出来事を話す。気付けば肩の荷が下りて、気分が楽になっていた。

 陰鬱な雨降る夜も苦しくない。

 何も嫌なことなど思い出せないほど、安らかな心持ちになった。

 全てを話し終えてから、自分で吸うために一本の煙草を咥え、彼女にも箱を差し出してみた。やはり喫煙習慣はないのだろう、少女が首を横に振ると短い髪も柔らかく揺れる。その様子を目に焼き付けてから、煙草に火を点けた。

 徐々に雨脚は弱まり、帰宅すべき時間が近づいてくる。それは、彼女との会話が終わることを意味している。ふと、袖を握られた。少女は俯いたまま、行為の理由を説明しない。

 でも、不快じゃなかった。

 それで充分だった。

「ねぇ。名前は?」

「三田」

「下の名前は、なんていうの」

「…………」

 自分の口から漏らすのは悔しかったので、免許証を彼女に見せることにした。高校卒業後すぐに取得した免許証には、写真うつりもガラも悪い、最低な男が映っている。だけど彼女は、怖がる様子も萎えた素振りも見せず、小さく肩を揺すって笑っている。

三田みた来栖くるすっていうのね」

「……そうだけど」

「ふふっ、サンタクロースじゃん! 誕生日も、マジでクリスマスだし!」

「いいから返せ。……は、恥ずかしいんだよ」

「えへへ、サンタクロースかぁ……ヒゲも生えてるし」

 二日ほど、面倒だからと剃っていなかった無精ひげを少女に指摘されて恥じる。正直な話、職場で女性の同僚に着替えを見られたときよりもずっと恥ずかしくて死にたいと思った。

 ニヤニヤと、彼女が愉快そうに笑っている。服を捲り上げて、妙に間の抜けた脅しをかけてきたときの数千倍は楽しそうだ。その笑顔はどこか幼くて、同時に大人としての魅力を存分に含んでいて、心の底で何かが揺れる。

「私は、瀬谷せや新子にいこ。ニコって呼んでくれればいいから」

「瀬谷って呼ばせてもらうよ」

「じゃ、貴方はサンタのお兄さんね」

「あのなぁ」

「……ふふっ」

 彼女の微笑みに釣られて、俺も笑みを浮かべてしまう。

 初対面の相手に、ここまで心を許せるものだろうか。だとしたら心が疲れすぎているんじゃないのか。未来も能力もない男に縋って笑うだなんて、この子は人生の波風に弱いんじゃないか。彼女へ惹かれつつある俺も、似たようなものだけど。

 袖を掴む腕を振り払うと、彼女は少しだけ寂しそうな表情をみせた。そんな顔が見たくなかったから、代わりに手を握ることにした。振りほどかれるかと不安になったけれど、彼女は、そっと握り返してくる。

 こうして誰かと手を繋ぐのは、いつ以来だろう。もし本当に俺達が磁石の様に引かれ合っているのだとしたら、と神様なんてものを脳内に思い浮かべて唇の端を吊り上げて笑った。

 ダメになりつつある人間同士を、世界の意思が引き合わせるならば。

 それは、神様からの素敵なだ。

 濁流に押し流されようとする人間から、藁の一本も奪い去ろうとする気概すら感じられる。危害を与える気満々だな。互いに互いへ沈みあって、二度とは社会に適合でいなくなるだろう。それでも当人たちは幸せを感じるのだとしたら、それほど恐ろしいことはない。

 そして、それ以上に、魂を癒してくれるものなどないのだった。

 吸い殻を捨てて、空を眺める。月は見えない。

 瀬谷が、問いかけてきた。

「あなたは、一目惚れを信じる?」

「どうした、藪から棒に」

「いいから答えてよ。大事なことなの」

「……信じたくないな。嘘っぽく聞こえる」

 手を伸ばせば届く距離に少女がいる。女性から真っ直ぐな視線を向けられるのは何年ぶりのことだろう。それは高校時代の苦くて甘い記憶を思い起こさせる。当時の俺は恋や愛を気の迷いだと信じ切っていて、結果として大事にしていた友人を傷つけてしまった。妙なところで疑り深い性格が災いしたのだ。それは今も、変わっていないと思っていたのだが。

 瀬谷は意を決したように、俺の目を見て言い放った。

「月が綺麗ですね」

「……雲で、見えないな」

「サンタさん、バカだったんですか? 今のは――」

「知ってるよ。でも、気付かない振りをする方が得意なんだ」

 手を握る少女の力が、少し強くなった。そして雨は弱くなっていた。

 徐々に明るくなる世界に急かされるように、彼女の手を握り返す。

 遠くから自動車のヘッドライトが近づいてくる。瀬谷が手を挙げて知らせようとしたところを見るに、彼女の親が迎えに来たのだろう。こんな時間まで起きていてくれて、その上迎えに来るほど彼女のことを心配してくれているなんて。

 幸せな奴だ、と微かな嫉妬が胸を疼かせる。迫るタイムリミットを前に、俺は彼女と向かい合った。コンビニから漏れる光に照らされた瀬谷は、暗闇の中で穏やかに白を反射していた。

「サンタさん。キスしたい、って言ったら怒る?」

「……どうだろうな。瀬谷が俺の好みじゃないことは確かだが」

「む。じゃ、どういう人がタイプなんですか」

「そうだなぁ。ポニーテールが似合う、大人の女性かな」

 そう言うと、瀬谷は拗ねたように頬を膨らませてしまった。

 気に障ることを言ってしまっただろうか、と思っているうちに彼女の方から抱き付いてきた。小柄な彼女は身体も軽く、抱き付かれても重さというものを感じない。瑞々しく若い命でありながら、なんということだろう。食が細いのかもしれないけれど、絶対にもう少し食べた方がいいだろう。

 その方がきっと、女性的な膨らみで身体にも魅力が出るだろうし。

 などと、色々文句を言いながらも。

「それでも、君には惹かれてしまうみたいだ」

 胸を突いて出た言葉に対する返答は、背中をビシバシを叩いてくることだった。

 抱き締めていた腕をほどくと、彼女は顔を朱に染めながらよろよろと後退あとずさった。

「……大人って、卑怯ですね」

「子供と違って、人生にゆとりがあるからな」

「普通、逆じゃないですか?」

 二人で静かに笑った。そうしている内に俺は悟る。僅かな時間を過ごしただけで、俺は彼女に惹かれ始めているらしい。敵わない、こいつに負けたんだ、と思った。

 腕時計が微かな電子音を立てた。一定時間毎に鳴る味気ない電子音だ。それが、一つの事実を教えてくれる。最悪な一日が終わって、新たな一日が始まろうとしているのだ。

 コンビニ前に停車したワゴンから、男が顔を覗かせた。彼女の父親とは思えないほど厳めしい顔をしている。腕を引っ張られて、俺は我に返った。

 彼女は、小悪魔めいた笑みを浮かべている。

「サンタさん、どうしますか?」

「どうするって、何だよ」

「お父さんに頼んで、あなたの家まで送ってあげてもいいですよ。話を聞いてくれたお礼です。出来ればその……もう少しだけ」

 お喋りがしたい、ということだろうか。望むところである。この機を逃せば二度と会えなくなってしまいそうな、そんな不安もあって彼女の手に自分の手を重ねた。柔らかくて、温かな手のひらだった。

「頼むよ。一人は、とても寂しいんだ」

「そんなの、誰でも一緒じゃないですか」

 顔を見合わせて微笑むと、雨の降り止んだ世界へ、彼女と共に踏み出していく。

 繋いだ掌から伝わる温かさが十二月の寒気を忘れさせてくれる。月の見えない夜を、出会ったばかりの少女と歩いていく。怖いものも、嫌なものも、今だけは何もかも忘れてしまえるような気になって、意気揚々と乗り込んだ社内で彼女の父親に睨まれてしまった。

 あぁ、いいことを思いついたぞ。瀬田に散々からかわれたんだ、だから、俺にも誰かにジョークを言う権利くらいはあるはずなんだ。瀬田の父親がマシンガンのように文句を言い始めたのを手で制して、晴れやかな笑みを浮かべる。

 俺は飛び切りの嘘を吐いた。


「どうも、娘さんの彼氏です」


 昨日は、最悪な一日だった。

 今日は、どんな日になるだろう。

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