第12話 ニャンと素敵ニャ

 刷り込みっていうのは、案外大切だって思うんだよな。

 偏った情報ばかりを流されていると、審美眼というものは濁ってしまう。本人の意図とは関係なく、世界からは色眼鏡で見られることになる。例えば、学校や職場という媒体で見るのが手っ取り早いだろうか。ずっと教室の隅で本を読んでいると、実は明るくて気さくな女性だったとしても、その女性のことを根暗な奴に見えてしまうものだ。だから、あまり関わってみないうちから、本当の姿を見極めるのは難しい。相手との関係を計算で決めるのは反吐が出るほどに嫌いだけど、時としてそのくらい、相手と関わるときは注意深くなる必要があるのだと思う。

 まぁ、俺が言いたいのは、それとは少し違うことなのだけど。

 俺は、猫だ。

 名前はあるが、種類は分からない。雑種という奴になるのかな。詳しいことは本人である俺にも分からないが、とにかく、俺を庇護してくれた人間とは別種の生き物である、ということくらいは分かっている。

 元は捨て猫だった。段ボールという名の四角い箱の中で、毛布に包みこまれていたからよく分かる。人間は薄情だ。そして、雨はとても冷たい。

 灰色の雲の下でずっと震えていた。幼いながらに自分のことはよく分かっているつもりだった。捨てられたんだ、誰かに拾ってもらえなければ、このまま――。

 兄弟の姿はどこにもなく、ただ、腕についた血の味が不味かったことは覚えている。俺は母の愛よりも先に、誰かの血を舐めた。恐らくは、産後すぐに捨てられたのだろう。酷いことをする人間もいたものだ。仔猫を、母猫から情け容赦なく引き離したわけだから。

 このままだと死ぬ、ということくらいは理解していたんだろうな。捨てられてすぐ必死になって鳴き声を上げた。自分ではない誰かに助けを求めていた。産声がそのまま怨嗟の声に変わるなんて、なかなか出来る体験じゃないぜ。声が枯れるまで、なんて表現がある。喉がつぶれるまで、なんて言葉もある。でも、それを実践した奴は、あんまりいないんじゃないかな。本当に死ぬかもしれない状況で、自分に出来る限界を越えようとした奴が、必ずしもいい結果と巡り合えるわけじゃないのだから。

 それでも、俺はやらざるを得なかった。食べ物はなかったし、雨は寒くて凍えてしまいそうだったし、ボロ雑巾という拘束具は重くて息が苦しかったし、見上げた段ボールの壁が高すぎたんだ。俺一人では生きていけなかったから、誰かに助けを求めるしかなかったんだ。今の俺なら出来ることも、その頃の俺には出来なかった。

 皮肉だね。必要とされているものが、必要なときにあるとは限らないんだ。

 人間の言葉で言うと、半日になるのかな。俺は、太陽が一番高いところに昇る前に捨てられて、橙色の夕陽を見るよりも早く、精根尽きた。誰も、俺を見ようとしない。そもそも、俺の前を通る人間なんていなかったんだ。

 平日の昼間。捨てられたのはゴミ捨て場。学生寮のすぐ側にあったけれど、肝心の人間がいなければどうしようもない。雨が降っているからと人々はみな早足で歩く。拍手にも似た雨音で俺の鳴き声はかき消されていく。ひょっとすると、俺の声を悪霊か何かだと勘違いした人もいるかもしれない。そのくらい捨てられた時の俺は不機嫌で、嘆き悲しんでいたのだろう。

 誰でもいいから助けてくれ。俺を、この箱の中から出してくれ。

 俺を、温かな腕で、抱きしめてくれ。

 声が出なくなってからは、死んだように空を見上げていた。身体はとうの昔に動かなくなっていたし、動けたとしても、段ボールの壁を越えることは出来なかった。生まれたばかりの俺はあまりにも非力で、世界と戦う術を、何一つ持っていなかったんだ。

 雨に体温を奪われて、遠ざかる足音に生きる気力を奪われて、視界がかすみ始めたときの恐怖は途方もないほど大きかった。まだ何もしていない。一度しか朝日を拝んでいないのに、俺はどうして死ぬのだろう。

 死ぬってなんだ。

 俺はそもそも、生きていたのか?

 怖気と寒気に震えて、吐きそうだった。迫りくる死の影に怯えながら、俺は天を仰いだ。切れかけていた電柱の明かりに、自分の命を重ね合わせていた。

 消える。ふっと明るくなってから、消える。ついたかどうかも分からない、ほんの一瞬の光。瞬く電気に誘われて、俺の瞼も重くなっていく。

 そして、終わるんだな、と思った。俺はここで、終わるんだなと思った。

 そのとき、柔らかな指が触れた。熱をもった何かが、俺の額に触れた。声は出なかったし、体は動かなかった。それでも俺は、口を動かした。

 助けてくれ。

 ここから、出してくれ。

 殺さないでくれ。

 口を動かすだけの体力がなければ、いや、あのときの俺には体力なんてものはなかったのだけれど、それから先の未来を捨てる覚悟で口を動かすことが出来なければ、多分死んでいた。

 今の飼い主に拾われたのは、きっと偶然ではなかったのだろう。彼女がもしも臆病でなく、点滅する電燈に興味を払わなかったなら。俺がもしも生に執着せず、触れられたときに口を動かせなかったなら。もしも口を動かすときに、電燈がぶつりと切れてしまったなら。

 今、生きてはいないだろう。俺が生きていたのは運命だ。

 だから、なんて格好をつけてはみるけれど、結局、俺が言いたいのはこういうことだ。

 俺は、飼い主の女性を愛している。猫という生き物でありながら、人である彼女を愛してしまっている。幼かった頃の俺はもういない。日が経つにつれ、俺を形作る精神も成長し、世界の矛盾や齟齬や間違いを理解できるようになってしまっている。

 それでも俺は、好きなんだ。俺は、彼女が好きなんだ。

 どうしても伝えられない気持ちを、それでも彼女に伝えたくて、俺は布団にもぐる彼女の傍へと近づいた。どうしたの、と尋ねた彼女が、俺を枕元に招いてくれる。彼女に全身を撫でられると、心が満たされていくのが分かる。俺も彼女に、何かをしてあげたいと思う。

 猫ではなくて、人として。俺の愛を、彼女に伝えたいと思ってしまう。

 それが出来ないから、もどかしくて、身を切り裂かれるようで。

 渡せない花束を胸の中に抱えたまま、長い夜を過ごす。

 仲間の猫に伝えても理解をされることはない。

 独りぼっちで苦悩するのは、変わらない。

 捨てられていたころと違いはない。

 あぁ、こんなにも俺は彼女を。

 心から愛しているのに。

 言葉を伝えられないから、俺はどこまでも孤独だ。彼女に救われて、彼女に自分のすべてを捧げたくて、それでもどうしようもなく足りないものがあると思うから俺は不幸になっていく。猫のままでもいいじゃないか。彼女は俺を、可愛がってくれる。だけど、それじゃ嫌なんだ。俺は、彼女に愛される存在でありたい。けれど、それ以上に、彼女を愛する存在でありたい。その愛を、彼女に正面から受け止めてもらいたい。それが出来ないから苦労としているし、苦悩をしているのだけれど、誰も、俺の気持ちを分かってくれる奴なんていないのだろう。

 当然だ。俺は、猫なんだから。

「私、明日は暇なんだ。することなくなったら、カツも一緒にごろごろしようね?」

 当たり前じゃないか、と返事をする。といっても、彼女には猫としての鳴き声しか聞こえていないのだろうけれど。それが、俺には辛いんだ。彼女と言葉を共有できないというだけで、俺は。

 おやすみ、と呟いた彼女に、俺は控えめの返事をする。

 にゃぁ。

 それが、猫である俺の限界だった。



 俺の名前はカツという。ドイツ語で猫という意味らしい。俺を拾ってくれた当時、彼女は大学一年生でドイツ語の講義も受けていた。その加減もあるのかもしれない。あまり成績は芳しくなかったようで、テスト直前になると毎日のように副読本を音読していたのを思い出す。日本生まれ日本育ち、人間以外が大体の友達である俺にとってみれば、彼女が平生から日本語を使ってくれていることがありがたい。ある日突然ドイツ語を話し始められても、俺はまったく理解できないことだろう。

 俺は、自分の名前が大好きだ。それでも猫ではなくて、人間となったときの自分の名前を妄想したこともある。猫山克己というのはどうだろう? 苗字の方は適当だが、名前の方は、彼女がくれたカツからつけた。漢字は彼女が読んでいた漫画からとったもので、意味はよく分からない。だが、大丈夫だろう。彼女が読んでいた漫画なのだ。変な言葉は使われていないと思う。

 名前に関して一つだけ言いたいことがあるとすれば、それは彼女の発音だろうか。ドイツ語だろうが何だろうが、彼女の発音のせいで、どう頑張ってみてもカツにしか聞こえない。油でこんがりと揚げられた肉を想像するたび、俺は空腹を感じてしまう。セルフ飯テロなんて、あまり好ましいものじゃない。それに、俺の毛色は雨の日の雲のような灰色と、夜の闇にも負けない黒が混ざっているのだから、もっと別の名前にしても良かったんじゃないだろうか?

 例えば、胡麻プリンとか。

 名前と言えば、一番大切なことを忘れていた。俺にとっては彼女であってそれ以外の何ものでもないのだが、彼女は他の人間から、神崎由美子と呼ばれていた。俺を絶望と死の淵から救い上げてくれた天使は、その名前を神崎由美子と言う。俺は、神崎由美子を愛しているのだ。

 ……まぁ、ちょっとばかり照れくさいと言うか、名前を連呼するのは何か胸の奥がもやもやするので、これからも俺は、彼女のことは彼女と呼ぶことにしよう。人になれない俺は、そういうところでだけ、諦めがいいのだ。

 ぼんやりと考え事をしながら、彼女の膝の上で、尻尾を揺らす。大学の講義がない日はこうして二人、平和な時間を過ごしていることが多い。彼女は毎日のように本を読んでいた。本以外に友達がいないかのように、彼女は本に没頭する。恋愛小説を読んでいるのか、推理小説を読んでいるのか、はたまた陰鬱な自伝的散文を読んでいるのかは、彼女の表情を見ていれば大体分かる。今日は、穏やかな日常ものを読んでいるようだった。頬が、甘い南瓜を食べているときのように緩んでいる。やはり彼女は可愛い。人間のオス共が、この事実に気付かないことを祈るばかりだ。

 彼女が本を読み、俺は彼女と共にいる。どこまでも平和で、ともすれば退屈な時間。この時間を愛している。いや、愛していたのだが、いつまでも構ってもらえないというのは流石に悲しい。小説に向けている笑顔を俺にだって向けてほしい。少しでも構ってほしくて尻尾で軽くたたいたりもしているのだが、彼女は俺をマッサージ機か何かだと思っているらしく、あまり反応してくれない。悲しみの余り声をあげると、ようやく頭を撫でてくれる程度には、俺の存在は空気と同化している。

 それでも、頭を撫でられた程度のことで温かい気持ちになってしまうのだから、俺は骨抜きにされている。どうしようもなく、彼女のことが好きなのだ。だから、俺を撫でている手が離れるとき、胸にかすかな痛みが走るのだろう。

 俺の頭から手を離した彼女は、俺を抱え上げた。もしやこれは大勝利のフラグなのでは、という期待は一瞬で消え、彼女も一緒に立ちあがる。俺はすぐ、床に下ろされてしまった。

 どうやら、彼女はご飯を作るようだ。

 彼女と一緒に食べるご飯は、一日の楽しみでもある。彼女と一緒に過ごせるというだけで堪らないご褒美だし、ご飯を食べているときは彼女も笑顔を絶やさないから、それが一番素晴らしい。好きな人の笑顔を見ることほど、心躍ることはないのだ。

 ねこまんま以外のものが出てくれば嬉しいなー、と俺も彼女の後ろをついていく。手狭な学生寮だから、滅多なことでは彼女を見失わないのもありがたい。だが今この時だけは彼女その人よりも、彼女の手元に注目しなくてはならない。俺のご飯に、玉ねぎを入れさせるわけには行かないのだ。

 彼女がレトルトのカレーを取り出したのを見て、安心する。今日の俺のご飯は、普通の猫缶になるようだ。彼女がカレーを食べるときは、いつも手抜きをするときなのだから。そして、今彼女の部屋にある俺の餌と言えば、マグロ風味の猫缶だけだ。だから、俺のご飯に玉ねぎが混入するなどという事態は、絶対にありえないのである。

 欲を言えば彼女の手料理が食べたいのだが、彼女だって楽をしたい日があるのだろう。それに、ねこまんまが召喚されるくらいなら、俺は泥水をすすっていたほうが幸せなのだ。嘘だけど。

 ご飯に味噌汁をかけたものを、ねこまんまという。彼女も手間がかからないという理由で好んでいるらしいし、俺もとても美味しい料理だと思うのだが、問題は、ご飯にかけられる味噌汁のほうだ。いかんせん、玉ねぎがどうしようもない。初めて食べたときは全身が痺れ、俺は死ぬんじゃないかと焦った。しかも、傍から見れば食後にだらけているようにしか見えなかったらしく、彼女は普通に本を読んでいた。俺の苦しみが彼女に伝わらず、危うく彼女の部屋で死んでしまうところだった。静かに看取られるならともかく、もがく苦しんだ挙句にというのは、ねぇ?

 地域によっては味噌汁に玉ねぎを入れないところもあるらしいのだが、彼女の家では玉ねぎを入れることが絶対の基礎であるらしく、ジャガイモや油揚げなど、他の具材がきれているときであっても、玉ねぎだけは欠かしたことがない。だから俺は、ねこまんまが食べられないのだ。……味噌の風味は割合と好きなので、それが悲しくもあるのだけれど。

 考え事をしていると、背中を撫でられた。遂に構ってくれるのか? と顔をあげてみると、ただご飯の準備が出来たというだけの話だった。お腹は空いているが、彼女と一緒に食べるのが大切なのだ。ぐっとこらえて、彼女の準備が出来るまで、俺は皿の前で待つ。

「カツ、食べないの?」

 食べたいけど、待っているんだよ。と答える。しかし彼女にはにゃーとしか聞こえていないようで、もしかしてお腹すいてないのかなー、といらぬ心配をさせてしまった。言葉が通じないだけで、事態はここまで難しくなる。

 彼女がコップを用意して、若葉色のお茶を注ぎいれる。俺にも、水を飲むための皿を用意してくれた。コンロの火を止めて、鍋の中に入っていた銀色の袋を取り出す。流れるような動作でご飯をよそい、袋を破き、あっという間にカレーライスを完成させる。勿論レトルトなのだから、当然と言えば当然だが。

 銀のスプーンを手に取って、彼女が手を合わせた。

「いただきます。あっ、カツはもしかして、私を待っていてくれたのかな?」

 当然じゃないか、と俺は大きく頷いた。彼女には、にゃぁーぁ、と聞こえたはずだ。

 楽しそうに甘口のカレーを食べる彼女を横目に、俺もまぐろ風味の猫缶を食べる。そういえば、猫缶の中身はなんという名前なのだろう? 俺だってバカじゃない。缶というものがどういうものなのかは知っているし、猫が食べる餌の入った缶詰だから猫缶と呼ぶのだ、ということくらいは容易に推察できる。だったら、猫缶の中身は何という名前で呼ぶべきなのだろう? 餌と呼ぶのは直接的過ぎる気がするし、かといって他の言葉が次々と浮かぶわけでもない。エサをドイツ語で読んでみるのはどうだろう? などということを考えてもみたが、そもそもドイツ語が分からない。彼女に聞いてみたくても、俺の言葉を彼女が理解できるはずもないし。

 好奇心が先走って、頭が回らなくなっていく。どうしたらいいのかが分からなくなって、俺は彼女に尋ねてみることにした。

 にゃー。

「んー? そうか、おかわりが欲しいか? まだ残っているのに、いやしんぼめ」

 彼女が呟いて、立ち上がった。そして、いつもの固形餌を俺の餌皿に追加した。この固い奴はキャットフードという名前なのだが、猫缶の中身は、一体どんな名前なのだろう。彼女が何か言葉をこぼしてくれないかと、部屋着越しに彼女のお尻をつつく。頭を叩かれた。

 彼女はしばらく俺と皿の上の餌を見比べた後、ぽつりと呟いた。

「やっぱり、ウェットフードだけじゃ物足りないのかなぁ」

 ……なるほど。猫缶の中身はウェットフードというのか。

 知識欲が満たされ、心が幸せに満ちていくのを感じる。それが胃袋も満たしてしまう前に、皿の上のご飯を食べることにした。喉に詰まらない限界の速さで食べ進め、彼女に手間をかけさせないようにする。

 自分で皿を洗えたなら、こんな苦労はしなくてもいいのだろうけれど。

 結局、俺は猫なのだ。猫だから、どうしようもない壁がある。例えばそれは、言葉が通じないことであったり、腕を使って道具を意のままに操ることだったり、様々な形をとって俺の前に現れる。

 ご飯を食べた後、彼女は再び本を読み始めた。俺も彼女の膝上に戻って、お昼寝をすることにした。俺は、彼女といられるだけで幸せなのだ。猫として、彼女の庇護を受けられるだけでも幸せなのだ。

 それ以上を望むことなんて、俺には許されていないのだから。

 今日も静かに、彼女に寄り添っていることを決めた。

 彼女の身体は、お日様のように温かかった。

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