第10話 初めての彼女

 十八歳の夏、私にとって初めての彼女が出来た。

 中学時代から周囲の人間に大人しい男だと言われていたし、私自身その評価を甘んじて受け入れていたのだが、大学生になったのだからと心機一転することにした。というよりは、一目惚れを成就させるために、頑張らざるを得なかったのだ。

 大学生になった直後からバイトを開始して、実家と大学の距離が近いこともあって講義のない時間のほとんどを金を稼ぐために費やした。すると思いのほか早く資金が貯まり、目標を達成するためには行動あるのみだな、と思った。

 あとは運転免許証を手にすれば完璧と言う段階になって、緊張しながらも最終試験を受けた。初めての本試験だったが、ストレートで合格できるとは思っていなかったから酷く拍子抜けしたことも覚えている。免許がなければ彼女は口説けないよと、父親に笑って諭されたこともあって半信半疑に入手したものだったけれど、確かにその通りだった。

 彼女と一緒に過ごすためには、それなりの金と有り余る時間、そして資格が必要だったのだ。

 彼女が傍にいる間、私は世界と切り離されたと感じるほど時間の流れが早く感じたものだった。彼女が私の傍にいるようになって、初めのうちは大学からほど近い場所にある映画館や美術館、古書店へ行くことが多かった。それは私がインドア趣味だったというのが主たる理由で、他に遊ぶ場所を知らなかったのだ。私ばかりが楽しくても仕方がないだろうと思い、いつしか遠出をするようになった。サーキットへ遊びに行く回数も増えた。

 私は本当に、彼女に出会う前後で違う人間になっているのかもしれない。

 閑話休題。

 初めて彼女にまたがったときの興奮を、今でも私は覚えている。

 これはちょっと下世話な話になるかもしれないが、彼女の上に乗る時、私は必ず被り物をしていた。こんな言い方だと彼女が上ならとか、横だったらどうなるのかと変な話になってしまいそうだが、そんなことはあり得ない。学生の身分でありながら「もしも」の事態になってしまうと、両親に迷惑を掛けることも自分自身の将来が真っ黒に塗りつぶされることも分かっていた。だからこそ、私は必ず被り物をしていたわけである。無い方がより強い開放感を得られると分かっていたのだが、やはり怖いものは怖い。

 自らの快楽の為に彼女を傷付けたくないなどということは、当然すぎて考えるまでもなかっただけの話である。

 楽しかった大学生活は、流れるように過ぎていった。

 彼女と過ごす時間が幸せすぎて留年したときばかりは、流石に普段落ち着いている私でも焦った。彼女と一緒に過ごす時間を減らしたくないがためだけに、両親に土下座したことも覚えている。だが残念なことに、私は勤勉な学生ではなかったのだ。土下座前後で勉強態度が変わったかと言われれば、苦笑いをしながら首を横に振るしかないだろう。

 冬場になると私は、彼女と共に家に籠るようになっていて、勉強をしないなら大学を辞めて働きなさいと言われてしまったほどだ。勿論、そんなもの願い下げである。

 彼女と過ごす時間が、減ってしまうのだから。

 必死にバイトをして、適当に課題をこなして、週末は睡眠時間を削りつつも彼女との時間を確保して。そうこうしているうちに五年間の大学生活は終わりを迎えた。無事に卒業したはいいが、浪人していたことを理由にちょっとしたトラブルがあり、半年ほど就職浪人を経験してから会社勤めをすることになった。

 そして、私と彼女の関係性を大きく変える出来事があった。

 それは将来、妻になる女性との出会いだった。妻に初めて出会ったのは、不承不承に参加した会社の飲み会が初めてだったと記憶している。開始十五分で出来上がってしまった、今となっては親しい友である同僚を上司の元に放り込んで、比較的静かで落ち着いた雰囲気の卓へと足を運んだのである。

 一目見たとき、中学生が座っているのかと思った。しかしスーツを着ていたし、手にはビールの入ったジョッキを持っている。こんな中学生がいるはずもないだろうとは思ったものの、怖くて無視を決め込んでいた。だが、ちびちびと酎ハイを飲んでいた私に、彼女の方から話しかけてきたのだ。

 聞いていれば、彼女は私の同期なのだと言う。

 半年遅れの就職試験でも顔を合わせたと言っていたが、私の方はとんと覚えていなかった。非礼を詫びて彼女の話に付き合うことにしたが、私はそこで自身が口下手だと言うことを再認識させられた。彼女の方も、話すのが得意な方ではなかったらしい。盛り上がっているようで、互いが相手のペースに合わせようと四苦八苦する時間が続いた。その苦しさを紛らわせようとしているうちに、その日はお開きになってしまった。

 連絡先を交換したのも、それから半年後のことである。

 それから紆余曲折あって。

 人間との関わりが致命的にヘタクソだった私が、どうにかデートにこぎつけて。

 私は、その女性を妻にしたいと思うようになった。

 大学時代に一目惚れして長年連れ添った彼女は、しかし妻に成り得ないことを知っていたのだ。

 裏切ったわねと、私が学生だった頃の彼女ならそう思ったかもしれない。それでも私は妻を選んだのだ。これまでよりも、これからを手に入れたい。そう願ったからこその選択だった。

 彼女と出会ってから、十年以上が経過している。

 私は三十歳になった。

 だというのに、私は彼女を忘れられず、手放せず、捨てられなかったのだ。

 妻の目を逃れて彼女と過ごす時間も、月日を重ねる度に短くなっていく。若いころみたいに無茶を重ねれば身体が軋み、調子がいい日も、ともすれば息子達の顔が脳裏に浮かんでくる。

 自宅から離れた場所に借りたガレージで撫でた彼女の身体は、十年前よりもずっと熱かった。しかし、私の心は冷めてしまっている。もう、これが潮時かもしれない。服を着替え、皮手袋をはめた手で撫でた彼女の身体は震えていた。

 そして私は、彼女にまたがった。快感は、昔ほども湧き上がってこなかった。

 彼女と一緒にガレージを出て、街を離れて走り慣れた道を行く。若い頃みたいに、少しだけ我儘な走りをしてみたかった。それだけの理由で、私は腕に力を込めた。

 彼女から発せられるすべての音を、大自然の下で受け止める。薄まった快感に掠れていく記憶を重ね合わせて、ふと涙が零れそうになった。走行距離を示すメーターが振り切れたところで息を吐いた。それは長年積み重ねてきたものを吹き飛ばすには十分すぎるほど深い溜息で、そのまま私は帰路につくことになった。

 玄関をくぐると、急に肩が軽くなった。

 駆け寄ってきた息子はレザースーツ姿の珍しい私を見てギョッとしたようだったが、お土産のドーナツを渡すとにこやかな笑顔になった。彼が喜び勇んで台所へ駆けていくのを見送ってから、玄関に残ってくれた妻へとキスをした。彼女のことを話すと、妻は笑って私の肩を小突いた。妻にはバレないように備品を買い揃えたり服をコインランドリーで洗ったりと工夫していたつもりだったのだが、どうやら、すべてお見通しだったようだ。私が、毎週のように出張するほど仕事の出来る男ではないことを、妻はよく知っていたらしい。それでも、私の行いを見逃してくれていたのだ。自分が情けなくて、妻が優し過ぎて、私は涙を流しながら笑った。

 彼女に乗る時は必ずしていた被り物――ヘルメットを、下駄箱の上に置いた。そして妻に向き直って、話すべきことを口にした。

 初めての彼女と別れることにしたんだ。これからは自分の為じゃなく、家族の為に尽くすよ。短い言葉だったが、話し終えると妻は私の頬を撫でてくれた。すべてを赦した、聖女のように柔らかな手をしていた。

 それでも、と思う。

 私が彼女と過ごした時間を、これからも忘れることはないだろう。

 ポケットから取り出した鍵についていた、交通安全のお守りを外す。

 下駄箱へ置いた鍵が甲高い音を立てた。

 それは彼女から私への「さよなら」だった。


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