第9話 みんなやってる
夏休み前、最後の漢字テストだった。
狭い教室、いつものクラスメイト、変化のない毎日。これで成績が変わるという先生の言葉も聞き流して、一学期最後のテストを終えた。僕らよりも、先生のほうが清々しい顔をしていた。といっても、興味の薄い事柄には記憶力が働かなくて、下を向けば先生の顔なんて忘れてしまうのだけど。
六年二組で国語を担当する男の先生が、全五十問の答えを書いていく。それを見た僕らが採点する。効率よく漢字を勉強するための取り組み、その一環らしいけれど、クラスの誰かが漢字を得意になったという話を聞いたことがない。自己採点とは言うけれど、あとから先生も確認するから、間違っているところに丸をつけたって仕方がない、のだけれど。
僕の隣に座る原田さんは、間違った漢字に消しゴムをかけて、何食わぬ顔で答えを書き直している。
「なんで、そんなことしてるの?」
プリントを提出する直前になって、彼女に尋ねてみた。原田さんは「は?」とゴミ箱を覗き込んだら想像の十倍くらい汚い何かが入っていたときのような声を出してから、吐き捨てるように言った。
「みんなやってるよ。理由なんて知らないし」
そんなこと言われても、僕だって分からないんだけどなぁ。
その後は何事もなかったかのように授業が進んで、原田さんがテスト用紙に施した不正については、話をすることもなかった。終わりの挨拶をしてから、トイレへ行こうと席を立つ。教室から出ようとしたところで原田さんに腕を掴まれた。
何だろう、と少し胸がざわつく。僕の耳元に唇を寄せて、彼女は呪いを口ずさんだ。
「チクんなよ、バカ」
酷いことを言った彼女のお気に入りの鉛筆を、あとでこっそり捨てておこうと思った。
原田さんは、昨日まで悪口を言っていた女の子のもとへ駆け寄っていき、二人で楽しそうなお喋りに興じている。彼女の行動は意味不明で、なんだか別世界の人を眺めているようだった。
***
夏休みに入ってから、何日か友達の家に遊びに行った。夏祭りに行ったこともあるし、虫を取るために近所の公園を走り回ったりもした。でも、それよりも気になることがあった。夏休みの間に、母さんが知らない男の人を家に連れ込むようになっていたんだ。
父さんが仕事へ行っている間にしか、その男の人は家にやって来なかった。もしかして悪いことをしているのかもしれないと、母さんに彼の素性を尋ねてみた。僕は、知っているのだ。ただ、母さんが知っているかということが気になっただけで。父さんが彼のことを、少なくとも一度は会って話をしたことがあると言う事実を知っているのか興味があったからだった。
詳しいことは教えてくれなかったし、母さんは僕が冗談で尋ねていると思っていたらしい。その男の人のことを好きかどうかと聞かれたから、正直に「分からない」とだけ答えておいた。
でも、悪いことは起こるらしい。
父さんの持っていた小説の言葉を引用するなら、マーフィの法則って奴だ。
夏休みが終わるまで一週間を切った頃。家の中で、母さんに通じていた男と父さんが鉢合わせしてしまった。刹那の静寂、それから、火事が起きたみたいな大騒動になった。男の人は免許証も落としたまま逃げていって、僕は、両親と一緒に家に取り残された。
生まれて初めての、びっくりするような体験だ。
ふたりが喧嘩している間、僕はテレビを見ていた。普段、晩御飯のときに流れているニュース番組だ。今日も誰かが怪我をして、不幸な目に遭っている。ナイフで女性を刺した通り魔のこともニュースになっていた。なるほど、これは理解できるぞ。誰もが不幸の欠片を持っている、ということだろう。
頷きながらテレビを見ていると、誰かがテーブルを叩く音がした。そっと様子をうかがいに行くと、母さんが家を出ていこうとするところだった。父さんの姿は、そこにない。見送る必要がない、と思っているのかもしれなかった。
家を出ていこうとする母さんに、僕は尋ねた。
「どうして、浮気なんかしたの」
母さんは怒鳴るようにして、短く答えた。
「みんなやってるじゃない! 私だけ悪者にして!」
母さんの言うみんなが誰のことなのか、僕には全く思い浮かばなかった。
***
夏休みが明けて、初めてのテストだった。漢字の書き取りテストだ。これまでずっと満点を取ってきたから、今回も頑張って勉強をしてきた。国語担当の先生が黒板に答えを書いていき、僕はそれをみて丸をつける。
最後の一問だけが、間違っていた。
悔しかったけれど、そんなこともあるよね、としか思わなかった。でも、ふと、原田さんがやっていたことを思い出した。消しゴムを取り出して、間違えていた文字を消して……。出来上がった満点の解答用紙をぼんやりと眺めていたら、机を思い切り叩かれた。びっくりした僕の襟首を、国語の先生が掴み上げた。
その顔を見て、思い出す。この人、母さんの浮気相手だったなぁ。
今は、どうなっているんだろう。
「……お前、いつもズルしてたのか」
「違います」
「黙れ! 自分だけ褒めて貰おうと思ったら大間違いだ!」
先生が襟首を持ち上げる。僕の首がどんどん締まる。息が苦しくなって、手足をばたつかせる。隣に座る原田さん、前の席に座る山田くん、学級委員長の前川さん。誰も僕を助けてくれない。そうだ。みんな、「静かにする」を守っている。騒がしい僕と先生が、授業態度として間違っているんだ。
息ができなくなって、必死に伸ばした指先に触れたものがあった。丸つけに使っていた、赤いペンだ。酸素が薄くなって意識のぼんやりした僕は、そのときだけは正気に戻って、握りしめたペンを、先生の目に――。
***
救急車と、パトカーのサイレンが聞こえる。それが聞こえなくなる頃には、周囲の様子がはっきりと認識できるようになった。警察の人が、しきりに何かを尋ねてくる。よく分からないけれど、僕が悪いことをしたと思われているらしい。そんなことをしただろうか、と考えてみる。
何も、思い当たる節はない。
当の本人には事情も不明瞭なまま、警察の人たちに囲まれていた。素朴な雰囲気のお姉さんと、真面目そうな眼鏡をかけたお兄さんが僕の話し相手だった。学校の話、友人関係について尋ねられたあと、ようやく本題が巡ってきた。
「ね、片桐くん。君はどうして、先生を怪我させたの?」
この人達、変な質問をするなぁ? どうして、他人を傷つけたのかって?
「だって、みんなやってるじゃないか」
自信満々に答えた僕を見て、大人たちは顔を見合わせる。
僕にはそれが不思議で、一生、理解できないことのように思えた。
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