第3話 ひみつ

 僕には秘密がある。その秘密は世界中の誰かと共有したくなるようなたいそうなものではないけれど、僕にとっては大切なものだ。

 僕しか知らない不思議で奇妙な秘密が、ここにはあるのだ。

 僕と先輩は、名古屋にある大きな駅の一階、その隅にある小さなトイレの中にいる。僕ら以外には清掃員のおじさんくらいしか立ち寄っていないのではないかと思うくらいに、この前も、その前のときも、そして記憶にある限り一番古い日のことを思い返してみても、このトイレには人がいない。むしろ、人がいたら吃驚するだろう。悪いことをしているわけじゃないんだけど、人気がないからこのトイレを使っているのだ、と先輩は言っていたし。

 うん、悪いことは何もしていない……と思うことにしよう。

 今日も僕と先輩以外に人は居らず、僕のすぐ後ろで、先輩が用を足していた。あまり長々と聞いていたくはない音が、今日も元気よくトイレの中で響いている。一心不乱に考え込むフリをしていると、まだ用を足している先輩が話しかけてきた。

「お前、いつも大便器の方を向いているよな。そんなにウンコしたいならすればいいじゃないか」

「汚い話をしないでください。大体、どうして毎回のように連れションについてこなくちゃならないんですか」

「ん? 一人で行ける連れションがあるのか?」

「いや、そういう話をしているわけではなくて」

 溜息をついて、首を振る。悪い人ではないのだけれど、時折日本語が通じなくなるのがもどかしい。なぜだ、ここは日本じゃないのだろうか。

 先輩もそれ以上喋りかけてこなかったので、ここはひとつ、真面目に考えてみようと思う。僕が気にしている秘密というのは、大便器が収まっているはずのトイレの個室。その前についている南京錠のことである。

 トイレには鍵がある。これは日本国内における常識のようなものとなっていて、それ自体は何ら不思議なことではない。しかし、南京錠というのは些か厳重すぎやしないだろうか。そもそも、これでは中から鍵を掛けることも、開けることも出来ないではないか。つまるところ、このトイレは、イレとして機能していないのだ。

 すごく、怪しい。

 鍵がかかっていても、トイレの構造から言って、上からは覗けるようになっているはずだった。そういう風に考えて隣の和式便座がおさめられている個室から覗いてみようとしたが、なぜか壁が天井とつながっていた。こういうタイプか、と思って反対側の壁を見ると、なぜかこちら側は貫通していた。

 入り口側の扉の上には隙間なく壁が嵌められていたし、南京錠付きのトイレは男子トイレの一番奥まった位置にある。

 つまり、ここだけが。

 南京錠のかかっている個室だけが、独立しているのである。

 ますます怪しい。

 この部屋に隠され、秘密にされているものとは何なのだろう。

 金銀財宝、というものを僕は安直に想像してしまったけれど、そんなものを名古屋市のド真ん中に置いておくだろうか。少しでも人がくる可能性があれば、例えその確率がゼロに限りなく近かったとしても、安心して隠しておくことなんて出来ないだろう。

 次に考えたのは死体、およびそれに類するものだったのだけれど、それも多分違うと思う。もしも死体が隠されているのだとしたら次第に臭ってくるはずだし、それほどの悪意が詰められているものならば必ず犯人はここに戻ってくるだろうとも思うのだ。

 だって、トイレだよ。人目につくところなんだよ。

 愉快犯ならわざわざ鍵をつけたりしないだろうし、秘密にしたい人がわざわざトイレに持ち込んで隠す意味が分からない。いっそのこと港から海に投げ捨てたほうが、長い間、世間に露見せずにすむだろう。大体、この鍵そのものが不審物なら、とっくの昔に撤去されているはずだ。それが成されていない以上、この鍵にはなんらかの秘密がある。清掃員のおじさんも僕には何も教えてくれなかったし、そそくさと逃げていってしまったのだから。

 ちなみに掃除用具が入っているという案は、別の場所に掃除道具用ロッカーがあるので却下だ。すると、僕の貧相な頭ではこれ以上の案が考えられないのだった。

 んん、鍵で隠された秘密。これほど心を揺さぶるものはないな。

「お前、唸ってないで早く」

「汚い話は禁止ですよ、先輩」

 長かった用を終え、ようやく手洗いを済ませた先輩の方を振り向く。トイレに入る前より、幾分すっきりした顔になっていた。赤色のタオルを振りまわしながら、先輩が不思議そうな顔をする。

「っていうかお前、なんで小便しないの?」

「僕を不思議生物扱いしないで貰えますかね」

「いや、トイレに来たのに小便しないって、カレー屋に来て牛丼食っているようなものだろう?」

 例えがちょっと不穏だけど。

「したくないからしないだけです」

 正直に答えることにした。先輩は鍵のことについてあまり話そうとしないし、そもそもこの人に聞いてまともな答えが返ってくるかどうか怪しいところがあったので、一度も聞いたことはない。まぁ、この先輩は、いろいろなことを雑に扱うからなぁ。

 僕、女の子なんだけど。

 マスクをしているし、髪も短いし、高校時代に応援団員をやったせいで声も女とすぐに分かるほど綺麗なものではなくなってしまったけれど、でもでも、もうそろそろ気が付いてくれないものだろうか。初めて会った日から、二か月以上が経過しているのに。

 ……男子トイレに入ったのは純粋に内装への興味があっただけで、先輩のを観察してやろうとか、そういう悪戯を思い至ったわけではないことをここに記しておこう。

「うわっち、やってしまった」

 先輩が落としたタオルを洗い始めたのを見て、せっかくだからと聞いてみる。

「先輩、あの扉だけ鍵がかかっていますよね」

「ん? あぁ、三番目の扉ね」

 先輩は、振り返りもせずに答えた。

「あの扉、中に何が入っているのか知っていますか?」

「なに、知りたくなったの?」

「知らないが故に損をしたくないので」

「なんだよー、損するようなことなんてないぜ。変わった奴だなぁ」

 僕は好き好んで変な子をやっているわけではないのですが。

 はーぁ、連れションに強制連行される女の子って、僕以外にいるのだろうか。それもこれも、中学二年生の頃に一人称を僕という癖がついてしまったのが悪いんだ。でもそんなこと、今は気にしていられない。

「で、どんなものなんです?」

 身を乗り出すようにして、先輩に尋ねてみた。

 先輩はなぜか僕から顔を逸らしつつ、言った。

「まぁ、聞かないほうがいい」

「どうしてですか」

「『ひみつ』だからだよ。知らないのか?」

 声を落として、先輩はトイレから出ていこうとする。中途半端な情報を渡された形となり、僕は焦る。

「あの、だから、その秘密っていうのが気になるんですよ」

「いいか、『ひみつ』は『ひみつ』のままがいいんだ。あんまり扉をこじ開けるような真似をすると」

「……すると?」

 先輩の視線が、あの扉の方へ向いている気がした。

 振り返ってみても、特に何の変化もない。僕を置いていくようにして先輩がトイレから出て行ってしまうので、僕も仕方なく出ていくことにした。

 まったく、ケチな人だ。

 まぁ、秘密が秘密のままであった方がいいというのは、案外その通りなのかもしれない。先輩は僕以外の女の子と喋るときに挙動がおかしくなるし、これまで通りの関係性を保つためにも、僕が女の子だというのは黙っておいたほうがいいのだ。

 ただ、男だと思われ続けているのも、女としてどうかとおもう。もうそろそろヒミツを解き明かしてほしいと思う自分もいるのだが、それがなんだか、すごく腹立たしい。

「ところで、『ひみつ』をどうやって書くか知っているか」

 秘密、ではなく、恐らくはトイレにあるヒミツのことを言っているのだろう。先輩が、見たこともないような顔をした。無表情、というには余りに感情が欠落していて恐ろしい。人間から限界まで感情を削り切った後に残るものが、その顔には残っているようだった。

「見つめること非ず、故に『非見ツ』だ」

「あの、それは日本語的に間違っている気がするんですが」

 先輩が曖昧に微笑んで、僕の肩に手を置いた。

「いいか、これは先輩からの忠告だ。あんまり、非見ツに拘るんじゃないぞ。扉の向こうに持っていかれるからな」

 どうしてですか、という僕の質問を先読みしていたらしい。

 悪戯で言っているようには見えないものの、文言そのものが嘘くさいのではどうしようもない。脅すように、からかうように、先輩が僕の目を見る。

 その奥に揺れる光が一瞬だけ黒い炎に姿を変え、油断していた僕は心を焦がされる。半ば茫然と立ち尽くした僕を見て、鈍感で我侭で秘密主義者な先輩が笑う。

 その笑顔が気に入らなくて、僕は先輩の後を追う。

 帰りの電車は、すぐそこまで来ているようだ。

 男子トイレを出るときに、僕は必ず振り返る。

 扉の向こうの謎に心をときめかせ、怯え、いつか秘密が、真実になることを願って。






















 世界には覗かない方がいいものもある。

 およそ生物とは思えない何かかいぶつは、開くことのない扉の向こうから二人の背中を見つめていた。

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