第2話 隠し味
すべてのものには、味がある。
春の長閑な梅の味、夏の暑さは焦げた肉。
風味豊かな秋の風、舌に刺さるは冬の雪。
朝焼けはハニートーストのように胸を暖かくしてくれるし、昼の太陽の清々しさは夏みかんにも似ている。沈む夕日から漂ってくるのは焼き芋のような香りで、夜に流れる雲は、薄いコーヒーのような安らぎをくれる。
すべてのものを人生の糧として、彼女には僕なりの楽しさを提供しているつもりだった。それは、僕という人間が人生を楽しめるようにするためというのもあるけれど、何より彼女に喜んでもらいたいがゆえに、僕はその味について語っているのだ。
僕の快楽を、彼女に知ってもらうために。
愛と恋よりも、もっと深い感情を知ってもらう為に。
閑話休題。
彼女に僕を知ってもらい、僕が彼女のことを知って、お互いに好きだと言い続ける関係を作るために多種多様な行動を起こしてきた結果として、僕等の恋仲は続いている。
努力と言えば体のいい犠牲の上に、僕等の恋は成り立っているのだ。
今日だって、僕らは誰に見咎められることもなく、平日の昼間から喫茶店でお茶をしていた。互いのカップに注がれたコーヒーはなくなりかけていて、それがまるで、時間を知らせる砂時計のようにも見える。彼女は、いつもと変わらず楽しそうに笑っているけれど、未来の一端を知る僕は、容易なことでは笑えない。まだ、笑うことを許されてはいないのだ。
あぁ、ここで一つ、しっかりとした補足を入れておこう。僕のいう『味』というものにも深く関わってくることだから。
彼女というのは、
今までは世界中の誰よりも幸せだという自負があった。学生という立場だからこそ許された、自由で奔放で、後先を考えない恋。未熟ゆえに変化が生まれ、変化ゆえに飽きることもなく、永遠に続いていきそうな関係。甘いだけではなく、時に刺激的で、時に痛みすら覚えるような関係だった。
全ての感覚は一過性のもので、劇薬のように、身体の奥でとどまることをしない。しつこさはなく、水とともに喉の奥へと流れていく。恋とはむしろ、スパイスがふんだんに使われた西アジアの料理みたいな味がした。
だから僕は、最低なことばかりを考えている。
彼女と他愛もない話をしながら、頭の中では別のことを考えているのだ。目の前の彼女が、時折視界から消えてしまう。きっとこれは、罪なのだ。味を知り、求める人間であっても罪なのだ。
僕は、この世のすべてのものには味があると信じて疑わない。その味を知ることが人生の意味であるということも、小さい頃から頑なに信じ続けてきたことの一つである。僕はこれまで、その趣味を咎められたことはない。たとえ忠告されたとしても、やめるわけにはいかないのだ。僕は、人生に後悔を残したくはない。そのためにだれかを犠牲にすることになったとしても。
たとえそれが、愛した一人の女性だとしても。
***
何度目かのやり取りの後、彼女が不意に顔を曇らせた。僕の様子が普段とは違うことに、若干の違和感を覚えたのだろう。僕の彼女が、僕を疑っている。背中を走り抜ける電流は蜂蜜のように甘く、喉の奥は苦い酒を飲んだように痺れている。
彼女が、僕に質問を重ねる。適当な応対をすると、言葉が徐々に尋問じみてきた。どうやら彼女は、僕の愛を疑っているらしい。僕が彼女に恋しているということと、僕が彼女よりも愛しているものがないということを同列に捉えたがっているようなのだ。
だが、残念。
僕と彼女と、そして二人の愛の上に、どうしても越えられないものがある。
どうしても、抗えないほどの誘惑がある。
他人の不幸は蜜の味。
恋人の幸福は甘くとろけるスイーツの香り。
ならば己の不幸は、体を引き裂きたくなるほどの苦痛とは、どのような味がするのだろう。
僕の微笑みを己への挑戦状と受け取ったのか、彼女がいつものように、そしていつも以上に、まばゆい笑顔を作って話し始めた。
***
彼女は、野原に咲く蒲公英のように笑う。勝負事で嬉しいことがあったときは向日葵のような笑顔を見せることもあるし、泣きべそをかいているときだって、花魁草のような可愛げがある。身内に不幸があったときでさえ、彼女は薔薇のような気高さを保っていた。
彼女はとても美しい。無暗に綺麗な世界の中で彼女はとりわけ美しい存在なのだ。
そんな彼女のことを、僕は愛していた。そう、愛していたのだ。彼女の言葉に、微笑み返す。それ以上のことは、決してしない。いつも、つまらなそうな顔をして滅多なことで笑わない僕だったから彼女も頬を緩ませる。そして僕が次に何を口にするのかを理解して、その顔が青ざめた。
告白は苦い肝の味。嘘を吐くのは魚の肝を舐めるよりも、ひどく心を濁らせる。
唐突な別れを切り出した僕の頬を、彼女の拳が振り抜いていった。彼女の痛みは、熱を持つ。強く熱した、鉄の香りがした。
***
彼女が店を出て行ってしまってから、残された僕は独り笑っている。
とめどなく溢れる涙を拭うこともせず、どうしようもない喪失感に吐き出しそうになりながら、ただ失恋の味を口の中にころがしていた。
これが、失恋の味か。
涙が入り込んできて、よく分からない。
わかりたくないのだと、僕の心が告げている。
僕の初めての失恋は、後悔の味がした。
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