7




 まるで全てをぶち壊しにするような――あるいは、映研のこれからを示すような上映会を終えて。

 あの騒がしさを思い出すと、公広きみひろと二人きりの部室はとても静かで、ここだけ時間が停まっているかのように錯覚する。


 何はともあれ、やりきったのだと、今はすっきりとした清々しい気分だ。

 家に帰ったら兄に電話して今回の件を問い質してやりたいような、それはそれで恥ずかしいからやっぱりやめておこうかなんていう葛藤に駆られるのだろうが、今だけは。


「まあ、あの人たちは終始あんな感じだったけど――」


 と、公広は独り言のようにつぶやく。


「あの人たちがいたから、今の映研があって……。ああいう、わちゃわちゃした感じが俺の理想だったりする」


 騒がしくも楽しい、そんな日々。

 当時の映研は今とは違って部員も多く、部室も広く、きっと毎日がお祭り騒ぎのようだったのだろう。

 今の映研からは程遠いけれど――これからだ。

 これから、そうなれるように進んでいけばいい。

 今日、そのためのスタートを切ったのだから。


「わたし、今日初めて知りました。……お兄ちゃんって、学校じゃあんな感じなんですね」


 正直家にいる時とあまり変わらない部分が大きいが、決定的に違うのは、その周りにたくさんの仲間がいることだ。

 きっと呆れ苦笑しながらも、みんなをまとめる、そんな部長だったのだろう。

 加工されていたし、その上わちゃわちゃしていて誰が誰だか分からなかったが、少なくとも、当時の三年生たちがみんな、部長である兄のことを好きだったのは分かった。

 そんな雰囲気が、伝わってきた。

 兄は、そういう特別な場所を持っていたのだ。

 きっと映研は兄にとって、大事な居場所だったのだろう。


「あの人とは……桜木おうぎ先輩とは、一年程度の付き合いしかなかったけど……俺はあの人を尊敬してる。ほんっっっと、突拍子もないことするし、たまに何考えてるのか分かんないし……今回の件も主犯は絶対あの人なんだろうけど……」


 間違いなく、兄だ。遥もそう確信している。

 そうと分かれば納得のいくところが多々あるのだ。企画書の件で相談した時の対応もそうだし、近ごろ様子のおかしかった幼馴染み・想示そうじのこともそうだ。もしかすると想示は兄に言われ、今回の件に何か加担していたのかもしれない。

 たとえば、例の脅迫状を用意した、とか。

 毎日の放課後、部活の前と後に手芸部へ立ち寄るはるの愚痴を――映研の現状を、逐一兄に伝えていたのかも。


「それでも、あの人はすごいんだ。映像制作にかける情熱は人一倍だし、それに見合う能力もある。一人でだって十分進んでいける実力がある。だけど孤高の天才って感じじゃなく、ちゃんと周りのことも気にするし、周りに好かれてる。文句を言うやつがいても、それを黙らせるだけの何かを持ってる」


 良い先輩、良い部長……こうなりたいっていう――



「俺の、なんだ」



 あこ、がれ……、と。


 不思議と、その言葉が遥の中で響いた。

 すんなりと落ちて、沁み込んでいく。

 胸の中の欠けていたピースが見つかるように、型にはまるように、ずっと探していた、ずっと感じていた、恋のような何かの――


 その正体を知った。


 いつかの遥にはなかったもの。一人でなんでも出来て、だけど壁にぶつかったくらいでそれを投げ出す程度の気持ちしかなかった、あの頃の遥に欠けていたもの。

 何か一つのことに情熱を傾ける姿。笑われても、それでも楽しそうに演じる彼との出逢い。

 ただ、それだけならなんてことない、心に面影を残しても、すれ違うだけの触れ合いに過ぎなかった。

 映研で再会し、彼の愛の重さを、想いの強さを知って。

 その信念に触れ、感じたのだ。


 そのとき芽生えたこの気持ちは――解ってしまえば単純な、なんてことない、ありふれた感情。

 だけど、それまで遥が知ることのなかったもの。

 ありふれていて、でも溢れてくる――



 それを言い表す言葉、この気持ちの名前は――憧憬あこがれ



 本やドラマの中で目にしたり耳にすることはあっても、こうして共感と実感を伴わなければ真の意味でそれを理解することが出来なかった。気付けなかった。

 一人でなんでも出来て、大抵のことは上手くやって、しかし夢中になるのはいっときで、すぐに燃え尽きてしまう程度のもので、自分より上手く出来る相手は挫折という壁でしかなく、ぶつかったところで憧れることはなかった。そんな気持ちが生まれるほどの情熱を覚えるものを知らなかった。

 壁にぶつかれば諦めることの出来る習い事や競技の上じゃない、その生き方、在り方に憧れた。

 だから彼は、遥にとって『特別』な存在だったのだ。


 だからこんなにも、恋い焦がれる――



「遥は、いいお兄ちゃんをもったな」



 夕陽を背に、そう微笑わらう彼を見て――



 っ



「あ、ごめん電話」

「あ、はい……」


 不意の着信音に、心臓が止まるかと思った。

 どきどきと、激しく鼓動する。


「あぁ、うん、大丈夫。打ち上げは後日するんだ、ちょっとそれどころじゃないサプライズがあってさ。そんなテンションじゃないっていうか……」


 ぼんやりと、公広の声を聞いている。


「そうだ、さっきはありがとう。お陰で人が集まった――」


 …………え?


(まさか、いま電話してるのって……)


 奇妙な震えが走る。公広が電話を終え、スマートフォンを仕舞う頃、指先は痙攣していた。


「あ、あああのの、き、きみ先輩……?」

「ど、どうした?」

「そ、その電話の相手は、まさか……」


 震える声でなんとかそう告げると、公広は少しの間をおいてから――


「……そっか、放送室いったんだもんな。さすがにバレるか」

「えっと、それじゃ……」

「そ。別に俺が呼んだわけじゃないけど、たぶんこっちの事情気にしてくれてたんだろうな――」


 千里せんりだ、と。


甘郷かんざと、千里……ですか」

「うん」


 あっさりと頷く公広へ、



「きみ先輩の、『彼女』」



 すんなりと、その言葉はこぼれ落ちた。


「正解。この前、電話かわったのも千里だ」

「…………」


 驚きで、開いた口が塞がらない。


「ただ、あっちの名誉のために一つ訂正しておくと、だ。『彼女』っても、別にほんとに付き合ってるわけじゃない」


「……へ?」


「千里とは中学が同じでさ、まあ、なんていうか、同志だよ。同じ……似た夢を追いかける同志。あっちに先越されてるけどさ」

「は、はあ……」


「で、中学の時に告白されたんだよ」

「えぇっ」


「部活の後輩にさ」

「…………」


 公広が珍しく悪い笑みを浮かべている。からかわれたのだと気付いて、遥は公広を睨んだ。


「まあまあ。……それで、どうしようかと困ってた時に、千里が提案してきたんだ。俺の『彼女』役するって。要するにさ、遥にやったみたいに断ったんだよ。俺には彼女がいるから諦めてくれ、と」

「そ、そうなんですか……」

「そういうこと。正直告白されても俺にその気はないっていうか、恋愛とか、まだよく分からないから。でも相手は本気だし、断りにくいし……ヘタな対応したら、相手を傷つける」


 つぶやく公広の視線は落ち、何か、いろいろと想うところがあるのだろう。そんな顔をしていた。

 かつて摘吹つまぶきの言葉で深く傷ついたからこそ、公広は言葉が持つ刃を知っている。自分の対応が相手にとってどう映るか、それを考えると上手く喋れない。

 実結みゆは公広のことをかつて、不器用なのだと言った。

 遥も今、それを強く感じる。

 公広はいつも、どこか一歩引いたところから周りを見ている。

 それを本人も意識しているから、親しくなった相手のことはあえて下の名前で呼んで距離をつめようとしているのかもしれない。

 そんな公広だから、どこか似たところのある彼に憧れを抱くのだろう。


「だから、さ」


 そのための妥協案なのだ、と公広は言った。

 それは甘郷千里にとっても、様々な『彼女』役を演じるのに都合が良かった、らしい。


「七色の声を使い分ける声優さまだから、そうそうバレることもなかったんだけど」

「まあ、わたしも、普通に聞いてたら分からなかったと思います……」


 とても意識していたから、きっと気付けたのだ。

 気付いてしまうくらい、彼女は遥の心の内を大きく占める存在だったのだ。


「あの……」

「そういうわけで、遥もこの件は内密にしてほしいっていうか――」


「わたしのこと、どう思いますか?」


 思えば、同じようなシチュエーションで前にそう訊ねた時、公広は答えなかった。携帯を取り出して、『彼女』に代わったのだ。『彼女』に、甘郷千里に阻まれた。

 まだ、ちゃんと答えを聞いていない。


「どう思うかって……」


 公広は最初戸惑った様子を見せて、それから、


「面白い、かな」


「……面白い?」


「そ。最初は、普通の子だと思ってた。……桜木先輩の妹だっていうから、いったいどんな子が来るのかと心配だったからさ」


 実結たちも似たようなことを言っていたのを思い出し、遥は苦笑する。本当に、映研での兄はいったいどんなことを仕出かしてきたのだろう。まとめ役じゃなかったのだろうか。


「桜木先輩からたまに話は聞いてたんだけど……みんな言ってた。あの人の妹トークは話半分に聞いとけってさ。だから実物見るまで遥のことよく分からなくて……、意外と普通の子だな、と」


 だから、公広はあの時、答えをごまかしたのかもしれない。

 まだ、返せるほどの何かを見つけられなかったから。

 遥もまた、そんな何かを持ち合わせてなかったから。


「でも、いろいろあって……だいぶ印象が違った。桜木先輩と違って、想ってることが表情に出てて分かりやすいんだけど、たまに突拍子もないことをする。だけどそれが、きっかけがなかったり、決心がつかなかったりで停滞してる状況を打開してくれる。……それがまた、考えてやってるっていうよりは、その場の思いつきとかノリで……衝動的なのがよく分かる」


 何かを思い出したのか、くすりと小さく笑う。


「たぶん、場の空気とか周りのことを日頃からよく意識してるから、そういうとっさの時に、今必要としてることが感覚的に分かるんだろうな。しかもそれが、ちゃんと的を射てるからすごい。それでもって、みんなを引っ張っていくみたいな、周りに有無を言わせない、黙らせるだけの何かがある。だからみんな、仕方ないなって感じで納得しちゃうんだ」


 それだとなんだか我が侭で自分勝手みたいにも聞こえるが、公広はそれが遥の魅力だと言う。


「遥がいなくちゃ、みんなここまでついてきてくれなかった。一生懸命っていうか、なんにでも全力で当たるから、そういう姿にみんな引っ張られるんだ」


「あ……」


「でも無茶するような、危なっかしくてほっとけないようなとこもあって、それだからよけいに目を離せない。……総じて言うなら、手のかかる後輩だな」


 まあ、妥当な評価だろう。

 でもそれは、抱えきれないくらい、たくさんの――


「後輩だ、なんて、先輩ぶりたかったけど……ここまで来れたのは全部、遥のお陰だよ。遥はまるで――主人公みたいだった」


「なんですか、それ……。それじゃわたし、お兄ちゃんの手先みたいじゃないですか……」


「映像研究部成功物語、だっけ?」


「そんなダサいやつの主人公なんて嫌です……」


「でも、ほんとにさ……遥も、これまでいろいろあったんだろうけど、その全部が、きっと今の俺たちに繋がってるんだ」


 それが主人公じゃなくて、なんだっていうんだ――と。


「……繰り返すようだけど、映研がここまでこれたのは――なんて言ったら、これで終わりみたいだよな。そうじゃない、映研はこれからだ。ならこの場合、ありがとうじゃなく――て、」


 そこで、公広はぎょっとしたように遥を見た。


「は、遥? どした? なんで……、」


 泣いてるんだ、と。


 言われてはじめて、頬を伝うそれの存在に気付いた。

 ぼたぼたとこぼれ、手で拭えばそれが刺激になってまた溢れ出す。幾重にも出来た涙の跡。拭うたびに流れる雫が飛んで、いつの間にか手の平も制服も濡れていた。


「そ、そんな嫌だったか……?」


 違う、そうじゃない。


 ――認めてもらえたから。


 嫌いだったこれまでの自分も、今の自分も、認めてくれたから。

 同じようなことを兄にも言われたけど、それとはまた違う、やっぱり直に言われたから? いや、憧れている人だったからこそ。


 ちゃんと、わたしのことを見ていてくれたんだ。


 頑張ってきて良かった――そう思えたのは、どれくらいぶりだろう。

 昔の、褒められるために頑張っていたあの頃より、今は何倍も嬉しい。

 これからも頑張ろうと思えるくらい、嬉しくて仕方なくて。


 涙が、溢れてくるから。


「う、うう……あうう……」

「ちょっ、え? 遥? こういうとき俺はいったいどうすれば……」



「はあ、なに女の子泣かしてんのよ、あんたは」



 これだからオタクは、と。


「いっ、いる気はしてたし、この間の意趣返しに入ってくるんじゃないかとは思ってたけど……」

「盗み聞きはもはや我が部のお家芸よ」

「でも臆面もなく入ってくるとか……!」

「部長が、自分の部活の部室に入って何が悪いのよ。というか、あんたらがいつまでもぐだぐだ喋ってるから仕方なく入ってきたんじゃないの。戸締り出来ないでしょうが」

「でも入ってくるタイミングが……、」

「今入らないでいつ入るのよ」


 あぁもうどきなさいと公広を突き飛ばし、実結が近づいてくる。その肩越しに他のみんなも見えて、遥の中で羞恥心が溢れ返る。しかし涙は堪えようとすればするほど湧き上がるようで、しまいには鼻水も出るし可愛くない嗚咽まで漏れる始末で、もう自分ではどうしようもなくなっていた。遥はその場に座り込み、両手で顔を覆う。


 涙が止まらないのだ。

 あの日からの――あの劇を観てから、今日までの全てが、今この時に集約されたかのように。

 最初は不安ばかりで、これでいいのかなって思ったり、悩んだり迷ったり、もう全部投げ出したくなったりして、歩いてきた道は優しくなくて、でもその道を振り返ると――楽しいことがいっぱいあって。



 やっと、見つけたんだ。

 ようやく、ここまで来たんだ。


 そこは最高の、一番の場所だけど、でも絶対ひとりじゃない。


 ここはそんな、わたしの居場所で――



「もう……あんた、小学生じゃないんだから」

「み、みゆしぇんぱにいわれたく、」

「あ? 何言ってんのか分かんなくて良かったわね、聞こえてたらぶん殴ってたわ」


 そう言いながらも、


「……泣くんなら、もう思いっきり泣いちゃいなさいよ。周りなんか気にしなくていいから」


 そうやって胸を貸してくれる部長の優しさに、また涙が溢れる。鼻水も出る。


「ちょっ、うわっ汚っ、私の制服汚さないように工夫して泣いてくれるッ? 着替え持ってないから帰るまでこのまんまなんだけど!」

「ずび、まぜん……っ」

「いや、女優じゃあるまいし、そんな気遣ってたら思い切り泣けませんから」


 笑い声が聞こえてくる。

 泣きながら、一緒に笑える自分がいる。


 それが、とても嬉しかった。



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