2 君を見つけたあの日から
「…………」
――何が面白いのか、今日も彼女はあの木の下、茫然と立ち尽くすかのように突っ立っていた。
昼休みと違ってひと気のない静かな中庭の隅。どこからかぴーぴーと甲高い鳥の声が聞こえる。もしかすると枝葉に隠れて巣があって、彼女はそれを観察していたのかもしれない。だらりと垂れ下がった手に携帯はない。代わりに放課後は首からカメラを提げている。
普段なら声をかけることも躊躇われるその姿を見て、しかし
「
そんな遥の声に悠はすぐに反応した。ぴくりと肩を震わせてから、こちらに体ごと顔を向ける。その目はわずかに見開かれていた。
遥は悠の数歩手前で足を止め、少しだけ息を整えてから、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「悠ちゃんでしょ、あの写真……」
「あの写真」
まるでなんのことだか分からないといった顔で悠は言葉を繰り返してから
「あぁ」
と小さく頷き、胸元にあるカメラに手を添える。
「
そう言って、薄い笑みを浮かべた。
「……っ」
ぞくりと背筋を駆け抜ける冷たい何か。
見渡せば、この中庭からは手芸部の活動場所である家庭科室も、保健室の窓も窺える。カメラを使えば中の様子も覗けるだろう。昼も放課後もこの場所にいるという悠なら、
「わたしが嫌いなら……、」
悔しさや怒りに似た感情が胸の内で渦巻いて、言葉が詰まりそうになる。悠が犯人だったこと以上に、自分のせいで映研に迷惑をかけたことがひどく腹立たしい。
「…………」
唇を噛み、項垂れそうになる遥と打って変わって、悠は相変わらず考えの読めない表情で遥を見つめている。まるで被写体でも観察するようなその目に、遥の中で苛立ちが募る。
映研じゃなくて、わたしに攻撃すればいい――そう言いかけて、言葉を呑み込む。
喧嘩を売りに来たのではない。
「……わたしも、悪かったって思ってる」
「…………」
「水に流してとは言わないよ。……わたしだって、悠ちゃんがつらい目に遭っただろうことくらい、想像できる。悠ちゃんの気持ちは分かるつもりだから」
「?」
「だけど……わたしたちの問題と、映研は関係ないでしょ! どうしても許せないんだったら、わたしのこと殴ってもいいから――」
「ちょっと待って」
と、悠が珍しく遥の言葉を食い気味に遮った。
「ちょっと話が見えないんだけど」
「?」
遥は首を傾げる。
「遥はいったい、なんの話をしてるの」
「え? なんのって……ほら、昨年の写真のコンクールの時の……」
その当時いろいろあって暗い気分だった遥にとって、それは自分のことのように嬉しい出来事だった。
だから思わず、感極まって、勢い余って、廊下で出くわした悠に飛びついたのだ。
そうしたら、悠が倒れた。
頭を打ち、気を失った。
騒ぎになった。
(……だいぶ噂になって……。わたしだってクラスで笑われたし……)
きっと悠も、同じ想いをしたのではないか。
クラスが違ったから詳しくは知らないものの、それ以前から悠は孤立していたようだし、彼女が笑いものにされたことは想像に難くない。遥自身、似たような境遇にいたから、その時の彼女の気持ちは察して余りある。
それ以来、遥はなんだか気まずくて悠と距離を置くようになり、悠の方も遥に接してくることはなく――
「だからてっきり、それで嫌われたものとばっかり……」
「あぁ……」
まるで昔を懐かしむように頷いて、
「そんなこともあった」
「そんなこともあった!?」
あまりの衝撃に叫んでしまった。
「え? じゃあ何? なんで悠ちゃんわたしのこと恨んでるの!?」
「別に、恨んでないけど」
「恨んでないの!?」
「うん」
あっさりと頷かれ、遥はその場に座り込みそうなほど脱力する。
ますます、彼女のことが分からない。
じゃあ、いったいどうして――
「でも、だって……悠ちゃん、わたしのこと『
高校に入学し、映研で再会した彼女は、遥のことをそう呼んでいた。
まるで他人みたいに。
「……遥が、私のこと最初に『
「…………」
そうだっけ? と目を逸らす。記憶とは曖昧なものだ。
「まるで他人みたいに」
拗ねたように呟くその姿に、一瞬頭の中が真っ白になる。
気まずさがあって、距離があって、時間があって。
だから、大事なことを見落としていたのかもしれない。
悠は元々あまり喋らないし、感情を表に出さないから、映研で再会した彼女の冷たさを誤解していたのだ。それは悠のデフォルトなのに、てっきり嫌われているものと思って――本当に距離を置いていたのは、
(わたし……?)
嫌われているのだと思っていた。
というか、はっきり『嫌い』だと言ったじゃないか。
「じゃあ、なんでわたしのこと嫌いって……」
今度は悠が目を逸らす番だった。
「映研のことも……」
「……映研には、恨まれる理由がある」
「それってどういう……、」
昨年部を辞めていったという元部員たちなら、分かる。でも遥同様、今年になって入った悠には映研の問題なんて関係ないし、それで怒りを覚えるくらいの執着があったのなら、この前この場所で話した時、あんなにも無関心な態度をとれるとは思えない。
現にあの時だって、悠は他にそんな部活がなかったからと、校則だからと言って、
「昔、好きなことに情熱を傾ける人がいた」
不意に、悠は語りだす。
「だけどその人は怪我をして、好きなことを続けられなくなった」
「誰の話……?」
「高校生になって、その人は映研に出逢った。部員募集をしていた同級生に声をかけられて、映研に入った。映研はその人にとって、救いになったんだと思う。いつも、楽しそうにしてたから」
「…………」
それは遥の知らない誰かの話。
思えば遥は悠のことを、その家族や交友関係について、何も知らない。
「でも、何かがあって、その人は映研を去った」
その誰かは、映研の元部員だ。
「私は何があったのか――映研に通わなくなったこともそうだけど、何があってその人がまた笑えるようになったのか、知りたいと思った。何かがあるって、あの日、部活説明会の日に思ったから」
そして悠は、その何かを――
待って、待ち続けて、待ち疲れて、けれど何もしない先輩たちに痺れを切らして席を立った。
「でも、私は――、」
悠は一度言葉を切って、気持ちを落ち着けようとするように小さく呼吸を繰り返して、視線を伏せて、軽く拳を握って、開いて――彼女にしては珍しく、理性で抑えつけようとした感情が滲むような声で――
「遥がいたから。……その人のこととか、映研のこととか、全部どうでもよくなって……ただ、遥がいたから」
「……わたしが……?」
「ここでなら、遥と何か出来るんじゃないかって、思ったのに。私も、ここでなら何か出来るんじゃないかって――また会えて、嬉しかったのに」
遥を睨んで、そう告げた。
「運命だって、思ったのに」
唇を噛んで、視線を落とす。
「……遥も、先輩たちと同じ。下らないことばかりで、何もしない。私の好きだった……なんでも楽しそうに頑張る遥は、いなくなった」
「…………」
「いっときでもいい。真剣にやるならそれでいい。中途半端でも、それでも一生懸命だったから。……二番になる人のことなんか考えない、ただひたすら一番だけを目指して、頑張って、輝いてる――誰よりも特別だった遥のことが、好きだったのに」
今の遥は嫌い、と。
いつかの言葉の意味が、ようやく分かる。
「そんな遥が撮りたかった。一緒に何か出来たらって、期待したのに。……
そう言って、顔を上げた悠の睨む先。
つられて遥も振り返ると、そこには――
「……きみ先輩」
「盗み聞きするつもりはなかったんだ。というか、嫌でも声が聞こえて来たから。遥も、俺とあいつの話、聞いてただろ。お相子だ」
「……いや、昼に堂々と盗み聞きしてた先輩に言われたくないです」
「それを言うなよ……」
公広は申し訳なさそうな顔をしながら、悠へと視線を移す。
「悠が映研や俺のこと嫌いな理由、よく分かったよ。でも意外だな、悠がそういうことに気付くなんて。一応言っておくけど、俺は別にそういうつもりはないし、遥だって――、」
「知ってます。……告白動画、見ましたから」
「告白動画!?」
ぎょっとして遥が振り返ると、悠はふて腐れたような顔でついと目を逸らす。
「なんだそれ……と言いたいところだけど、まさか録画に成功してたのか、あれ」
やはりあれのことか。
遥が公広に告白した瞬間を、実結はビデオで録画していた。そしてそのビデオをそのまま棚に戻していたのだろう。撮影機器をよく利用する悠なら、偶然それを見つけてもおかしくはない。
あるいは、公広の留守中に遥が実結たちと交わしていた会話を耳にしたのか。
「遥、織田先輩の『彼女』が誰か、気になってたんでしょう」
どきり、とする。
一瞬悠がそうだと告げるのかと思ったが――
「だから、教えてあげたの」
だから、あの写真を送り付けたのだと。
「失恋すればいいと思って」
淡々と言ってくれるが、遥は自分に対する、寒気を覚えるくらいの情念を感じた。
「し、失恋って、だからっ、わたしは……」
「誰にも話すなって言ったのに、遥が口を滑らせてたことはさておくとして、だ」
「う」
言葉を詰まらせる遥に代わり、公広が前に出る。
「まず訂正しておくけど、保健室の先生と俺はなんの関係もない。撮ってたなら分かるよな、その前後くらい」
「……事実なんてどうでもいいです」
「じゃあ、そういうことに写真を使うもんじゃない。好きなんだろ、写真。なら……文句があるんなら、俺か遥に直接言え」
一息ついて、それから、と公広は続ける。
「……いろいろあるのは分かる。許してくれとも言わない。邪魔をするのは勝手だ。けど、俺たち映研が何もしてないかどうかは、完成した映像を見て判断してくれ」
「…………」
「これから挽回してみせる。今更って思うだろうけど、今更でも――やっと、動き出せたんだ。俺たちも、遥も。まだ、見くびってもらっちゃ困る」
そう言って、公広は悠に背を向けた。
すれ違いざまに、遥の肩を叩く。
実結がそうするみたいに、後は任せた――言いたいことを言ってやれ、と。
遥は、改めて悠を見つめた。
どんな言葉をかければいいのだろう。
迷う間に、悠が先に口を開く。
「……どうせ、うまくいくわけがない」
だから見切りをつけたのだと、言外にそう告げる。
「そんなの……分からないよ」
違う。そうじゃない。言いたいことはそれじゃない。
この気持ちはもう、はっきりしているはずだ。
「遥が頑張ってるのは、知ってる。けど、それは全部あの先輩のためなんでしょう。好きだから、好かれたいから、そういう風に――そんなのは、」
「違う!」
と、強く否定するのもどうかと一瞬思ったが、少なくとも、それだけじゃないことは確かだ。
今なら、はっきり言える。
「映研で知ったの。自分一人じゃない、みんなで何かをつくるってこと。それが楽しくて……みんなで頑張る今が、わたしは――」
悠を見据えて――好きだ、と告げる。
「つらいこともあるし、投げ出したいって思ったこともあるけど――でも、初めて、それでも続けたいって、これが好きだって……映研が好きだって、心から思えた」
もうこの心は空っぽじゃない。
きっとこれが、やめたくてもやめられないものなんだろう。
それを、やっと見つけた。
「だから、絶対に、良いものをつくるから。ここから先は初めてのことばかりになるだろうけど、それでも、みんなでつくるならきっとそれは楽しいし、苦しくたって、きっとそれも最後には想い出になる」
「だけど、遥が何を言ったって……時間もない、人手だって足りない。現実問題として――」
「何もしてない悠ちゃんに、何かを言われたくないよ」
「…………、」
「誰になんて言われたって、笑われたって、わたしはやるから。もう他人のことなんか気にしない。だってこれはわたしが決めたことで、わたしがやりたいことで、楽しいって思えて、好きなことだから。何も知らない人の声なんて、どうだっていい」
だから、
「悠ちゃんは、わたしだけ見ててよ。他の人なんか撮らなくていい。わたしだけを、ずっと撮ってて」
そして、まだ彼女の中にその気持ちが残っているのなら。
「わたしと一緒に何かしたいんなら、今からでも遅くないから。……正直人手も足りてないしね!」
「…………」
「……う、ううん、やっぱりいい。悠ちゃんが今からやりたいって言っても、入れてあげないんだから」
「……え」
「これは、わたしたちでやり遂げる。そして、悠ちゃんにわたしたちの『最高』を魅せる。それ見たら、絶対戻りたくなるんだから」
彼女が戻ってこれるように、この場所を守り抜くと心に決める。
「その時は……悠ちゃんにもネコミミつけてもらうんだからね!」
同じ目に遭わせて、笑ってやるんだ。
全部終わらせたら、最後には笑い話にするために。
また一緒に、笑いたいから。
「う……」
なんだか急に恥ずかしさがこみあげてきて、遥は悠に背を向けた。
「も、もう……! これから脚本仕上げるんだから、悠ちゃんに構ってる時間も惜しいよ! じゃあね! また明日!」
一方的にそう言って、遥は逃げ出した。
その背に。
「……今の遥は、嫌いじゃない」
くすりと、彼女は笑った。
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