10 困難、来たりて
映研は校舎でも空き教室の多い一帯にあるため、廊下にはまったくひと気がない。なんでも、騒がしいからとこんな僻地に追いやられ、部員の減少もあって今の狭い部屋にされたのだという。
普段は静かで落ち着く廊下も、今日ばかりはそれが少しだけ
気分は晴れない。
来週からテスト期間に入り、その翌週にはテスト本番、そして数日すれば映像制作の締切が訪れる。
生徒会からの資料によれば、締切当日は放課後に上映会が行われるようだ。
上映会では映像の審査が行われるが、その方式は――『教職員だけでなく、生徒も含めた投票の結果によって判定。買収などが発覚した場合、結果に関係なく潰されると思え』と手書きされていた。
ここぞとばかりに
要するに映像の出来次第、ということだ。
だから先のことを考えるよりもまず、今出来ることに集中しなければならない。
(時間もないし……いろいろ考えなくちゃいけないんだけど)
今日も昼休みに部室集合、遥はお弁当とファイルを両手に部室へ向かう。
(今日は……みんな、来てるかな)
昨日の放課後、遥は公広と二人、部室で他の部員たちが来るのを待っていた。
しかし遅れてやってきたのは
もしかすると、このままみんなバラバラになってしまうのかもしれない。
そんな気がして――
「……どうなっちゃうんだろ」
つい、不安が口を衝く。
『俺のせいだな』
昨日、二人きりになった際に公広の漏らした言葉が頭をよぎった。
公広のあの提案が、それまで和やかだった部の空気に変化をもたらしたのは否定できない。
ロトスコープというものがどういうものか、遥も調べたから今はその苦労を想像できる。実際どうなるかは分からないが、今の映研にとって大きな負担になりうるだろうし――逆に、それだけの価値がある結果をもたらすかもしれないと感じた。
だから栄も景秋も、それぞれに悩んで、答えを出したはずだ。
なのに、どうして現れなかったのだろう。
まさか何かあったのではないか――なんて、そう考えるのはある種の現実逃避か。
やはり、気まずいものがあるのかもしれない。
遥なんかよりもずっと栄の方が、公広が今回の件にかける想いを知っているから、映研のためとはいえ反対だと告げることには抵抗があっただろう。
ロトスコープをどの程度採用するのかは分からないが、アニメパートをそれで埋めることになれば景秋の担当は減る。しかし公広同様この件に情熱を傾ける景秋にとってそれは、自分が自由に描ける空間を失うことに等しい。
それから。
(実代ちゃんも……)
同学年なのもあって遥は休み時間に実代の教室を訪ねてみたが、深く考え込んでいる様子の彼女を見て声をかけられなかった。
きっと『顔出し』のことが実代を悩ませているのだろう。ヒロインになってほしいと言った遥の言葉がプレッシャーになっているのかもしれないと思うと、胸が苦しくなる。
こんな状態で――こんな自分が脚本を任されて、本当に大丈夫なのだろうか。
昨日の同人誌の件があって、実結は「遥なら良い脚本が作れる」と言った。公広たちも同感のようだった。もちろん全て遥に丸投げされた訳ではない。
具体的なコンテは実結が作ってくれるそうだし、素材に関しても公広たちがいくつか用意しており、何より実際にコンテを元に作業するのは彼らだ。
脚本とはいってもはっきりした筋書きではなく、それこそ昨日の同人誌やこの前の企画のようにまとめてくればいいと言われたものの――
イメージとコンセプトは既に決まっている。各々のイメージを突き合わせて映像の全体像も見えてきている。
遥は、それらをまとめて映像制作の指標を決める、重要な役割を任されたのだ。
失敗は出来ない。
それが、今更ながら感じる、プレッシャーだった。
(本当に、わたしが考えてもいいのかな。ロトスコープのことだって、まだ……)
このまま、自分の望むままに進めてしまってもいいのだろうか、と。
自分のやりたいことのために周りを巻き込んでしまってもいいのか。
その責任を負えるだけの資格が、果たしてこんな自分にあるのか。
それで全てがダメになれば、これまでと同じことを繰り返すようなものだ。
(わたしには、脚本の仕事がある。じゃあロトスコープを入れなくても……? その方がリスクもなくて、映研のため。でもそしたら、きみ先輩は? あんな先輩、初めて見た……)
迷いは消えない。
公広は何も言わず、急かさないが、それでも現実問題として時間は限られ、今日の放課後までに脚本を仕上げ、明日からの土日には実写映像を撮影することになっている。
(時間がない)
時間に追われれば、公広たちが本当にやりたいことも、それによって良い作品が生まれるとしても、諦め、切り捨て、最悪実写のみという形になるかもしれない。
だから明日の撮影は延ばせない。まだロトスコープの件もはっきりしていないが、それがなくても、PV全体をまず実写で撮影することは決まっている。
(もともとスケジュールがハードなんだよね……。だけど文句を言ってても仕方なくて)
もういっそ、全て投げ出してしまいたい衝動に駆られる。
この
……誰かに、手を引いてもらえたら。
次はこうすればいいと、自分のやるべきことを示してくれたら。
何も考えないで、迷わないで、ただ前だけ見て進んでいけるのに。
今の遥には、昔のような情熱はなくて――だから、
「よっ……、と」
俯きかけていた顔を上げる。
(あれ……? 誰だろ……?)
声が、聞こえたのだ。
(部室? 覗いてる……?)
進行方向、それも映研の部室の前に誰かいる。遥はなんとなく後戻りし、廊下の角に身を潜めた。こっそりとその動向を窺う。
その人物はまるでバレリーナのように片足立ちになって、わずかに開いた扉から上半身だけを部室の中に入れていた。単純に室内を覗いているというより、中にある何かを確認しているか、あるいはテーブルに何かを置こうとしているかのようだ。浮かしたもう片足でバランスをとるその姿はなかなか滑稽だった。
(不審すぎる……)
よっ、という感じで床に足を戻す。腰までありそうな黒髪が揺れ、遥は一瞬それが
実際それは悠ではなく、垣間見えた横顔は遥の知らない人物だった。周囲を窺うようにきょろきょろしてからスカートを正すと、ベレー帽のようなものを被り直し、部室の扉を閉める。
今気づいたが、その人物は昼休みにもかかわらず肩から鞄を下げていた――
「――何してんのよ?」
「ひゃわっ!」
突然背後から声をかけられ、遥は奇声を上げて廊下の角から転がり出た。
「なんなのよ? 何? 誰かいるの?」
後ろにいたのは実結だった。
「部長……」
当たり前のように現れた彼女への驚きと、安心感。思わずその顔を見つめたまま固まってしまう。
どうして昨日部室にこなかったのか、訊ねたかった。
「…………」
「なんなのよ」
実結は怪訝そうに顔をしかめてから、部室のある廊下に顔を向ける。遥も我に返り部室前を確認するが、既に不審者の姿は消えていた。そういえば足音が聞こえた気がする。逃げられたのだ。
「まあなんでもいいわ。今日はあんたが一番乗り? 弁当組はいいわね」
「あれ、部長は食堂じゃないんですか? 昨日は購買でしたけど……。あぁ、また先輩たちパシらせて……」
「部長っていうか、先輩の特権よ。……ところで、部室はカギかかってるから入れないわよ」
そう言って実結は部室の鍵を取り出して見せる。
「カギ……? え、でもさっき……、」
扉は開いていたような。
(こ、こういう展開って……)
遥が嫌な予感を覚え立ち止まっていると、実結は「昨日からあんたなんか変よ?」と首を傾げてから部室へ向かった。遥も慌てて後を追いかける。実結が扉に鍵をさした。それから首を捻る。
「戸締りはちゃんとしろって教育してるはずなんだけど、誰よ」
……やっぱり、カギは開いていたようだ。
不安が膨れ上がり悪い想像が脳裏を駆け巡ったが、扉の小窓から覗ける部室内に異変は見当たらない。少なくとも部室が荒らされているといった表面的な変化は見られず、遥は密かに安堵する。
実結が扉を開けた。
そして、「何これ?」といつもと変わらない調子で、テーブルの上にある、二つに折りたたまれた紙に手を伸ばした。
はらりと、紙の間に挟まれていたカードのようなものが床に落ちる。遥は部室に入りながら、テーブルにお弁当と脚本の入ったファイルを置いて、なんの気なしにそれを拾い上げた。
(写真――、)
どこかの室内を、外から撮った写真のようだ。窓越しに、女性と思しき白衣を着た人物。その向かいにも誰か座っている。
「これ、きみ先輩じゃ……?」
遥が写真から顔を上げると、落ちた紙を手にしていた実結が険しい表情で立っていた。
「部長……? どうかして――、」
瞬間、遥は現状を理解した。
とっさに実結が睨んでいる紙を奪い取る。ノートを切り取ったものらしきその紙には手書きで――
『部長を辞めさせろ。さもなくば上映会を滅茶苦茶にする』
「その写真は」
「あ、えっと……、」
見せるかどうか躊躇う遥から、今度は実結が写真を強引に取り上げた。実結はそれを横にしたり逆さまにしたりしてから、
「
「……あの、部長……、」
これは間違いなくあの手紙に――脅迫状に関係している。今日まで何事もなかったが、とうとう犯人が、敵が動き出したのだ。
遥は実結の顔色を慎重に窺った。実結にだけは知られてはいけない。そう言われていたのに、まさかこんな形で明るみになるなんて……。
案の定、実結はあの、自嘲するような笑みで写真を見つめている。
その目が不意に遥を射抜いた。
「あんた、織田とつるんで何か隠してるわよね? こういうの、前にもあったんじゃない?」
「ど、どうして――」
「前に演劇部で織田があそこの部長から何か受け取ってたでしょ。何を話してるかまでは聞こえなかったけど。あそこと……それから、美術部。そっちにもあったわね? これと似たようなもの。美術部から戻ってきたあんたの様子も変だったしね」
「先輩は名探偵ですか……」
「ふん。ほら、大人しくゲロっちゃいなさいよ。吐けば楽になれるわよ」
「うう……、」
と遥は渋るのだが、実結は甚振るような笑みを浮かべていて、答えなければ何をされるか。それにこの調子なら、案外打ち明けても問題なさそうな気もする。
というわけで、遥は大人しくゲロった。
「――なるほどね、やっぱり私は名探偵だったわけ。ったく、そういう不祥事はまず真っ先にボスに報告するもんでしょうが」
そのボスに不安があったから言えなかった、という言葉は呑み込んだ。
「……あの、ところで、その名探偵に聞きたいんですけど、この写真はなんでしょうね……?」
訊ねる遥に、実結はあっさりとこう告げた。
「織田の『彼女』なんじゃない?」
「えっ――」
久々に耳にするそのフレーズに、遥はただただ絶句した。
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