5 その名は『希望』-美術部攻略、戦後処理-




「あぁ……、うう……」


 と、美術室を出て廊下を少し行ったところで、近実このみが行ったり来たりと所在なさげにうろついていた。勢い余って飛び出してきたけど……といった感じのようだった。

 そんな彼女ははるたちに気付くと顔を上げ、視線をさまよわせながら、


「あー、えっと……」

「早速うちの部室に来てもらえるとありがたいんだけど。打ち合わせやら何やら……今ならまだ実代みしろさんもいるだろうし」

「……そのこと、なんだけど」


 言いづらそうにしながら、近実はもじもじする。


「……言ったけど、あたしにもあたしの都合があるのよ。だから……その……、映研に協力は出来ないわ」

「えー……」


 思わず声を出すと睨まれた。


 しかし、ここまで来てまだ何があるのか。もはや近実は後戻り出来ないところまできてしまったというのに。

 首を傾げる遥と違って、公広きみひろには何か思い当たることでもあるらしく、


「夏のイベントはまだまだ先だと思うけどな。……まあそう思っているとあっという間に来るものではあるけども。けど俺の知る限り、『希望のぞみ』はこれまでイベントに出たことはないよな。それに今の君を見るに、その感じだと出店できるとも思えないんだけど」

「な、何よ今のあたしって」

「すぐ真っ赤になるところじゃないですか?」


 怒ったり照れたりで。要するに感情の制御が出来ないところ。


「……イベントがあるのよ。オンリーイベント」


 そう指摘されたからではないだろうが、近実は消え入りそうな小声で呟いた。


「おんりー……いべんと? なんですかそれ?」


 耳慣れない言葉に遥が小首を傾げると、公広が説明してくれる。


「オンリーイベント。企業なんかが主催して、一つの作品やジャンル、その主催企業の展開している作品を元にした同人作品を出品できるイベントのこと。いわばその作品のファンの集いみたいなもので、出店するにしても大手のイベントよりはこの手の小規模なイベントの方が比較的参加しやすいな。……というわけで、近実もそのイベントに参加するのか?」


 訊ねると、近実はおずおずと頷いた。


「あたしもそういうの挑戦してみようと思ったのよ。だから、まあ……そういうわけだから。あんたなら分かると思うけど、そのために準備とかいろいろあるから……」

「…………」

「な、何よ……?」


 公広は近実の顔をジッと見つめている。じわじわ近実の顔が赤くなる。

 しばらくして、公広はふっと息をつく。


「……嘘ついて逃げる気なのかと思って。どうやら嘘じゃないらしい」

「う、嘘なんかつかないわよ。出店できるかは抽選だし、受かるまではブログでも告知しづらいからどこにも言ってないだけで……」

「そういうことなら、作品づくりとかその他もろもろ、協力してもいい」

「え」


 意外な提案だったのか、近実はぽかんとした顔で公広を見つめる。それからしばし逡巡するように視線をさまよわせてから、やがて首を振った。


「協力っていっても、あたしの作業は主にデジタルだから……よくあるベタとかトーンの手伝いなんかできないわよ?」

「じゃあ、イベントの方はどうだ? 搬入を手伝ってもいいし、売り子でもいい。コスプレも可だ。衣装なら手芸部にツテがあるし、最近うちにはレイヤー志望がいるんだ」

「……へ? わたしですか? いやいや! 別にわたしはレイヤーさん志望ではっ」

「それにあそこの部長なら喜んで、なんにでも応じてくれるはず」


 近実の表情がわずかに明るくなり……そして考え込むように視線を落とした。


「……確かに初めてだし不安だから、手伝ってくれるっていうのはありがたいんだけど……」


 そうね、と頷き――顔を上げると、そこには不敵な笑み。


「一つ、条件があるわ」




               ***




 遥が一人で映研の部室に戻ると、そこには公広の予想通り、まだ実代が拘束されていた。

 ちょうど一段落ついたところのようで、スケッチブックを眺めていた景秋かげあきさかえ実結みゆが何か言葉を交わし、納得するように頷きあっていた。

 もういい、と景秋に言われ、実代はようやく呼吸することが許されたかのようにぷはーっと大きく息を吐き出してテーブルに倒れ込む。


「お疲れ様、実代ちゃん」

桜木おうぎさん……」


 振り返る実代の表情はまるで憑き物が落ちたみたいに柔らかく穏やかだった。疲れの滲む笑み。限界を超えて何か悟ってしまったかのよう。印象がだいぶ異なると思えば、眼鏡をかけていなかった。


「おかえり、遥。……で? 美術部の方はどうだったの? 助っ人、見当たらないけど?」


 実結が自分の席に戻りながら、訝しげな目で遥の後ろに視線を向ける。


「……まだ難航してるわけ?」

織田おだもいねえけど? なんかあった? むしろ助っ人よばれてる感じか?」

「一応解決しました。今はえーっと……戦後処理ですかね? 先に戻るように言われて」


 近実は勢いで美術部を飛び出したのはいいが、パソコン等、大事な荷物を置き忘れてきてしまい、それをどう回収しようかで悩んでいた。啖呵切った手前、部室に戻るのは躊躇われるらしい。

 代わりに公広が片付けに向かったのだが、近実のパソコンは作業途中だったこともあり、いろいろ手間がかかっている。具体的には近実がメールで指示を出し、作成中のイラストの保存等を公広にやらせているのだ。自分で入っていけばすぐ済むのに、どうにもプライドが許さないようだ。


「それよりもですね。先に戻ってきたのにはその、理由がありまして」

「何よ? なんか……あまりよくない報せみたいね」

「……まあ、ええ、なんというか……ちょっと厄介な問題が」

「何よ問題って。なんか、一難去ってまた一難って感じよね。なにこの青春サクセスストーリー」


 まったくその通りだ。なかなか穏やかな日々に戻れない。


「それでその、問題っていうのがですね――」




               ***




 公広に言われて遥が映研に戻ろうとした時、彼に口止めされた。


「遥、脅迫状の件はまだ誰にも言わないでくれ」


 すっかり忘れていたが、そんな重要な案件が美術部では発生したのだ。


「……脅迫? 脅迫ってなんの話よ?」

「……実はだな」


 きょとんとする近実に、公広は美術部に脅迫状が届いたこと、そしてその対策のために進条が一芝居うって自ら悪役を演じ、近実を追放したことを打ち明けた。


「な、なにそれ聞いてないんだけど!」

「そう思って説明したんだ」

「いや、でも……」


 半信半疑だった近実だが、公広が破れた脅迫状を取り出すのを見ると目を瞠った。


「悪かった。先にこっちを話すべきだったな」


 公広が頭を下げると、


「べ、別に……いいわよ。そんなこと。あの部長がそれで大丈夫って思ったんなら、たぶんそうなんだろうし……。そ、それにどうせあたし、もう美術部に戻れないし」


 あはは、ははは……、はあ……。昏い笑みを浮かべる近実をそっとしておくことにして、遥は公広に訊ねる。


「それで、その……? 言わないでって、実結先輩たちには黙っておけってことですか?」


「あぁ。……実は」


 と、公広は神妙な表情でもう一枚、美術部に送られてきたものと同じ脅迫状を取り出した。一言一句、まったく同じ文章がプリントされたものだ。

 二枚の脅迫状を目の前に並べて提示され、遥は戸惑うしかない。


「ま、まさか……きみ先輩の自作自演、とか……?」

「だとしたらなんで二枚も作る必要があるんだ」


 そう言って苦笑して、


「これは……演劇部に届いてたんだ」

「演劇部にも……?」


 そういえば、と遥は思い出す。


「……演劇部の部長は進条しんじょう先輩ほど慎重じゃないから、こういうのはただの悪戯だろうって真面目に受け取らなかったから助かったけど……」


 遥の頑張りを見て爆笑していたあの部長。確かにあの人なら真に受けたりしないだろう。でもだからといって、何かが起きても楽観するタイプではない。公広が険しい顔でやけに話しこんでいたのはその点を詰めていたのかもしれない。


「脅迫状が二枚。……これは、明らかに映研を敵視している人物がいるってことだ」

「だったら、なおさら実結先輩にも……」

「よけいな心配をさせたら、これからの作業に支障が出るかもしれない。……この件は俺がどうにかするから、まだ黙っておいてくれ」

「どうにかするって……」


「何か当てはあるの? 犯人に目星とか?」


 近実が訊ねると、公広は険しい表情で頷く。


「まず、犯人は映研を疎ましく思っている人物だ。PV制作に関しては特定の誰かにデメリットがあるとは思えないから、映研の活動自体……その存続が疎ましいんだ。だからPV制作を邪魔して、映研を廃部に追い込むつもりなんだろう」


 邪魔。廃部に追い込む。言葉が遥の胸に沈む。


「そして、演劇部と美術室に脅迫状を置いたんだ、学校外部の人間には難しい。自ずと犯人は学校関係者に絞られる。まさか教師がこんなことをするとは思えないから、犯人は生徒の中にいる」


 独り言のように語る公広の声は暗かった。


「恐らく、一年生はない。映研が人手不足から、外部……美術部や演劇部に協力を求めるだろうと推測できるのは、これまでの映研の活動を知っている二、三年生。それに、これが一番大きいんだが……そもそも映研がPV制作を行うこと、そしてその可否によって存続が決まることを知っている人間は限られている」


 このタイミングできたのだから、やはりPV制作の邪魔がしたいのだろう。なら確かに公広の推理通り、二、三年生、そして映研の廃部の件を知っている人間の中に犯人がいるのかもしれない。


「ねえ、さっきから存続って何? え? もしかしてあたし、知らないうちに責任重大なことに参加させられてたんじゃ……」

「ほらな、近実のように映研が廃部になるって話は知らないんだ、みんな」

「でも……必ずしも存続の話が関係してるとは限りませんよね」

「ちょっと、あたしのこと無視? ねえったら」


 無視である。


「犯人はわざわざ脅迫状なんてものを用意した。こうして積極的に動いてきたっていうことは、この局面をどうにかすればうちが終わると分かってるからじゃないか? だから映研が動くために欠かせない外部の助っ人を封じようと手を打ってきた。……敵は、俺たちを潰しにかかってる」


「……敵」


 その言葉の意味するところは。


「部員の誰かに恨みを持っている人間、犯行を起こす動機のあるやつを探す」

「恨み……ですか」


 やはりそうなるか。遥は沈痛な気持ちになる。


「……栄や景秋のことは分からないけど、部長なら短気を起こして誰かの恨みを買ってる可能性もあるからな」


 公広の視線がこちらに向く。何か覚えはないか、とは直接訊ねない。


「わたしも……これだって思い当たるものはないですけど、知らないところで敵をつくってるかもしれません。そんな自覚はあります」


「そうか」


 と公広は頷いて、そして、


「たぶん、一番敵が多いのは俺だな」


 つらそうな顔でそう呟いた。


「俺もこれだって思えるものはない。でもまったくありえないとは言い切れない」


 公広は有名人だ。そういう人間には必然的に敵が生まれるし、公広はその信念ゆえに様々なものを切り捨て二次元を選んでいる。だから誰かの不況を買ってないとは言い切れない。


「……こればかりは、自分じゃどうしようもない。自分のしたいことをして、やりたいことをやり抜いた結果、周りがどう思うかなんて分からない。悪く思われないように黙らせるだけの何かがあれば、また違ったんだろうけどな」

「有名人も大変なのね……」


 近実がしみじみと頷いている。遥には同意も、否定もできない。ただ俯くだけだ。


「だから、これは俺の問題だ。自分で片付ける。……これくらいしか、俺にはやれることがないからな」


「あ……、」


「栄には編集や効果っていう技術面、景秋には原画やキャラって言うメインの仕事、そして部長にはみんなをまとめる監督って役目がある。こんなことのせいで作業に集中できなくなったら困るんだよ。それぞれが欠けちゃいけない重要な仕事を担ってるんだ。時間だってそんなにない。……これからなんだよ、ようやくここから始まるんだから」


 絶対に邪魔はさせない。公広の言葉には決意が滲んでいた。


 遥は少しだけ気圧される。遥も公広と同じ気持ちのつもりだ。でも、決意の程が明らかに違う。それだけで、彼がこれまでの『何もしない映研』という期間に何を想っていたか察することが出来る。

 何もしたくなかったわけじゃないのだ。動き出す時をずっと、じっと待っていたんだ。

 そしてようやく動き出した。おそらく栄も景秋もこの時を待っていて、それぞれに準備をしてきたんだろう。


 ほんの少し、遥は疎外感を覚えてしまう。

 公広は犯人捜しくらいしか自分にはやれることがないと言った。でも、それだけでもやれることがある。しかし遥には――


「あ、あの……わたしは……知っててもいいんですか? それに近実先輩も……」


 自慢じゃないが、遥の口は軽い。それに近実ならうっかり漏らしてしまいそうだ。


「近実はむしろ燃えてくれてるみたいだからそれでいい。そう思って話した」

「……なんかあたしのこと軽く見てない?」


「俺が部室にいない時、部に何かあった時に対処できるよう、もう一人この件を知っているやつがいた方がいい。俺がいないことへのフォローも。……だから、遥。任せた」


「あ……、は、はい!」


 まるで遥の不安を見透かしたかのような指示。力強く頷いて、応える。


「俺たちの仕事は、作業してるみんなに心配をかけないよう、支障が出ないように、順調に進めるようにサポートすることだ。そのためにまずこの問題をどうにかする。こんなこと最初からなかったみたいに、みんなの知らないところで解決する」


 ――全部終わったら、笑い話にするために、と。


 そして最後に、公広はこう言った。


「栄と景秋ならまだいい。必要なら打ち明けて構わない。でも部長にだけは絶対に知られたらダメだ。ようやく軌道に乗り出した映研を、ちゃんとまとめられるのはあの人だけだから」




               ***




 ――どうしたのよ?


 何か言いかけて急に黙り込んでしまった遥を不審そうに眺め、実結が続きを促す。


「あー、えっと……」


 スケッチブックを覗き込んでいた景秋と栄も何かあったのではと心配そうな顔でこちらを見ている。実代も不安に遥の顔色を窺っていた。

 公広の言葉が蘇る。ようやく軌道に乗り出したんだ。だから、心配をかけてその動きを止めるわけにはいかない。

 何も出来ないかもしれないけど、せめて、滞りなくみんなが動けるように。


「あのですね、実は近実先輩……あ、美術部の助っ人なんですけど、その人に、うちに協力する条件を出されまして」


 本人は燃えてくれてるし協力はしてくれるのだが、それでもこれだけは譲れないという条件があった。

 そう難しいことではない。しかし今の遥たち映研にとっては少々面倒な問題でもある。

 それは。


「――同人誌の話作りを、手伝ってほしいそうなんです」



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