4 その名は『希望』-美術部攻略戦4-




 ――賽は投げられた。


 近実このみのぞみが『サクラノヒロイズム』の著者・希望のぞみだという事実が明らかになる。

 それははるたちのやりとりをさりげなく窺っていた美術部員たち全員に伝わり、その囁きは当然、近実の耳にも届く。


「サクラなんとかって?」


 知らない生徒もいるだろう。だけどそれでいい。


「知らないのかよ。最近有名な漫画。CMとかやってる」

「そうそう、くらねるが声やってるやつな」


 情報が伝わる。それが近実の羞恥を刺激する。


「わたしそれ知ってるよー。ていうか、あれ近実先輩が描いてたの?」

「言われてみれば絵柄似てるよね。近実っぽい」

「似てるとは思ってたけど俺、聞けなかったわ……。ほら、あれだし」

「あれだもんねぇ……」


 あれだった。


「あ、う……あう、」


 近実は赤面して「あうあう」と意味もなく口をぱくぱくさせている。投下された爆弾の影響を目の当たりにして視線は右往左往。そうしながらも、いやむしろそうなっているせいか、近実は背後から遥を抱きすくめるようにして口を塞ぐ。首を絞める。遥は鼻呼吸すらままならない。


 声は続く。


「ペクシブっていえばじゃあ、あれもやっぱ近実のアカウントなのかな?」

「たまにある学生のイラストってもしかして、あれ私たちモデルだったり?」

「いやお前あんなに可愛くないだろ」

「うっさいわ」

「俺、毎日『いいね』押してるよ」

「あ、わたしもー」


「身内のいいね!」


 それ一番恥ずかしいやつ!


 悶絶する近実。絞まる首。遠退きそうになる遥の意識。

 それにしても、思った以上に近実=希望という事実は知れ渡っていたらしい。そんなことを漠然と思いながら、遥はこの世にばいばいしそうになる。


「俺も遥の言葉に同意だ」


 公広きみひろが混乱状態にある近実に声をかける。その声で遥は我に返る。


「あの魅力的な絵、そしてネットから話題になって書籍化された集客力……その求心力が今の俺たち映研には必要なんだ」


 密着した近実の身体から香る仄かな汗のにおい。ひどく動揺しているようだ。体温も高い。遥の顔も熱くなる。赤くなる。死ぬ。


「きゅ、きゅきゅきゅ、求心力とか――ひょわぁっ!」


 近実がいつまでも手を放してくれないものだから、遥はなんとか口を動かして舌を伸ばし、その手の平を舐めてやった。奇声を発して近実が仰け反る。

 最初は噛み付こうとしたのだ。しかしそうしようにもうまくいかず、これだって舌を噛み切りかねない危険な賭けだった。だがそうしなければ窒息していた。


「はぁ、はぁ……」

「なに呼吸荒くしてんのよ! 変態!」

「息できなかったんですよ! 殺す気ですか!」


 ぜえぜえはあはあやっている遥と近実の間でばちばち弾ける火花のような何か。熱の上がる二人に、公広のあくまで冷静な声。


「〝サクラノ〟が実際に売れてることがその証明だと俺は思ってる」

「は、はあッ!? え、いや……それは話がたまたま良くて、それが偶然受けて売れただけで、別に絵の力じゃ……宝くじが当たったようなもので!」


 遥に対するようなテンションで噛み付き、ふと我に返って反論する近実。

 その時、進条しんじょうが重い口を開いた。


「確かにな。俺もお前の本を読んだが……、」

「部長も知ってるのッ?」


 近実が上ずった声で叫ぶ。これまでにない動揺っぷりだ。


「か、勘違いしないでよね!? あ、あああのペンネームは別に、部長のこと意識してるとかそういうやつじゃないんだから! た、たまたま、ていうかあたしがその字ほしかった!」


 もはや何を言ってるのかもよく分からないが、ツンデレっぽい出だしのせいで、むしろ余計な誤解を招く発言だった

 しかし進条は意に介さず、やはり冷静な態度で、


「発売されて少し経った頃だったか。織田おだからお前の絵じゃないかと紹介された」

「ひぃっ――!」


 ぎょっとして公広に顔を向ける。


「前々から近実のことは知っていたし、目をつけていたんだよ。そしたら……新刊は毎月チェックしてるんだけど、その中で偶然君の絵に似た表紙を見つけた。それで進条さんに確認をとったんだ。実はそれまで〝サクラノ〟については知らなかったんだけど、今はちゃんとネットでの連載も追ってる。映研の件とは関係なく、面白いからな。それに、ブログの方も……、」


「ぎゃぁああああああ!」


 近実が絶叫した。顔を真っ赤にして、耳を塞いで。


 その気持ちは遥にも分からなくはない。ブログといえば日記も同然。しかしそれはネットに上げられ、匿名性で守られたもの。見ている相手は顔も知らない他人だし、書いてる自分のことも誰にも知られないから。

 だがその匿名性は今この瞬間やぶられ、近実臨が『サクラノヒロイズム』の作者・希望だと明らかになった。彼女の所属する美術部の全員が知るところとなり、近実もそれをはっきりと認識した。

 近実の頭の中では今、いろいろな想像が膨らんでいるに違いない。きっと帰ったらみんな彼女のブログをチェックするだろう。もしかすると〝サクラノ〟を買って帰るかもしれない。読むかもしれない。ブログにコメントすら……!


 遥もそれには同情できるし、というか自分が招いた事態だから罪悪感もあるのだけど、それ以上に――近実の反応が面白い。

 いやほんと、自分が同じ目に遭ったら嫌だなと本気で思うのだが、自分だったらここまで騒いだりせず小さくなって消えてしまいたくなるところで。

 思わず吹き出してしまった。


「なに笑ってんのよあんたぁッ!」


 近実の怒りの矛先が向く。錯乱していて、なんでもいいから何かに感情をぶつけたいところだったのだろう。


「元はといえばあんたのせいで……! このチビ……っ」


 涙目で睨まれる。チビ呼ばわりされるいわれはないが、ここは自分が受け止めなければならない。事態を収拾させるのが今の遥の役割だ。

 そして、本当に意図していた訳ではなかったものの、遥が言いたい言葉をしっかりと伝えられる状況が出来上がっていた。


「そんなに恥ずかしいものですか?」

「は、はあ……?」

「まあ描いてるのはラブコメだし……言ってしまえば、自分がこうだったらいいなっていう妄想を描いてるわけですし。これまでは実名じゃないから、匿名性に守られてるから恥ずかしさはなかったんでしょうね」

「う、うう……!」


 あえて指摘することで、その羞恥の輪郭をあぶりだす。

 しかし今の近実は恥ずかしいと認めることすら出来ず、内に抱えた燃えたぎる感情に焼かれて悶える。

 まるで拷問だった。


 その時、


「ごほん」


 と、咳払いする音。思わずみんなの視線がその人物……進条樹希いつきに向く。そういえば彼はさっき何かを言いかけていた。


「……単行本も読んだし、ネットの方も見たが……あの作画はネットでの連載だからこそ出来るものだ。いや、ネットだからこそごまかせるものだ。単行本になり紙に印刷されると、お前が背景を描けないことが如実に表れる。恥ずかしいのも当然だな」


「う……」


 どうやら図星らしい。


「確かに……、」


 遥は自分のスマートフォンを取り出して昨日ブックマークしていたページを開きながら、進条の言葉を補足するように告げる。


「ネットじゃあまり気にならないけど、実際に本として印刷されたものを見ると、背景はほとんど白紙で風景や建物も描写されていないから、なんだかすかすかな印象を受けるとか。ネットの批評でも単行本としてなんだか物足りない感がある、と」


「ネットの感想とか読まないでよ見ないようにしてるんだから!」


 近実が叫んだ。


「そ、そのぶん描き下ろしは充実させてるし、はっ背景だって! そっちじゃちゃんと描いてるんだから!」

「描き慣れていないことが如実に表れていたな」


 進条が突っ込む。


「で、でもぉ……!」

「でも、背景描けないことをうまくごまかせるキャラの見せ方は結構評価されてますよね」

「うぐぐ……っ」


 うろたえる近実。先に言おうとしていたことをとられたのもあるだろうが、結局それも背景が描けないと認めていることにされてしまったからだ。


「だけど、わたしは好きですよ?」


 遥の言葉に、涙目の近実がすがるような視線を向ける。


「背景でなくても、一枚のイラストとしてきれいだって思いますし。むしろネットっていう媒体をうまく活かして、自分の欠点を補えるだけの技術があるんですから。そもそも単行本化されることは考えてなかったみたいですし、あれはあれで完成してるんじゃないかと。だから、恥ずかしがる必要なんてないとわたしは思います」

「な、何よもう……」


 これこそ、自分の評価を下げてべた褒めする、ということだ。さっきまでとはどこか違う感じに近実が赤くなっている。照れているのだ。

 そんな近実に、これまで状況の推移を見守っていた公広が語り掛ける。


「頼みたい仕事は、背景が描けなくても問題ない。得意なキャラと彩色のみやってくれれば」


 うまく話を運んでくれた。


「それに……外注の、背景の上手いスタッフの手を借りることも出来る。手伝ってくれれば必然的にその人の技術を盗むチャンスもある」


 さすが公広だと思った。なぜだか弱気な近実に自信をもってもらおう、協力してもらおうとした遥だったが、公広はさらに協力するメリットまで提示してみせた。

 近実がいま必要だと自覚している、背景を描く技術。たぶんそれは進条に教えを請えば学べるだろうが、先ほどのやりとりを見るに、プライドの高い近実にはどうやらそれが難しい。見て学ぶ、それこそ技術を盗むということも、相手が進条だとプライドが許さないのだろう。だから匿名で外注の『背景の上手いスタッフ』という存在は近実にとって都合がいいのだ。

 そして、それを承知しているのか、進条が言葉を重ねる。


「前々から言おうと思っていたんだが、近実」

「な、何よ……? どうせまた――」


「お前は破門だ」


「は、破門……?」


 きょとんとする近実。どうやら言葉の意味が分かっていないようだ。遥にも分からない。たぶんこの場のみんな分かってない。


「な、なんで? いやその前に、あたし弟子になったつもりないし!」

「部にとって、お前の存在は問題だ。一人だけ他と違うことを――勝手をしている。ロクに背景も描けないくせにな」

「う……」

「それでは新入部員、一年に示しがつかない。部の統率が乱れる。頭の弱いお前でも分かるだろう。下手クソな先輩が勝手をやってるんだ。自分たちだってそうしてもいいと一年が勘違いするかもしれない。それは問題だ」

「え、いや、でもほら、一年たちみんないい子じゃないの……」

「今はな。今は。だが直にみんな気付くだろう。こいつ下手クソなのに、とな」

「さっきから下手クソ、下手クソって……っ」


 今度は怒りで顔を真っ赤にし、近実は握った拳を震わせる。

 そして、


「こ、この――、」


「近実先輩!」「近実!」


 美術部員一同が声を上げた。近実がびくりと肩を揺らす。見れば、みんなして口の前でバツ印をつくって必死に首を横に振っている。どうやらこの部でそれは禁句らしい。


「な、何よ……」


 近実はそんな一同に気圧されたのか委縮しながら、なんだかとてもいたたまれない様子で、


「別に背景なんかなくたって……。むしろない方があたしの表現には合ってるし! 必要は発明の母とかなんとか言うし、むしろ背景がないからこそ評価されて……!」

「針のむしろですね」

「うっさいわ! 元はといえばあんたのせいでしょうが! ていうかあんたも言ってたじゃない、背景なんかなくてもあたしの絵は良いって、」


「お前には向上心というものがないのか」


 進条が厳しい声音で告げる。


「恥を忍んででも技術を学ぼうとは思わないのか」


 近実の様子を見るに、それはとてもじゃないが難しいだろう。そうしなければいけないようなきっかけでもない限り、踏み出せない。

 だから、きっかえを与えるのだ。

 進条もまた、近実の絵を評価している一人だから。


「背景がちゃんと描ければ、お前の漫画はさらに良くなる。俺はそう確信している。だがお前はそうしようとしない。一度成功したからと、評価されたからと、一つのやり方のみにこだわるのは惰性と同じだ。今のやり方だけじゃなく、もっと違う手段で表現しよう、自分の作品をより良くしようとは思わないのか」


 口調はあくまで静かだが、そこには強い意志が宿っている。


「お前はそれが出来るはずだろう。お前にはその技術がある。それを背景にも活かせるはずなのに、それをしない。背景を軽んじているからだ。その怠惰で生意気な根性を叩き直すためにも……お前は破門だ。荷物をまとめて、今すぐこの部屋から出ていけ」


 シンと静まり返る美術室に、微かに近実の鼻をすする音が響いた。


 泣きそうだった。


 いくらなんでも言い過ぎなんじゃないか……とは遥も思う。思うが、これこそ進条の言っていた『善処する』という言葉の真意なのだろう。

 近実は美術部の人間じゃない。ということにするために必要な演出なのだ。そうすることで例の脅迫状の主を欺くのだ。美術部の人間じゃなければ、協力したって問題ないという理屈なのだろう。


「……こんな部活」


 近実が震える声で呟く。


「こんな部活あたしの方から辞めてやる! 今に見てなさいよ、すぐに超絶美麗なイラスト描いて、見限ったこと後悔させてやるんだから!」


 そう怒鳴って、近実は大股で美術室を出ていく。涙を堪えながら。

 これでよかったのだろうか。呆気にとられ、遥と公広が茫然としていると、


「早く来なさいよ!」


 おや? と、遥は首を傾げた。近実から急かされている。


「あとは任せた」


 そう呟く進条に頭を下げ、遥は公広と共に近実を追う。


「……それにしても、なんであの人はこんなにも部長さんに反抗的なんでしょう?」

「さあ? うちの部長とまんげつ会長みたいなものかもな。犬猿の仲なんだろ」


 ただ……、と公広は続ける。


「進条先輩には、敢えて高圧的に煽ることで、近実のやる気を燃やす目論見もあったのかもしれない」


 去り際に吐かれた、負け惜しみのような台詞。

 でもそれは、近実がまだ諦めていないということを何よりも表していた。


 そんな彼女を「カッコいい」と、遥は思ったのだ。



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