第三章 物語《かべ》をこえて
1 その名は『希望』-美術部攻略戦1-
「なんですか? これ」
「漫画だ」
「漫画だなー」
「いや見れば分かるでしょ。そうじゃないわよ。なんで突然同じ本を私たちに渡すわけ? ていうか四冊も同じの買ったの? ……特典?」
それは映像制作の企画会議を終えた、帰り道のことだった。
「あ、そうか、どうせ同じの買うんなら通販でも使って特典集めればよかったか」
「それから、明日までにその作者宛てのファンレターとか書いてきてもらえると」
「嫌よ」
「じゃあせめて、読んだ感想とか」
「というか何? これ。知らない作者なんだけど……」
そこで遥も受け取った漫画を確認する。
薄いピンク色の表紙に、透明感のあるタッチで桜の舞う中で向き合う少女と少年が描かれている。タイトルは『サクラノヒロイズム』。作者は『希望』。匿名希望ということだろうか。
帯のキャッチコピーから察するに恋愛もので、どうやらネットで連載していたものが単行本化したらしい。
「とりあえず、読んでみてほしい」
公広がわざわざ全員分用意するくらいだ。何か、今の映研にとって意味のある内容なのだろう。
その時の遥は、まだそれくらいにしか思っていなかった。
まさかその漫画が、〝あの日〟の真実――そして、これから起こる〝ある事件〟の真相へ繋がっているなんて知る由もなかったのだ。
***
美術部の活動場所――校舎三階、美術室に辿り着く。
廊下は静かで、美術室からひと気は感じられない。中を覗くと数人の人影が窺えるのだが、本当に活動しているのか不安になるほど話し声などが一切聞こえなかった。
美術室の壁にはいくつかの絵が飾られており、公広はその中の一枚の前で足を止めていた。遥もその横に移動して、壁の絵を観察する。
どうやら美術部員の賞をとった作品が展示されているようで、公広が観ているのはその中でも特別際立って異様な作品――の、隣。
それは、どこかの無人駅のような場所を描いた風景画だった。
現実に在って、なさそうな景色。それはたぶん写真に撮れば、見知らぬ、ただの色褪せたような場所に写るだろう。
しかし、この絵は違う。まるで純粋な心を持った誰かの目を通して観るように
とても想像力をかき立てられる一枚だけれど、ただ――
その絵がとても
目を奪われる。
鮮やかというよりビビッドな色づかい、それでいて儚げな透明感も演出した、女の子を前面に押し出したキャッチーさ。
他が美術部らしい風景画や抽象画であるからこそ、筆ではなくパソコンで描かれ、タッチが決定的に異なるその一枚はとても際立っていた。
きれいよりも「可愛い」が一番に浮かぶ感想。これは絵を見せるというより、キャラクターを魅せるイラストだ。
そう、イラスト。イラストと表現するしかない一枚なのである。
明らかな場違い、ジャンル違い、カテゴリーエラー。しかしこの場に飾られているということは、この作品もまた美術部員のものなのだろう。見れば、どこかの会社のイメージイラストのコンテストで佳作をもらっている。
(名前は……
と、その時だった。
「遥はどう思う、これ」
公広に問われ、遥は慌てて最初の風景画に目を戻し、感想を考える。公広が聞きたいのはこちらの絵の感想だろう。その前に立っているのだから。
「えーっと……なんか、すごく良いです。はい」
「そっか」
それはともすれば、素っ気ない応えだった。しかしふと見上げれば、公広の口元には満足げな笑みが浮かんでいる。その不思議な表情を、つい見つめてしまう。
「……よし。じゃあ、行くか」
促され、遥は頷き返す。今更ながら緊張を覚えたのは、公広の顔にも微かな緊張の色を見たからだ。
「……
珍しく何か呟きながら、美術室の扉へ向かう。公広がノックすると、わずかな沈黙があった。それから「どうぞ」という返事。
扉を開く。
「…………」
一瞬、ちらりとこちらに視線を向けただけだった。
美術部員たちはいくつかのグループに分かれ、モデルとなる彫像や花瓶に向き合って皆一様に、一心にキャンバスに絵を描いている。静かなのも当然だ。お喋りするものもおらず、せいぜいが道具を手にする際の物音くらい。
遥と公広が部室に入ると一瞬手を止め視線を向け、近くの席のものとひそひそと言葉を交わしたが、本当にそれだけだった。演劇部とは違う。すぐにそれぞれ自分の絵に向き直る。
(よ、よく訓練されてるというか……)
それも、この部を取り仕切る部長……今回協力を頼みにきた相手の影響力なのだろうか。
ただ、そんな部員たちの中にあって、明らかな違和感があることに遥は気付いた。
部員たちはいくつかのグループに分かれている訳だが、教室中央付近に集まる彼らの輪から外れているものが二人ばかりいるのである。
教室の端と端、他の部員と違って来訪者の存在などまったく気にも留めていないかのように集中している二人。
うちの一人は窓際でキャンパスに向かっている、大柄な男子生徒。なんというか、雰囲気がある。描いているのはどうやら窓から望める街の景色か。
そしてもう一人、こちらが遥の感じた最大の違和感。
美術部員はみんなキャンバスやスケッチブックに向かって絵を描いているのだが、その少女はなぜかノートパソコンを前にし、漫画やイラストを描く際に使われるペンタブレットという機材に何かを描き込んでいる。
時折顔を上げるが、それは集中が途切れたというより何か別の目的があってのようだった。その際、彼女が赤い眼鏡をかけていると分かった。今の遥とお揃いだが、不覚にもあちらの方が似合っている。
恐らく、彼女がそうなのだろう。遥は直感した。
公広もそちらを気にする素振りを見せつつ、窓際にいる男子生徒の方へ向かう。美術部の雰囲気に気圧されつつ、遥も足音を立てないよう抜き足差し足で後に続く。
「
公広が呼びかけるが、彼――進条
横に公広がいても、その後ろで遥がこそこそしていても、まるで構わない、まるで意識していないかのよう。
一心不乱というわけではない。ただ静かに、丁寧に、描いているのは窓の外に望む街の景色。写真には風景を切り取るという表現があるが、彼の場合、風景をそのままに、いや、より色鮮やかに描き出している。遥には遠くにぼやけて見える雑然とした景色も、彼の手にかかれば望遠レンズを通したかのように目の前に写し出される。
脂肪がのった大きな手でそんな繊細な芸当が出来るとは、さすが美術部の部長だ、と遥は感心する。
一方、その作業が終わるまで声をかけないつもりなのか、公広は黙っている。見てる分にはすごいなぁと感心するのだが、遥はすぐ手持ち無沙汰になった。
だからか。
進条ほどの集中力はないらしい他の美術部員がちらちらと自分たちに向ける視線を感じる。なんだか落ち着かない。
と、
「――そこに立っていられると、気が散るんだが?」
その印象通り静かで落ち着いた、しかし思った以上に低い美声だった。
「散る気があったんですね」
「俺も機械じゃないからな」
進条樹希が振り返る。
「あ」
痩せたらさぞ美形だろうなぁ、と思わせる、脂肪がのった顔立ちだった。彫刻のように彫りが深い。鋭い眼光が遥に向けられる。
「なんだ」
「あ、いえ、別になんでも……」
委縮する。
(恐っ……! ごめんなさい先輩、今回わたし役に立てそうにありません!)
怪訝そうな顔をする進条だったが、すぐに視線を公広に戻す。内心ほっとする遥である。
「それで、
てっきり、進条は遥たちの用件を訊ねようとしているのだと思った。
「映像制作の手伝い、か」
公広が用件を口にする前に言い当てる。
しかしそのニュアンスは、何か違っていた。
それはまるで、事前にそのことを知っていたかのような――
(きみ先輩が前もって伝えてたのかな……?)
――知っていて、嘆息するかのような。
以前も手伝ったらしいから推測できたのかもしれないと思ったが、どうも進条の口調からは別の要因を窺わせ、そして遥のその推測を裏付けるように、進条は脇に置いてあった白い封筒を公広に手渡した。
「まさか……、」
呟き、公広はそれを受け取って中の手紙に目を通す。
なんだろうと、手持ち無沙汰な遥は手紙を読む公広の横顔を眺めていたのだが……文字を追う視線は鋭く、表情が険しい。何かと思って遥が覗き込もうとすると、公広はまるで見せまいとするように手紙を畳んでしまう。
それから、少し迷う素振りを見せて、
「遥」
「……な、なんですか?」
公広は遥を見つめると自身の口元に人差し指を当て、それからその手で口を覆って見せる。どうやら他言するな、声を出すな、ということらしい。
頷いて、手紙を受け取った遥は読む前に自分の口を塞ぐ準備をし、そして。
「!」
塞ぐ。思わず声を上げてしまう内容だった。
進条が低い声で言う。それはまるで、密談でもするように。……当然だ。
「今日、うちの部員が見つけたものだ」
手紙の内容はいたってシンプルだ。
『映研の映像制作に協力するな』
その一文のみ。だが、協力すれば美術部に悪影響があるだろうことは想像に難くない。むしろ言外にそう語っているようなシンプルさである。
――いわゆる、脅迫状。
美術部員たちのこちらを窺う視線も、ただの興味からではなかったのか。
まさかの事態である。期待していた、映研の未来を左右する助っ人が頼りに出来ないなんて。しかしことがことであるだけに無理強いさせる訳にもいかない。
「そういう次第だ。……俺はこれでも部長だからな。部をあずかるものとして、万が一にも部員を危険にさらす訳にはいかない」
そう告げると、進条は顔を背けてキャンバスに向かう。
「…………」
遥は公広の横顔を見上げる。その表情は、硬く――諦めにも似た。
その押し殺そうとする何かを、遥は察した。
もしかすると公広は、この事態を予測できていたのかもしれない。そうでなくとも進条とは学校外でも付き合いがあるようだから、彼の人となりは良く知っているだろう。彼が責任感が強く、万が一の事態を軽視しない人間だと、知っているからこそ押し黙る。
諦めるしかない。
(でも……)
だから、公広は遥を連れてきたのではないか。
自分ではどうしようもない壁にぶつかった時、それを突破してくれるきっかけを求めて。
進条から「それでも」を引き出せるような何かを。
(わたしは……)
映研のためとはいえ、ここで無理を通そうとしてよいものか、遥は悩む。
万が一とはいえ、美術部を危険にさらす恐れがあるのだ。
責任とか、そういうことを気にしてるわけじゃない。
自分の気持ちを押し通すことに、ほんの少しの恐怖を覚えるのだ。
実代に自分の中のヒロイン像を重ね、願った。それも十分に他人を巻き込む身勝手な望みだけど、あの時とはまた状況が違う。
脅迫状の主の、その誰かの向ける悪意に――どう立ち向かえばいいのか。
立ち向かえるか、分からないから。
公広を見上げる。
彼が動けないなら――俯いてしまうなら、もう。
「――だから、な」
その時だった。
「表立った協力はできないぞ」
「表、立った……、」
進条の言葉を反芻した公広が、その顔をはっと上げる。
背後から歓声が上がった。
「さすが部長!」
「イケメン!」
「信じてた!」
「お前らうるさい」
まだ、希望は潰えていない。
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