9 未熟な感情、特別な女の子(2)




 声をかけられないまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。


 中庭の端、柔らかい陽射しの降るその場所で、はるはただ立ち尽くす。

 不意に、甘い風が流れてきた。懐かしいこの香りはきっとあの髪の匂い。


「…………」


 風につられるようにゆうの視線がこちらに向いた。しかし顔を向けてはくれず、遥の目には見えない何かを捉えたのか、悠は頭上の枝葉を見上げたままだ。

 それでも一応、一瞬でも、その視界に入ることは出来たはずだ。

 遥はそう信じて、


「え、えっと……」


 とりあえず、まずは挨拶から。


「こんにちは……緋河ひかわさん」

「…………」


 まあ当然というか、返事はない。予想は出来たのだけど、やっぱりそういう反応をされると心が折れそうになる。覚悟は決めてきたつもりなのだが、それでも。

 しかし、それでも――勇気を振り絞って。


「じ、実はですね、あのあと……緋河さんが出ていってからいろいろあって――」


 聞いていないかもしれない。だけど、それでも、だ。

 廃部を言い渡されたこと、それを回避するためには学校を紹介するPVを作り、なおかつそれが評価されなければならないこと。

 なんとか必要なことを伝え、届いているかは不明だけども、遥は一息ついた。

 すると、


「……だから?」


 と、相変わらずこちらを向いてはくれなかったが、悠から反応があった。返事をくれた。


「あの、あのね、それでこれからいろいろ始めてくんだけど、その……人手が、足りなくて」

「――どうせ」


 悠は独り言のように呟く。


織田おだ先輩に、言われてきたんでしょう」

「そ、そうだけど……」


 言葉の端々に、トゲを感じた。

 なら答えは聞かなくても分かるでしょうとでも言うかのような、遥を突き放すような口調だった。

 しかし、ようやくちゃんと口をきいてもらえた……かはともかく、言葉を交わすことが出来たのだ。遥は話を続ける。


「今日も放課後にみんなで演劇部とか美術部に行って、協力してくれる人を探すの。なんとかPV作って、廃部を撤回するために。そのために、みんないろいろ準備してて、まだ脚本とかは出来てないけど、それでもだいたいのコンセプトはあって……」


 それで、出来れば、と。うまく言葉を続けられず、少しの間が生まれた。悠は黙ったまま、未だに頭上の枝葉を見つめている。そこに何があるのか、遥には分からないけれど。木漏れ日のコントラストに照らされる悠の姿はまるで映画のワンシーン、絵画の中の人物のようだ。

 遥は意を決して、今日ここに来た理由を告げる。


「出来れば、緋河さんにも戻ってきて……ほしいなぁ、なんて」


 どうにも強気に出られず、語尾は力のないものになってしまった。

 そんな自分に呆れるばかりで、浮かぶ表情も愛想笑いと苦笑の混じった……たぶん彼女の嫌う顔。

 遥の言葉を待っていたわけではないだろうが、それまで何も言わないでくれた悠はようやく視線を遥に向け、言った。


「――なんで?」


 素っ気ない言葉。本当になんでって感じで。むしろこっちがなんでって感じの。


「なんで、って……」


 どうして自分に戻ってきてほしいなどと言うのか、遥の想いがまるで伝わっていないような顔だった。遥にとっての当たり前が、彼女にとってはまるで心外であるかのように。


「なんでって、それは……ゆう、」


 言いかけて、呑み込む。一瞬、悠の目に鋭さが宿ったように感じたのだ。思い過ごしかもしれないが、何も口にできなくなった。喉の渇きを感じながら、震える息と一緒に吐き出す。


「……緋河さんは、映研の部員だから。ま、まだ退部届だしてない……よね」

「出してないけど」

「それに……出ていった理由。もうなんの活動もしてない映研じゃ、ないから。今なら……」


 無視ではなく、今度は悠の方に沈黙があった。息を呑んで待っていると、


「校則、生徒はなるべくなんらかの部に所属すること」

「え……?」


 そういえばそんな拘束……校則があったような。


「だから、映研に籍は置いておく。抜けていった子たちも何人かそうしてるし、一年生だけじゃなく去年のうちに辞めた二年生もそうして幽霊部員をやってる」


 つまり、映研に入ったのはそもそも校則に従うためで、別に映研がようやくやる気を出したとしても戻る理由にはならない……と?


 じゃあ、あの日、部室で吐露した想いはなんだったのか。

 カッと、何かに駆られて遥は声を上げていた。


「じゃ、じゃあどうして映研に入ろうと思ったのっ。そんな理由なら、大好きな写真をやってる……写真部的なものに入れば……!」

「そういう部、なかったから」


 一言で切り捨てられる。


「一番近そうな映研に入っただけ。その活動に写真も含まれていると聞いたから。それが……、」


 あんなざまだったと、言葉にはしなかったがそう続きそうな口調だった。


 悠もきっと同じ気持ちで映研に入ったのだろうなんて、勘違い。その恥ずかしさで顔が熱くなって――映研を馬鹿にされたようで、怒りのようなものがこみ上げる。


「わたしもよくは知らないけど、でも映研にも、先輩たちにもいろいろ事情があって……、」


 なんの理由もなく無為に日々を過ごしていたわけじゃないはずだ。公広きみひろたちもさまざまな想いを抱いて、活動したい気持ちを堪えていたに違いないはずで……。


「そんなもの私には関係ない」


 それは……もっともな、正論である。


「何かがあったとしても、それは何もしない理由にはならないわ」


 悠の言葉は厳しく、容赦がない。遥自身のことではないはずなのに、遥の胸を抉るようにこちらを見つめている。


 言っていることは確かにもっともだ。でもだからといってそれを素直に認めることが遥には出来ない。

 だって、どうしても動けなくなる時が人にはあるものだ。少なくとも遥はそう思っている。これまで何も考えず、たとえば情熱だけで進んできたからこそ、一度迷ってしまうとつい足が止まってしまう。

 それがいわゆる『挫折』というものだと思う。

 遥はある種の挫折に似た感情を知っている。だから映研のことも擁護したくなる。

 だけど、恐らく悠はそれを知らない。


「今なら、先輩たちに構わず自分から何かをすべきだったと思う。先輩だからってあの人たちを立てて、私まで何もしない理由はなかった。私が何をしようと、止める権利はあの人たちにはないはずだもの」


 まるで他人の痛みなんて知らない、気にしないといった口調。だからこそ彼女は確立している。確固たる個でいられる。

 それが遥が悠に感じる『特別』であり、しかし今はとにかくそれが切なかった。

 個は――孤独ということでもあるのだから。


「でもそうするなら、映研に残る必要も、あそこにこだわる必要もないと判断した。だから私は戻らない。以上」


 これで話は終わりとでもいうように、彼女は視線を切った。


「い、以上って……いや、終わってほしくないんだけど……」


 なおも遥が食い下がろうとすると、悠は不意に片手を上げた。一瞬ぶたれるのではないかと思って身が竦むも、お互いの立ち位置は今の心の距離を表すように離れている。

 上げられた手には携帯、カメラのレンズが遥を睨んでいる。その目はこちらを向いているのに、悠の視線は遥を捉えていない。レンズ越しに見える何かが彼女に瞳には浮かんでいた。


 カメラの『目』にさえ遥の身は竦む。威圧感のようなものを覚えてしまう。

 まるで被写体である自分の心の形を切りとるような、自分自身では確認できない面に浮かんだ心の内を直接映し出されるから、遥はどうにもカメラに苦手意識がある。

 自分の顔なら鏡で確認できる。だけどその時々、一瞬一瞬に表れる感情の形、表情は、やはり他人の目からでしか知りえることが出来ない。

 それを切り撮り保存するのが『写真』。笑顔も泣き顔も、人には見られたくない怒りや憎悪も、思い浮かべた一瞬の感情を、写真は永遠に残してしまうから。

 いつかの自分の輝きも暗闇も、思い出してしまうから。


 ――撮られる。


 なんとなくそれが分かって、遥は思わず目を閉じた。まるで銃で撃たれるかのような緊張。覚悟した瞬間、案の定シャッター音。


 恐る恐る瞼を開いた時、銃弾が頬を掠めたかのようなひやりとした感触を覚える。

 カメラのピントは、射線は、遥から逸れていた。

 今の遥には撮る価値もないと言外に告げるかのように。


(失せろ……て、ことなのかな)


 そんな意思表示なのではという考えが頭をよぎったが、意外にも悠の方から口を開いた。


「……はあ」


 嘆息。その目は、まるで言うことをきかない子供を見るようで――だけど遥からは逸らされていて。


「仮に映研に戻ったとしても、私にはやることがない」


 遥はふと湧き上がった羞恥心にうろたえながら、そんなことはない――そう言おうとした声が詰まる。続いた悠の言葉はそのもの遥にも当てはまったからだ。


「人手不足というけど、手伝ってくれるなら誰でもいいわけじゃないでしょう。映像制作に関して必要となる技術や能力を持った人が求められている。その点、私は映像に関してまったくの素人。写真これだって、専門的な知識や技術があるわけじゃない。言うならば、ただの趣味」


 そう言って携帯を収める。


「趣味って……」


 は、悠にとって情熱を傾けるに足る価値のある、そういう特別なものじゃなかったのか。


「今の私は、いてもいなくても意味がない」


 彼女が分からなくなる。そんな不安に襲われ、遥は必死に声を絞り出した。


「それでも何か、やれることはあるはずだからっ。だから、いてくれた方が――」

「あるの?」


 言葉が出ない。


 公広なら、そういうノウハウのある先輩たちなら何かしら言い返すことも出来たはずだ。彼女が必要だと、はっきり言えるだけの根拠を……遥は持っていない。


 情熱や勢いだけでは進めない、壁。

 遥には映像制作に関して専門的な知識もなければ技術もない。ただちょっと思いついただけの企画が通った、いわば運が良かっただけのド素人。ビギナーズラックとはまさにこのことという初心者で。

 だからそんな遥にはこれ以上、悠を引き留めることは出来なかった。

 何より遥自身、このさき自分が映研において必要なのか、役に立つことが出来るのかすら分かっていないんだから。


 少しの沈黙があった。


「……ないなら、もう構わないで」


 どこか失望の滲む声。胸を掴まれる。圧迫感で、息苦しい。

 立ち尽くす遥を置き去りに、悠は校舎に戻っていった。



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