2 その苛立ち




 部室に入ると、珍しく酷薄な笑みに出迎えられた。


「面白いものを見せてもらったぞ」


 映研には悠の他に、常日頃から仏頂面な男子生徒がいる。

 公広きみひろと同じ二年生の彼の名は児立こだち景秋かげあき。短い黒髪に黒縁眼鏡、すらりとした体格から文学少年あるいは堅物委員長という印象を受ける。実際はといえば文学よりも漫画を好むし、委員長ではあるものの割とはっちゃけている。

 現に今も、はるを見て薄ら笑いを浮かべていた。


「~~~っ!」


 辱めを受けた気分だった。ネコミミでも投げつけてやろうかと一瞬よぎるが、


「あんたのせいでしょ」


 と、部長が景秋の頭をはたく。眼鏡がズレる。遥は密かに「ざまあ」と悪い笑みを浮かべた。

 公広だけが「?」と首を傾げていたが、誰もそれには構わない。


 一般教室の半分ほどの広さしかない映研の部室は雑然としている。中央には机が寄せ集められ、その上には部員各々の私物が置かれており、景秋の横を抜けて窓際の席に座った実結みゆが自分の鞄をそこに載せる。

 壁際の棚には撮影機材やら専門書やらが詰め込まれているが、遥は入部してこのかたそれらがまともに使われているところを見たことがない。

 なぜなら、映研の日々の活動はといえば――


「そういえば、昨夜の『オラトリオ』だが……神回という言葉はあまり好きじゃないが、あれは素直にそう思える回だったな」


 と、誰からともなく――今日だと景秋から、一見すると映研とは関係のない話題が振られ、


甘郷かんざと千里せんりがいつも以上に可愛かった」

「あんたそればっかりじゃないの」


 公広や実結がそれに続き、映研の活動とは関係のない会話が始まる。

 それぞれいつもの席に着いて、好き勝手しながら下校時間までお喋りするのが通例だ。遥や景秋は読書を、公広や実結は出された課題を片付けながら。


 ちなみにオラトリオとは『戦場のオラトリオ』という深夜アニメのことだ。アイドルデビューするはずがなぜか戦地に送り込まれ、戦場アイドルとして唄う羽目になった少女たちの物語である。甘郷千里はそのヒロインを務める、最近注目を集めている声優だ。

 アニメも映像作品ではあるので、その内容を話し合うのは映研の活動として一応間違ってないような気もするのだが――これでいいのだろうかと、遥はよく思う。

 とはいえ、遥もそのアニメは観ているので会話に加わるし、よく分からなくても話に耳を傾ける。


 一方、遥の対面に座るゆうだけはいつもその会話に参加せず、静かに自前のデジカメをいじっている。時折なぜかそのレンズを遥に向けることがあるが、シャッターを切るでもなく、レンズ越しに観察しているようだ。遥はいたたまれず笑顔を作ってみたりピースしてみるのだが、そうすると無言でカメラを下ろされる。

 一度も撮られたことがなく、正直何がしたいのかよく分からない。単に対面の席に座っているからなのか、それとも他に理由があるのか。

 ただ、悠は他の部員と違ってちゃんと活動しており、映研の仕事の一つである卒業アルバム用の写真撮影のため、しばしば公広と外回りに出ている。


「…………」


 しかし今日の悠はそうするでもなく、手にしたカメラにじっと視線を落とし、表情はどこか険しく感じられる。その普段と異なる様子が気になったが、遥は何も言えない。声をかけるにかけられない、そんな微妙な距離感の相手なのだ。


 何かを考え込んでいるのか、それとも撮影した写真に不満でもあるのか――


「そういえばあいつ遅いわね」


 先輩たちはそんな悠に気付かず、話題はこの場にいないもう一人の部員について移る。


「昨日は寝てないとか言ってたな……」

「またあいつは何をしてたんだ」

「どうせ下らないことでしょ」


 と、実結が切り捨てた時だった。


「っ」


 甲高い電子音が響く。びくっと肩を震わせた遥が隣を見れば、公広が携帯片手に席を立つところだった。


「噂をすれば、だ。ちょっと行ってくる」


 ほっときなさいよ、という実結の呆れ顔に苦笑を返し、公広は部室を出て行った。


「あいつはお人好しが過ぎるな……」

「まったくだわ」

「それがキミ先輩の良いところですよ」


 などとフォローしてみたら、その場の全員に妙な視線を向けられた。

 そうして部室に沈黙が満ちる。公広がいなくなると、どうにも会話が弾まない面々だけが取り残されてしまったからだ。

 入部したての頃はこの静寂に戸惑いそわそわしたものだが、やることを見つけた今の遥は苦にならない。公広に勧められた『ラブコメン』というライトノベルの世界に戻る。刺激を求め、友人たちにラブコメチックな学園生活を送らせようと奮闘する脇役系主人公の物語だ。ヒロインの愛子あいこがその名の通り愛らしく、同性の遥でもときめいてしまう。

 実結や景秋もそれぞれ自分のことに戻り、一定のリズムでページをめくるかすれた音や、ペンが机を叩く不規則な響き。賑やかなのも良いが、これはこれで心地好い、まるで揺り籠の中にいるような安心感――、


 不意に。


「…………」


 悠が席を立った。

 おのずと全員の視線が彼女に集まる。そうさせるような唐突さがあったのだ。しかし悠はすぐには口を開かず、机を睨むような硬い表情で、しばらくの沈黙を挟んでから、


「……いつまで、」


 か細い、今にも消えてしまいそうな声で。

 部活中でも滅多に口を開くことのない悠が、囁くように何かを告げる。


「……こうしてるつもりですか」


 静かな怒りをはらんだ声だった。

 その視線は机の上にあるカメラに落とされているが、彼女の言葉はこの場の全員に向けられていた。投げかけられた問いに、遥は息苦しいまでの沈黙を感じた。


「毎日、毎日……下らない、どうでもいい話ばかりして。映像研究部なんて名ばかりで、この二か月、何もそれらしい活動をしていない」


 もっともな意見だった。遥には言い返す言葉もなく、それはどうやらみんな同じで――


「……何なんですか、あなたたちは」


 口調こそ丁寧さを保っているが、その言葉から滲む怒りは隠せるものではなく。



「――気に喰わないなら辞めればいいじゃない、あんたも。他の連中みたいに」



 沈黙を破ったのは部長だった。

 どこか自嘲するような呆れ顔を浮かべ、実結は素っ気なく告げる。


「こういう部なのよ、うちは。だから他の一年も辞めてったんでしょ? だから部員もこれだけなんでしょ? 気付かなかった? 鈍感なの? あんたは何を期待してたのよ」


「……っ、」


 ハッと顔を上げた悠は何か言いたそうに口を開きかけるが、結局黙り込んで唇を噛んだ。

 俯いた彼女の、握った拳が震えている。


「悠ちゃ……、」


 遥には彼女の言いたい何かが分かるような気がした。だがそれが言葉としてまとまる前に、悠は自分を落ち着けるように深く息を吐いてから、カメラと鞄を持って部室を出ていく。


 遥は去っていく悠の姿を目で追うばかりで、止めることが出来なかった。

 止められなかった。

 自分にはその資格があるのか、と。

 彼女の気配が、足音が遠ざかる頃になって、遥はようやく椅子から腰を浮かす。


「ほっときなさいよ。別に、今に始まったことじゃないでしょ」

「そう、ですけど……」


 ……そうだ。

 これまで何人も辞めていった。去る者は追わずという部長の方針に従い、誰も追いかけたり引き留めることはなかった。新入部員である遥には分からない『何か』が、先輩たちには、この部にはあるのだ。それはこの二か月近く共に過ごしていてなんとなく察しがついていた。だから去るに任せ、気付けば一年生は遥と悠の二人だけ。


 だけど、でも――、でも?


(追いかけたとして、わたしに何が出来るんだろ……)


 行ってほしくない。そうは思うが、今の自分に彼女を引き留められるだけの何かがあるとは思えない。


 せめて、公広がいてくれたなら。

 彼ならあるいは、悠を連れ戻せるかもしれないのに。


「…………」


 無力さを覚えながら、遥はすとんと腰を下ろす。


「仕方ないわよ。別にあんたのせいじゃないわ。うちの空気とあの子が合わなかっただけなんだから」


 気まずい空気。堪えがたい沈黙。いたたまれなくて、それをどうにかしたくて……浮かんだのは、すっかり身についてしまった選択肢。


「……そう、ですね」


 曖昧に笑う。やりきれなくて、遥は閉じていた文庫本を手に取った。

 ……本を読もう。

 最近、彼に出逢って知った、こういう時に心を落ち着けるための方法。


(……現実逃避、ともいうけど)


 それでも、物語がつらい現実から心を救ってくれるのは確かなのだ。

 それはどんな薬よりも頼もしく、誰かの言葉より心強い。

 そして、また動き出すための希望をくれるから。




               ***




 三人だけになった部室にいつもと違う静寂が満ちる頃――


「……っ」


 廊下から聞こえてきた足音に、遥は思わず振り返った。

 皆が顔を上げる。勢いよく開くドア。



 爆発!



「……はあ?」


 爆発が起きていた。禍々しく、派手派手しい鮮やかな赤とオレンジ。



 一人の男の背後で燃える爆炎! けたたましい轟音が響く! ドカーンドカーン!



「…………」


 実結は課題を片付け始め、景秋は読書を再開した。

 遥はただただ固まっていた。


「なんかリアクションくれよ!?」


 爆炎(パネル)を背負った少年が叫んだ。


「うっさいわね。無視だって立派なリアクションよ。……というか、空気読みなさいよ」


 まったくである。悠が立ち去った直後にこれはない。遥もため息をついて読書に戻ろうとした。


さかえ、もういいか?」


 部室の入口を隠すパネルの向こうから、公広の声が聞こえてくる。遥は再び振り返る。


「あ、あぁ……」


 声に応えてうなだれるのは、野球部にでもいそうな容姿をした丸刈りの少年。二年生の一瀬ひとせ栄だ。彼もまた映研部員。「ひとせは人騒がせの略」と部長に言われるだけあって、毎日騒々しい映研のムードメーカーである。ただ、今はいらなかった。本当に。


「しかしよく出来てるな、これ。プリントか?」

「お前だけだよ織田、オレの芸術に興味を示してくれるのは……。リアルに見えるように徹夜で塗ったんだよ昨日。ていうかこんなデカいものに印刷する機材とか持ってねえ――んぎゃっ、」


 栄のうめきが上がる。パネルを背負ったまま部室に入ろうとして引っかかったようだ。


「俺も入れないんだけど」


 ドカーン。けたたましい爆発音はどうやら公広が鳴らしているらしい。こんなことのために栄は彼を呼び出したのかと思うと、遥は頭を抱えたい気分に陥る。

 あの時、公広がいてくれれば――



「あなたたち、邪魔よ」



 と、パネルの向こうから第三者の声が響く。



「……それと、今の騒音。迷惑行為で苦情出すよ」



 続いて聞こえた暗い声に、嫌そうな顔をした実結がため息を漏らす。


 部室に今度は不穏な空気が満ち始めた。



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