EP6 消化試合
「っていうか倒すって何だ?」その答えはすぐに分かる。「芸祭…?」つまり学園祭だ。
アパートを出る前からぶかぶかどんどん、騒音が轟いていたが、学校が完全にお祭り騒ぎになっていた。最近のゴタゴタで忘れていたが、そういえばそんな時期かと感慨深くなる。しかしこの世紀末ムードの中でよく開催したものだ。人間楽しむことには貪欲だなあ。
「逆だ。血風・達磨落としに実行委員が目をつけた」と桐森。「お葬式ムードを打ち破る祭りの目玉となるってな」「つまり芸祭の一演目として開催されると?」「一演目として決勝戦が行われるんだ」「いつ?」「今日」「誰が」「俺たち」「……」「そうじゃなきゃ雁首そろえてお祭り見物になんか来ねえだろ」
昨晩あゆむが戻ってきたのはてっぺんを過ぎた頃だった。そのまま乱痴気騒ぎに巻き込まれ、宴もたけなわ状態が続くこと数時間、気づけば硬い床の上で意識を失っていた。「おい朝だ」といやに元気な桐森に起こされ、寝不足気味の頭を抱えながら半強制的に登校させられる。元蛙貴族、元八年生会の連合軍は浮き足立った空気の中をリビングデッド状態で彷徨う。あわてんぼうのハッピーハロウィンである。
「おれ、っていうかここにいる皆、死に体なんすけど…大丈夫っすか?」
「若さでどうにかなる!」さてはこいつ、一人寝てやがったな。
「…蛙貴族は順調に決勝まで勝ち残ったわん」独自に調合したと思われる胃腸薬を皆に配りながらラリは言う。非常に助かる。「対戦相手は八年生会、の二次団体」
「いつの間に仕込んでおいたんですか? そしてよく残れましたね…」
「腐っても八年生会、そこいらの成り上がりに引けをとることはねえ!」
「どうかしらん? 残ったんじゃなくて、残った連中を強請って買収したんでしょ?」
「我々の入る余地を20席ほど増やしてもらっただけだ」
「ふん」
「そうだ! 元八年生会と元蛙貴族の連合軍、せっかくだから新しい名前をつけよう」
「も一度言いますけど皆グロッキーっす。あんたのそのテンションに付いていけない…」
「何だ、だらしがないぞ貴様ら! 我々は誇り高い紳士であろう」
「じゃあジェントルマンズとかで良いでしょ…」
「なるほど! では《紳士連合》と名付けよう」
「……」ちょっと格好良くされた。「まあいいや」
桐森が向かったのは構内の中央に位置する広場である。そこにいつぞやと同じように単菅で組まれた舞台が設置されていた。もちろん今回は正規の手順を踏んでいる。
「へいジョー」舞台には茶釜とDJブース。「待たせたな」
「おっせーなあ千一! でもちょっと待て。イベントってのは基本押すもんだ」
「待てねえ」
「…ったくお前ぐらいのわがままボーイ、オイラじゃねえと受け止め切れねえぜ!」
言っておもむろに手元の煎餅を回す。きゅるきゅるきゅるーと辺りに音が響き渡り、観客の注目を一身に集める。これ腹痛の時の音だとあゆむは思った。
『ゲエエエエエム・オブ・タアアアアッグウウウウウウ!』
「げーむ・おぶ・たっぐ?」
「鬼ごっこのこと」とラリ。
どうやら決勝戦は鬼ごっこらしい。
『おいおいだせえ和名はナンセンス! タッグだ! 鬼はイット! おぼえとけ! これからてめえらは歴史の証人になる。なんでもコイツら風雲児もといスクールオブキングを決めるために、日夜血で血を洗うバトルを行うクレイジーな不良学生どもだ! なんでそんなことするかって? オイラにもよくわかんねえ! この間もとばっちり食った連中を、片っ端から退学させちまったばかりだ。コイツら男は吊るして女は孕ますぜ。濡らしとけ! だども、これ以上荒らされるのは正直チョー迷惑ってわけで、オイラたち実行委員会がこの勝負預かった! で、今からスタアトするのが鬼ごっこ、じゃねえや、ゲームオブタック! しかしただのタッグだと思ったら大間違いだ。エンタメダッグだ!』
エンタメじゃないタッグとはなんだろう。リアル鬼ごっこか?
『鬼が一人なんてケチくせえことは言わねえ全員だ! 参加者全員が鬼だ! いいかもう一度言うぞ、参加者全員が鬼だ! デスマああッチ! 倒した敵の耳ぃ一番多く千切ってきたやつが風雲児になれるって、スィンプルなスンポーよっ! え? 野蛮? 由緒正しい戦国時代から続く習わしだろ! 燃えたぎる大和魂は失われて久しいのか!? おーけー…じゃあハチマキとかバッジとか用意すっからそれを奪え! 参加したいやつは勝手に付けろ! ただし怪我と命の保障はナッシンで…。そのへんはまじソーリー…。優勝者には金一封! その他にも様々な商品用意してるから皆振るって参加してくれよな! 血風・達磨落とし? トーナメント? 今までの戦いは何だったかって? だっせえこと言ってるとへそで茶あ沸かすぞ! 紹介が遅れたがオイラ名は《チャッガマン》だ! 分福茶釜の茂林寺から逃げ出した化け狸という設定だ! 自己申告制だ! スポンサーは牛のマークのエナジードリンク! 飲みすぎに注意しろ! いっぱい飲んだからと言って良い作品は作れないから重ねて注意しろ! 以上』
勢い任せで内容皆無、しかし衆人環視は疾風怒涛の言葉の波に飲み込まれる。
『さてここで今回のメイン、因縁の二組を紹介しよう! 歴戦の劣等集団、秘密結社の分際でお天道様を拝む太え連中だ! ウィナアアアアズ八・年・生・会! じゃなくなった、え…今なんて名前? うん、…うん。《紳士連合》おおおお!』
なんやかんや三十人弱の規模になった。ずらりと居並ぶとかなり威圧的である。全員酒気帯びであることも妙な貫禄を生む。『…酔拳の達人か?』と観衆から声が上がる。
『対するはルーザーズチャンプ! もう井の中の蛙なんて呼ばせない! ジェントオオオオル・フロオオオオッグ!』
「やあ。お久しブリーフ&トランクス」
…誰だ? それが彼らの総意である。眼鏡をかけたハンサムがぽつねんと立っていた。すらりと線の細い知的なビジネスマン風の男である。
「…貴様懐かしい姿になってんじゃねえよ。贅肉はどこで脱いだ」
「脱げちゃったというべきかな千一くん。ここ数ヶ月、普段は使わない頭と体をフル稼働させたからね。貴君は変わらないね。ギラギラした目は健在のようでひどく安心したよ」
「…芯嶋さん?」小太りの中年男は見事に見る影もない。上司にしたい男ナンバーワンである。
「他の皆もかれこれ何年も会っていないような気がする」それはあゆむも同意見だ。
しかしながら疑問の方が先立ち「…久しぶり?」ラリとロックの方を見た。「お二人も?」
「ああーん。そよーん」とラリ。
「あゆむくん隠していてごめん…」とロック。「僕らも蛙貴族をクビになってしまったんだ」
「え、そんな、え? 待ってくれ。つまり芯嶋さんは、放っておいても孤立した?」
自ら孤立の道を選んだ。二人が首を切られた理由はこの際問題ではない。それよりもあゆむと桐森の計画が、根底から覆るような嫌な予感がした。
「…怯むな、はったりだ」というものの桐森の表情は険しい。「アイツ一人で何ができる」
「その通りだよ。私の人望も地に落ちたね。まさか蛙貴族初期メンバー全員が敵に回るなんて」
「メンバーの補充と補填は禁止されていないはずだが?」
「その通りだね千一くん。学生の絶対数が減ってしまった現状、救済措置としてあえて決めなかったルールを逆手に取るなんて、こんな阿呆なこと考える奴がいるんだねえ。私以外に」
「……」
一人ぼっちの芯嶋。心もとないその姿は桐森の思惑通りだ。この状況のどこ疑えというのだ。
「今更だけどあゆむくんとソワ子くんには感謝しているんだ」
「…感謝?」
「どう間違えても蛙貴族は一回戦の第一試合で負けようがない。しかし君らが内紛を起こしてくれたおかげで、私はいの一番にルーザーズに潜り込むことができた。そして競争から転げ落ちた連中と、誰よりも早く多く接触する機会に恵まれた。ウィナーズで負け、ルーザーズでも負ける意味。希望が完全に潰えたということだ。当たり前か。そして万が一、同じことをやろうとしている組織が現れたとしても、私より遅い。致命的にね」
「貴様まさか!」桐森の目が大きく見開かれた。「…全て飲み込んだのか」
「そう緑色の紳士の胃袋は際限なく拡がる。蛙貴族は血風・達磨落としに敗北した有象無象を余すことなく仲間にした。交渉は予想通りスムーズだったよ。私が手を差し伸べると誰もが傅いて忠誠を誓う。だからさしずめ我々は《殿様蛙貴族》とでもいったところか」
…どっちだ。殿様か、貴族か。
「紹介しよう殿様蛙貴族のメンバーを!」
芯嶋渾身のエッグポーズ、ではない。彼が指す先は紳士連合の後方、まさかと思い振り返った。見物客と視線が交錯する。そういえばどこかで見た顔がちらほらと含まれていた。
「五貴族会議…」
《ままかりの友》《あかべこ倶楽部》《流言会》《刻み玉ねぎの会》《ベニマル》《栃の木》《いないいないばあ》…その他にもあの会議で見かけた歴戦の猛者共が団子状態になっている。
「連中が貴様の軍門に下ったというのか…」
「互恵関係と言って欲しいな。あくまで私が代表というだけで上も下もないのだから」
「芯嶋さん…殿様蛙貴族はどれぐらいの規模なんすか?」
「ここにいるだけで100強。でも現在進行形で増殖中だ。なんせ今日は素晴らしい勧誘日和、文化祭なのだから! 人材のゴールドラッシュ!」
「そんなの有りかよ…」
「あゆむくん、君らの敗因は驕りだよ。私から一人二人仲間を奪って安心してしまった。一方私は、仲間が何人増えようと恐ろしくて恐ろしくてたまらないのだ。だから油断はないよ」
百対三十。数が物言うこの勝負であまりにも不利だ。紳士連合の士気がだだ下がりである。
「てめえらまだ負けてねえだろ!」
学食の屋上からドスの効いた声が届く。そして「とうっ」とやおら飛び降りた。
「おやおや、どちらさまです?」
「酔拳の達人だ!」
「…大家さん」あゆむの下宿先の大家さんである。お供を引き連れて颯爽と現れた。
「おいでぶっちょ! いいかよく聞け! お前の驕りは自分は驕っていないと驕っていることだ! それが有能な独裁者の致命的欠点だ!」「まあご明察。しかしどうするんだい?」「私たちが加勢する! 昨晩の飲み代ぐらいは協力してやろうじゃん!」
二十人ほどのアパートの住人が紳士連合に加わった。「恩に着ろよ」
「速やかにお家賃をお払いいたします…」
「さっすが姐さんクールだぜ!」桐森はいつの間にか飼い慣らされていた。
悲喜交々のこの状況で、終始笑顔を絶やさずあゆむの腕に絡みつく男がいた。ガクだ。
「ねえあゆむ。諦めるには時期尚早だよ。奪ったバッジの数で勝敗が決するのであれば、無作為なバラまきは自殺行為だ。もちろん数的不利にはかわりないけど、向こうは最高でも紳士連合分しか得点を稼げない。それに対してこちらは稼ぎ放題だもん」
「…つまりおれたちは紳士連合の数+1点取れば確実に勝てるってわけか?」
「ご名答」
そう考えるとなんだか決して諦めるばかりが道理ではない気がしてくる。敗色濃厚であることは変わりないが、希望を捨てるほどではない。
「おい茶釜」
「チャッガマンだ覚えとけド低脳」
「いつになったら試合は始まるんだ?」
「わーお。居たぜ居たぜ。ここにもわがままボーイが! しかもさっきまでシナチクおちんちんだったのに今では立派な青竹になってやがる! おーけー待ってろ。わがままボーイはオイラの大好物っつてんだろがああ!」
茶釜は一度袖にはけると、キャスター付きの特大空気入れのようなものを持ってきた。ご丁寧にドクロマークがついている。危険なスイッチ然としたスイッチである。
「なんだそれは?」
「核だ!」叫ぶとぐっと押し込んだ。
直後ステージの裏から花火が上がり、天高く秋空に吸い込まれていった。
大音声が鼓膜を突き破る。戦いの火蓋は切って落とされた。
瞬間紳士連合に聴衆、もとい殿様蛙貴族が襲いかかってきた。いつの間にか包囲されている。「散れ! 散れ!」桐森が散開すべく声を張る。安易に散り散りになるのは得策とは言い難いが、このままでは一網打尽だ。ロックを超える超筋肉の持ち主がいなかったのは不幸中の幸いか、彼がこじ開けた穴からあゆむはどうにか逃げ出した。結果…
「一人になってしまった…」
驚くほど心細い。どこから奇襲を受けるか、油断も隙もあったもんじゃない。どうにかして一度集まって作戦を練り直す必要がある。全くの無力であるあゆむは完全にカモだ。
「おいいたぞ!」
「…見つかるの早すぎ!」
一人の男がご丁寧に声を上げ、近くにいた仲間に知らせる。こういう場合こっそり近づいた方が捕獲率は上がる気がするが様式美である。様式美とはつまり余裕の現われであり油断だ。あゆむにとっては好機とも言えるが「無理だ!」振り返ればみるみる距離を詰めてくる。先の一件で準備運動もなしに全力疾走をしたせいか横っ腹が痛い。結構痛い。物陰に隠れてやり過ごそうにも物陰がない。そうなると選択肢は一つしかなく、恐る恐る『下』を見た。あゆむがいるのは共通教育棟の裏の坂、一帯に生い茂る銀杏の木でこの季節学内一剣呑なスポットとなっている。その中腹が一部崖になっており飛び降りれば道を大きくショートカット、身を隠す木々も生い茂っていた。無論飛び降りる以上はリスクを伴う。足を捻る可能性もあるし銀杏まみれになる可能性もある。しかし迷っている暇はない。
「ええいままよ」結果あゆむは銀杏まみれになって足をぐねった。「んがっ!」
さらに拉致られる。先回りして張っていたのか、近くに停めてあった軽トラックから手が伸びて、無理矢理車内に押し込まれた。ん? 軽トラ?
『どこだ?』『くそ巻かれた』『そう遠くにはいっていないはずだ』『探せ!』
「……」押し倒させられる(?)形で、下から伸びる両腕があゆむの頭を抱え込む。がっちりホールド息ができない。何が起こっているのか分からないが、甘い匂いがして柔かった。しばらくして外の連中の気配が消えると「ぷは」ようやく解放される。
「…おい」聞き覚えのある声である。「あゆむ」自分にだけ向けられる無愛想な声だ。
「重いからどいて!」
「…ソワ子。おまえ…助けに来てくれたのか…」
「ふん! たまたま芸祭見物に来たら、たまたまあんたが悪漢に襲われていたから、偶然を装って車のサイドブレーキを脇腹に刺してやろうと目論んだだけ! 見事成功!」
「なるほど。どうりですげえ痛てぇと思った…。しかしお前の背中にはシフトレバー突き刺さっているはずだが?」
「肉を切らせて骨を絶ったの!」
「痛み分けじゃねえかなあ…。でも助かったよ。ありがとう」
「な、なに素直に感謝してるのよ! バカみたい! って銀杏くさっ。だから早く離れろって! ぎゃあ口に実が! おえー、あんた身体中実まみれじゃない! とにかくどいて、せっかく『コレ』持ってきたんだからあ!」
「…なるほど」コレ、即ち軽トラである。よく見ればただの軽トラではなく、竹やぶで出会った相棒だ。「…頼んだぜ」とインパネを撫でると呼応するかのごとくエンジンが唸る。軽トラに乗ったあゆむは向かう所敵無しであり百人力である。鬼に金棒。威借あゆむに軽トラ。「ラッキースケベはのしつけて返せよ!」
「…実はなソワ子、おれもお前を探していたんだ」
「『も』って何よ『も』って! あたしはたまたまサイドブレーキを脇腹に!」
「わかったから」言って尻のポケットから「…これ」と取り出し、恭しく差し出す。
「なにこれ? 首飾り?」
「首飾りて…、ネックレスとか言わない?」
「あたし持ってないからわかんない」
それはごく有り触れた銀のチェーンの首飾りで、茶こけた玉が六つぶら下がっていた。
「え、くれるの?」「まあ、うん…」「なんで?」「詫び的な…」「?」
全然ピンときていない。一応受け取るが危険物でも扱うように矯めつ眇めつ眺める。
「ごめんマジ一から説明して」
「だから! そろばん! 五玉のそろばん! おれがついカッとなって壊したやつ、おばあちゃんの形見だったんだろ? 椎子ちゃんに聞いたよ。だから昨晩学校に忍び込んで例の場所をくまなく探し廻ったんだが、全然見つからなくて、これしか見つからなくて…だからネックレスにしてみたんだけど、…どう?」
「五玉のそろばんなんだから、五個にしろよ!」
「しょうがねえだろ六個見つかったんだから! 捨てるには忍びないだろ!」
「燃やした奴がよく言うわい!」
「だから悪かったって!」
「つうかプレゼントを尻のポケットに入れるってありえなくない?」
「それも重ねて悪かった! 生来気の回る性格ではない! すまん!」
「素直に謝ればなんでも許してもらえると思ったら大間違いなんだから!」
「すまん!」
「ダサい!」
「ぐさー」
「…か、どうかはあたしには分からない。装飾品は換金対象だし」
「…徹底してるなあ」
「別にこんなことしてくれなても良かった。ショコラミントの方がよっぽと気が利いていた。婆さんの形見だからって、特別思い入れがあるわけではないし、慣れてたから使ってただけだし、失って分かったけど電卓最強。無駄なものは持たない主義なの。箪笥の肥やしは増したなくないの。ちょっと銀杏くさいし。でもまあ…貰ってやらんこともない」
「なげえよ、前置き」
「るっさい!」言ってチェーンを首の後ろに回した。
「あ、付けるんだ」などと言おうものなら即座に引きちぎって捨てられかねない。黙って動向を窺うがいつまで経っても付けられない。しまいには癇癪を起こしてやはり捨てられかねないので「手伝うよ」噛みつかれやしないかとヒヤヒヤしていたが、以外にも素直に受け入れた。白磁のうなじに触れる。ソワ子は首ぶら下がる六つの玉を指で弾いた。「…どうなの?」
「に、似合うよ」
「それはそれで問題だと思うけど…」言ってバックミラーを覗き込む。「小ちゃくてよくわからん!」とシートにふんぞり返った。「ちょっと! パウダールームで一人勝ちしたいんですけど!」訳すと大きな鏡で確認したいからWCへGOという意味である。
「……」存外好感触?「ここから一番近いトイレは…って違う! 今はそれどころじゃない」
「…あによ。漏らせっていうわけ?」
「漏らすな! しかし耐えろ! とにかくここを離れよう!」
「いたぞ!」見つかった。「捕まえろ! 逃すな!」先ほどの男たちが軽トラめがけて正面から突っ込んでくる。
「…チキンレースだな」あゆむはつぶやく。敵さんは車の圧倒的立場の弱さを利用して『まさか轢くまい』とタカをくくっている。「だったらその驕り、真っ向から打ち砕いてくれる!」
どちらが先に避けるか。即ちチキンレース。
「鉄の塊にひれ伏せ人類!」
アクセルを踏み込むとタイヤが空転して辺りに不協和音を撒き散らす。
それだけで威嚇には十分だった。
殺される。本能的に危機を察知した敵は、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。あゆむはお返しとばかりに、巧みなドライビングテクニックで追い駆け回す。そして敵をゴミ箱に頭から突っ込み、植木に頭から突っ込み、模擬店に頭から突っ込んだのを確認すると「ソワ子!」
彼女はやおら車から飛び降り無、数の尻となった敵に駆け寄ると殿様蛙貴族の証をむしり取った。「ぬひひ、大漁大漁」全ての尻から強奪すると悠々とその場を後にする。
暴走軽トラがそこのけそこのけとばかりに祭りの真ん中を突っ走る。
「行く宛てはあるわけ!?」必死にしがみつきながらソワ子は言う。
悪路ではないがいかんせん障害物が多く一歩間違えれば大惨事も免れない。
「ない!」舌を噛みそうになりながらあゆむは言う。むしろ走り続けることが目的だ。走り続けている限り暴走軽トラにおめおめと突っ込んでくる阿呆はいない。仲間を見つけ次第荷台に放り込んでいけば十人は助かる計算である。
「だがひとまずラリさんとロクさんを助ける! あとガクも!」
あゆむは先ほど自分が脱兎のごとく逃げ出した戦場へ再び戻る。最短ルートは道が細いくせに出店が居並び、人でごった返しているので駄目だ。ぐるりと大回りに回って、遠回りでも走りやすい道を進むと広場が一望できる高台へ出た。見下ろす。いた。ラリとロックは未だプロレスごっこの真っ最中である。二人を中心にぽっかりと空いた円をあゆむは密かに《十円ハゲの陣》と呼んでいた。しかし間欠泉のごとく湧き続ける敵に対して優勢とは言い難い状況である。いずれ訪れるその時を、ただ長引かせているだけに過ぎない。
「…あいつは何をやってるんだ?」
ガクも見つけた。広場の一角では謎の医療軍団が再来し怪我人の看護を一手に引き受けているが、その中に奴は混じっていた。格好も清楚系女子アナからナース服になっており、今度は男を骨抜きにしている。有り体に言って人気ナンバーワンナースだ。あれもあれで一つの身を守る手段なのかもしれない。抜け目ないのは看病を装って殿様蛙貴族の証を奪う。だがいずれバレる。ラリたち同様時間の問題だ。
とにかくここを降りて三人を助け出す。だが、それには一つ問題があった。
「この階段、どうすんの?」ソワ子は嫌な予感がしたのか、引きつった顔で言った。
軽トラの足元には広場へ伸びる階段がある。彼らの元へ駆けつけるには、どうしても避けて通れない。ニヤリと無意識に不敵に口角がつり上がる。
「強行突破!」「やああああああああ」「舌噛むぞ!」
躊躇いなくアクセルを踏み込んだ。奥歯をむぐっと嚙みしめるが、上下の強烈なシェイクに見舞われ歯の根が全く噛み合わない! 人間カスタネットのハーモニーが車内に響き渡ること十数秒、ザーッと舞台の前に滑り込むと人波が真っ二つに割れ、地面に転がっていた連中も飛び起きた。そして羊飼いの要領で十把一絡げを一纏めにしボロボロにへばるまで追い回す。もちろん羊飼いの経験はないし、正しくは牧羊犬の要領である。
「お助け参上!」ドリフトで二人の元へ。「乗ってください!」
「ちょっとそこどきなさいよ! ブス!」と、見れば助手席でガクがソワ子に噛みついていた。「あゆむの隣は私って決まってるんだから!」
「えーっと、…どちらさま?」ソワ子面喰らう。
「はあい…あむちゃん、さんくー…。助かった…」とラリは軽やかに荷台に飛び乗るも、疲労の色は濃い。「ーーきみはあらしらと一緒ね」
言われガクは首根っこを掴まれてロックの手で荷台へ。
「不当な扱いを受けるいわれはない! 人権侵害だ! 小汚い手を離せ巨人!」
「あゆむくん、ありがとう…。もう僕は誰かを背負い投げしたくないよお…」
およよと、ガクのスカートで涙を拭う。「エッチ!」
「安心するのはまだ早いっすよ!」蹴散らしたとはいえ、ここは敵陣の真っ只中である。「とばします! 姿勢を低くしてしっかり掴まっていてください!」
「とは言ってもねえ、安全運転を心がけてくれたまへ」
「分かんねえっすよ。そもそもおれ無免だし!」再びアクセルを踏み込むと軽トラは急発進、広場を後にする。再び人混みを掻き分けながら進む。「…ん?」
振り返る。脇見運転。だが今自分は誰と会話をした?
「人身事故だけはやめてくれよ。さすがに私の手に余る」
「芯嶋さん…あんた何やってんだ?」
芯嶋英作はちゃっかりと荷台に乗り込み涼しげに髪を風になびかせていた。
「いや楽しそうだったからさ」
「そうっすか…」気まぐれなのか。策があるのか。「でも悪いっすけど容赦はしない」
「私の証が欲しければくれてやろう。しかしこの戦力差は覆らないと思うよ?」
「別に良いっす。おれの目的はあんたの謀略を阻止し、瀧さんの願いを叶えることっすから。下らん権力争いに興味はねえんで、何であればおれが差し出しますよ? 証を」
「それはそれは」あっけらかんと言い放つ。「難題だよ貴君」
「芯嶋さん、もう一度言います。瀧さんに会ってあげないんすか?」
「会うよ、これが終わったらね。しかし昔のような仲良しごっこをするつもりはない」
「…何故です」
「沽券に関わる問題だから軽々しく私が言うことは出来ないなあ」
「ではおれの推理を聞いてください」
「おやまあ、探偵モードだ」
「芯嶋さんが瀧さんと桐森さんの元を去った理由、本来桐森さんの思いを知っているのであればあんたは去るべきではない。むしろ友人であれば協力すべきだ。にも関わらず二人の前から姿を消した。理由は一つーー瀧さんが芯嶋さんのことを好きだったから」
「…ほお」
「同時に桐森さんの思いも知っていたあんたは、どちらか一方を選べばどちらか一方が失われることを知っていった。だから二つとも失う選択をして二人の仲を取り持った。これで一応は丸く収まったかと思いきや、ところがどっこい、いざ二人っきりになった途端桐森千一のチキンハートが炸裂『瀧に友達がいなくなっちまうだろ?』とか『不良学生と講師の不貞行為が』とか小理屈をつけて距離を全然縮めようとしない。そこで痺れを切らしたあんたは、桐森さんを八年生会から辞めさせようとした。それも波風の立たない無難な形で、あくまで責任を取らされて仕方なく辞めてもらう。だから八年生会を本気で潰すつもりはなかったし、潰す必要もなかった。どうしてこのタイミングかっていうのは、あんたら以外に瀧さんと仲良く出来る存在、まあおれなんすけど、それを発見したから。だから蛙貴族に勧誘した。同時に牽制でもあった。万が一でも桐森さんの恋敵になる可能性は潰しておかなければならない。だからあんたはおれと…、その…、ソワ子をくっつけようとしたんだ…」
「え!?」とソワ子が身を強張らせた。
「元・八年生会という役割もあったが、お前はおれへの当て馬だ」
「ふ、ふーん。知ってたし」
「だと思ったよ。ーーさて八年生会討伐作戦、通称大達磨転がしは決行された。結果、芯嶋さんの予想に反して連中はあっけなく解散してしまう。しかも桐森さんは責任を取らされ、学校まで辞めなければならない事態になってしまった。何故か。おれには理由は分からないけれど、それはあんたにとっても最悪に等しい」
「…ふむ」
「桐森さんは鈍くて雑な男だから、あんたみたいな秘密主義者を往々に誤解しがちで『芯嶋は俺を辞めさせようとしている』などと不貞腐れているけど、実際はそんなことはない。だからこうして動いているんでしょう? 血風・達磨落としは桐森さんの追放を阻止するために開催された。だって本当にここから追い出すのが目的であれば、トーナメントなんて開催しなければ、勝手にあの人は退学処分になっていたのだから。血風・達磨落としと桐森千一の退学の因果関係はおれには分からないけど、あんたは二人の幸いを願って人一倍悩んで難しいことをしようとしている。それは分かる。だから! あなたがたが争う理由はどこにもない。そして単純で簡単な方法が一つある。芯嶋さん、あんたが失敗を認め桐森さんに倒されれば、あの人の名誉は挽回し退学は取り消しになる。だから! 大人しく倒されろよ芯嶋英作」
暖かい太陽のような満面の笑みを浮かべて芯嶋は言った。
「分かってねえなあ! それじゃあ及第点も上げられないよ、あゆむくん。その場しのぎのやり口は、私もいい加減飽き飽きしているんだ。あと推理と言いつつ半分以上よく分からないっていうのも駄目だと思うぜ! 仮に貴君の推理が正しかったとして、分からないことは大分けて五つ! どうして私は二人の元から去ったくせに学校を去らなかったのか。どうして桐森くんは八年生会に入ったのか。どうして私は八年生会に入る桐森くんを止めなかったのか。どうして桐森くんが今回の責任を押し付けられているのか。どうして血風・達磨落としなんて面倒なことをしているのか。理由は一つ、そのように仕向けた奴がいたからだ。運とタイミングで生きてきた不心得者が、棚ぼた気分で桐森くんを退学に追い込み、瀧くんを籠絡しようと企んだ。ーー私は奴を裁かねばならない」
「それは誰です」
「教授」
「教授…?」と言われても学校には掃いて捨てるほどそれらしき人物はいるわけで、第一芯嶋の言うような悪知恵が働く人物が教育者になれるのだろうか…?
「あ」
瀧は言った。『くだばれセクハラじじい』『桐森くんには感謝している。彼のおかげで今の地位があるわけだし』桐森は言った。『八年生会にはとある人に勧誘されて入った』『今回の失敗は庇いきれないと言われた』『悪いことをしちまったなあ。せっかく誘ってくれたのに』
「あの変態教授…」あゆむが何かに行き当たったのを確認すると芯嶋英作は小さく頷いた。
「あゆむくん、五十点だ」「五十点?」「そこまでたどり着いてどうにか及第点だ」「褒めてるんすか?」「けなしているんだ」「そりゃどうも…」「しかし結局行き着かなかったのは、恋愛礼賛主義とでもいうべき偏った思考が原因に他ならない。まあ仕方ないか」「うるさいなあ」「貴君は瀧くんの夢を知っているか?」「研究職ですか?」「そうだ。しかしあの若さで講師を務めるというのは異例中の異例だ。それも彼女はこれといった成果を上げたわけでもないし、特別優秀というわけでもない」「…つまりあの人は非正規のルートで今の地位にいると?」「あの男が目をつけたのは彼女の類稀なる美貌であった」「公私混同も甚だしい」
あゆむは怒りに任せてハンドルを殴った。パーっと音がして目の前の人波が割れた。隣のソワ子がビックっとしたので「すまん」と謝る。
「順を追って説明しよう。何故秘密主義である私がコレを言ってしまうかというと、コレはこれから白日のもとに曝け出す予定であり、多少前後して情報がしかも君らに漏洩したからと言ってちっとも問題ないからである」
「はあ」説明しても良い理由は分かったが、どうして説明するかは分からなかった。
「ーーさて私が二人の元を去ってしばらくして一つの報せが舞い込んだ。それは瀧くんが夢に一歩近づくというものだった。貴君も知っていると思うが、研究職に就く場合基本的に一人の教授を師としそこで研鑽を積む必要がある。彼女のとある論文が、一人の教授に認められたというのだ。その瞬間私はピンときた。論文の出来もさることながら、この教授とはあまり良い噂を聞かない人物であり、はっきり言ってかつて瀧くんをイヤラシイ目で見てきた凡百の男の延長に過ぎない。タチが悪いのが半端に権力を有し骨の髄まで腐っていることだ。しかし瀧くんに断る理由は無い。少なくとも当時は無かったわけで彼女は二つ返事で了承した。だがそこには一つの交換条件があったのだ」
「交換条件?」
「桐森千一の八年生会に入会。邪魔だったのだ。彼女の周りを飛び回る猩々蝿が。決して男を近づけない稀代の美女を手篭めにできるかと思いきや、どこの馬の骨とも分からない暑苦しい男がつきまとっている。だからそれぞれを反対方向に置いて出来る限り遠ざけた。まったく、自分も八年生会出身のくせによくやるぜ。もちろん瀧くんから相談を受けた桐森くんが断るはずがない。さらに面倒なのは、彼は未だに教授のことを『瀧の夢を叶えてくれた足長おじさん』ぐらいに感謝すらしている。そうして二人は正逆の道を歩き始める」
「何故。どうして止めなかったんですか」
「それが彼女の夢だったから。艱難辛苦に見舞われようとも、夢に近づかんとする人間を邪魔立てする権利はない。と、その頃は考えていたけれど、結果を見れば大間違いだな。能力のない人間は能力に見合わない場所に固執するべきではない。もちろん私も付かず離れずの距離を保ち最善を尽くした。教授の年甲斐もない恋愛ごっこを邪魔立てすべく、あの手この手で策を弄す。が、男嫌いで生粋のラブフィリアである彼女には耐え難い苦痛だっただろう。状況は八方ふさがりである。教授を叩けば彼女の夢は叶わない。かといって桐森くんの言い訳も完全に間違いとは言い切れない。それに…」
『私が瀧くんの友達になるわけにはいかない』と、言葉を濁したのだろう。極限状態の人間の所へ、かつて思いを寄せていた人が現れれば、焼け木杭に火がつくのは明白である。それに瀧のために八年生会に入った桐森の立場はどうなるというのだ。
ーー憐れ。
「私は待った。何か一つでも解決に導く糸口が現れるのを。いつでも動ける精鋭たちを用意してね。君らを利用していたことについて謝るつもりはないよ。私は私なりの方法で清算してきたつもりだからね」
「別に良いよー」とラリ、六郎、ガクは口を揃えて言った。
「そしてしばらくして貴君が現れたのだ。どういうわけか瀧くんに拒まれることなく受け入れられる人物、そう彼女の友達になるのにはうってつけだ。だからガッくんを使って仲間に引き入れた。糸口というにはやや心もとない気もするが、桐森くんから言い訳ぐらいは奪える。残りの問題は八年生会という立場だけだ。だから私は波風立てずに八年生会を抜ける計画を立て、実行し成功した。…うん、しすぎてしまったのだ。あゆむくん貴君の言う通り私は八年生会にここまで大打撃を与えるつもりは無かった。そしてそれは結果として教授にチャンスをを与えることとなってしまった。彼奴は八年生会のOB連中を焚きつけて今回の騒動の原因が桐森千一にあることをアピールした。もちろん桐森くんに対しては推薦人ということになっているから、自分は精一杯宥めたがどうにも収まりがつかない、ということになっているはずだ」
「そんなことしてしまったら、教授自身の責任も問われるのでは?」
「関係ないんだろう? そんなところに未練も愛着もないんだ。なんせ自分の愛人作りのために利用するぐらいだから、八年生会もOB会も屁とも思っちゃいない。とにかく私があゆむくんの言葉に従って形式的に桐森くんの軍門に下り八年生会の顔を立てたとて、根本的な解決にはならない。人手不足のあの状況で桐森くんを手放すとは考え辛いし、教授は今度こそ、完全に彼を追い出す計画を立案・実行するに決まっている。もうあの人は駄目だ。骨の髄から腐っている。だから私は彼奴の不正を徹底的に暴き、ここから追放することに決めたのだ。そのための大達磨様であり血風・達磨落としだ。あゆむくんは、以前私が言った二つのこと覚えているかね?『八年生会は学校運営に口出し出来るほどの権力を有する』と『大達磨様は願望機である』と。つまり血風・達磨落としを勝ち上がれば八年生会と同等かそれ以上の力を有することとなり、ひいては学校運営に口出しが出来るほどの権力を有する。もちろん口出し出来るからと言って現実になるかといえばそれは別問題だ。だが元々アレが叩いたらハウスダストな身な極悪人なのは事実であり、私がこの日のためにただ指を咥えて待っている気の長い人物でないことは自明の理である。証拠は十分だ。あとは席さえ用意してもらえれば私は学長に直訴し罪を公然のものとする次第」
「……」
「浮かない顔をしているね」芯嶋はバックミラーに映り込んだあゆむの顔を見て言う。
沈鬱な面持ち。芯嶋英作が行おうとしているの直談判であり弾劾裁判であり、悪の処罰でありまさしく正義の所業である。だが受け入れることが出来なかった。
「…瀧さんの夢はどうなってしまうんです」
かつて芯嶋英作が見逃し、今の芯嶋英作が大間違いと断定したそれを、もう一度掘り起こす。あゆむには分からなかった。能力があろうと無かろうと結果的に掴んだチャンスをみすみす逃すのが正解なのか。ましてや他人の手で下して良い判断なのか。
「それも学長に話を通す、というか通してある。彼女の美貌を取っ払って能力そのものを評価をしてくれる好人物を何人かピックアップしてあるし、成功した暁には一応論文に目を通してくれることになっている。が…」
おそらく厳しいと、言外に語っていた。
「…おれと桐森さんがやったことは、無駄だったってことっすか?」
「人の気持ちは移ろい易い。万が一長い歳月の中で桐森くんの気持ちが薄らいでしまい、瀧くんのために立ち上がらないというのであれば私が彼女を幸せにした。杞憂だったけどね」
「ギリギリだったけどなあ…」
「あゆむくんを蛙貴族から追放したのは瀧くんの傍にいてやって欲しかったから。傷心中の貴君は間違いなく彼女の所を訪ねると分かっていたよ。そして瀧くんの所を訪ねる以上、桐森くんと出会うのは時間の問題だった。もし彼が日和っていた場合、尻を釘バットでぶっ叩いて欲しかったが、私の見立て以上のメジャーリーグ級のフルスイングだったよ」
「…人の気持ちが移ろいやすいというのであれば、瀧さんだってとっくにあんたに恋愛感情なんか持っていない」「かもしれない、だろ?」「…そうです。でもその場合昔のように三人で仲良くすることも不可能ではない」「理屈の上ではね。しかし三人でまた遊ぶというのは辛いなあ。誰もがどこかで妥協した未来ってことだろう?」「だったら! あんたら全員自分の幸せを求めろよ!」「しかし誰かの不幸の上でしかそれは成立しないのだよ?」「…だからあんたが不幸になるっていうんすか?」「私は不幸とは思っていないよ。尊い犠牲だ」「…おれたちに説明してくれなかったのも、だからですか?」「止めただろ? 要らんお節介で私を」
どうだろうか。そうかもしれない。現にこうやっているわけだし。
「…どうして瀧さんを受け入れてあげないんですか」「私にその気がないからだろう」「恋の鞘当てと桐森さんは言っていました」「当たらずとも遠からず。いや大嘘かな。正しくは逆・恋の鞘当てだ」「逆…? …つまりただの譲り合いじゃねえか!」「そうともいう」「…いや違う。桐森さんが言っている方が正しい。瀧さんに惚れない男なんてこの世に存在しない。両思いだった。それでもあんたは身を引いた。なぜです」「ふむ。あゆむくんは、不公平だと言いたいのかい」「おれにはあんたが桐森さんに肩入れしているように見えてならない」「誰かに好意を寄せられるのは素敵なことだから、では駄目かい?」「誰かがフラれる所を見たくなかったからでしょう?」「私が答えを出さなかったのが原因だと言いたげだ」「そう言ってるんです」「そうか」「そうです」「あゆむくん、私は自慢ではないが女性を袖にしたことがないんだ」「絶対数の問題だ」「いいかい。女性というだけで素敵なんだ。そんな素敵な人を貶めたり辱めたり、そういう傲慢な人間に私はなりたくない」「……」「そして友とは素晴らしいものだよ。友が悲しむ姿を見たくないし、悲しませることは私にはできない」「はい」「まだ駄目かい?」「駄目ですね」「手厳しいね、貴君は」「普通です」
そうか。と呟いて芯嶋は俯いた。
ソワ子は目に涙を溜めて、お腹を抱えて笑っていた。
「いーっひっひっひっ! あんたら愉快すぎ! 男めんどくさすぎ!」
「うるさい。少なくともおれは真っ当だ」
「えーでも好きな女が好きな男のために、前科一犯も辞さない覚悟てマゾすぎてうける」
「うけるな!」
「ねえシマちゃん」とラリ。「あらしらが蛙貴族をクビになった理由って、巻き込みたくなかったからなのん?」
「こんなこと言う柄ではないが、失敗した時に責任を取らされるのは、私一人で良い」
「やん、惚れちゃいそう」
「おいおいファッションレズハンターとしての誇りはどうしたんだい?」
ファッションレズに誇りも何もねえだろ。
「貴君これは捨台詞なんだけど、根本的に勘違いしていることがある。私は瀧くんや桐森くんや、あとおまけで実直くんのために動いたと思われたら大間違いだ。私はね、自分のために君らを全力で利用し全力で学生生活を謳歌したに過ぎない」
「自分で言うなっつうの! 予防線を張るなっつうの! だから後悔してませんってか? うるせえしろ! 勉強しろ!」
「きゃあ恥ずかしーっ」「おいソワ子、いい加減にしないと本日のシャレオツポイントを辛口ピーコのファッションチェックするぞ」「ーーんなっ! あんた、自分で自分の首を絞めることになるのよ!?」「結構。うんこみたいな色してんなその首飾、ぐえっ!」「思ってもないこと…言うな!」「…すまん」
「相変わらずお熱いねえ、よっご両人」芯嶋英作、昭和の時点で既に使い古された文言でそれとなく応酬するがあまり効果はない。「じゃ、もう行くから」
言ってやおら軽トラの荷台か転げ落ちた。
「「「「「は?」」」」」
事故ではない。いや事故なのだが、つまり自殺行為である。自ら時速ウン十キロで走る自動車から飛び降りるというのは、自殺行為というか、自殺だ! これには全員言葉を失う。あっという間に遠くの豆となった芯嶋英作を目を凝らして見守った。「生きてるよ、多分…」身体能力のみならず視力も人並みはずれているらしい六郎が確認する。
冷水を差され、ただでは転ばない人であることを改めて実感する。って「おいおい…」
全員紳士連合の証をいつの間にか奪われていた。
「くそ。やっぱり抜け目ねえ…」
ひっそりと暴走軽トラは停まる。
八年生会発足と大達磨様について。
今でこそ八年生会は諸悪の根源と呼ばれているが、ことの発端は学校創建の頃まで遡る。とある一人の学生がある日学長室に忍び込んで窃盗を働いた。彼は学校運営に常々不満を抱いおり、たった一人で大達磨様を盗んだのである。その窃盗行為に何の意味があるのか、今となっては分からない。実際ただの度胸試しだったのかもしれない。
問題はその悪行に対し、学長は怒らず逆に「真の益荒男なり」と称えた。確かにあの達磨を一人で運び出すには、腕力以外にも総合的な力が必要となる。馬鹿馬鹿しさを受け入れる度量が必要となる。虚しさに堪えられる胆力が必要となる。その無駄ぶりは想像を絶する。同時に彼にはよほど訴えたいことがあったのだろうと当時の学長は判断した。
それ以降彼は学生側の代表として発言する権利を与えられた。そして彼は学生が自由に発言出来る場として八年生会を作り、大達磨様をその象徴とした。もちろん八年生会が学生の中枢にいることに不満を抱く連中も少なくない。彼らが何をしたかというと、同じように大達磨様を盗み自分の潜在能力を広く知らしめた。それが《血風・達磨落とし》の起こりである。長い歴史の中で幾度となく達磨は盗まれてきたが、現在それをやってやろうという阿呆はめっきり減った。そして最終的に八年生会の所に置いてあったのを見ると、殆どの争いは彼らの勝利で幕を降ろしたにちがいない。
それがまことしやかに八年生会に語り継がれている創世記であるという。
だから達磨は目安箱でありトレジャーであり王冠なのだという。
眉唾だなあとあゆむは思った。そして事実だとしたら現状面汚しも甚だしい。権力は腐る。もしかしたら大達磨様は意図的に隠されたのかもしれない。
ちなみに達磨は、実は当時の学長の作品であるという。
しかしこれも真偽のほどは定かではない。
「…な、なんだこれ」
中央広場に戻ったあゆむたちを待っていたのは法廷だった。先ほどまで何の変哲もない舞台だったのに、そこには大きく分けて四つ被告人席、原告席、証人台、そして正面には裁判官の座る法壇があり、簡易的とはいえ立派な作りになっている。実物と大きく違うのは傍聴席(この場合は観客?)に向けて全体が末広がりになっていた。それもそのはず、後に判明するが、これは演劇部の公演で使われた舞台セットであり、公演は終了したものの、セットそのものの出来は中々であり捨てるには忍びない、かと言って邪魔というのを拝借してきたらしい。さらに「使ってくれるのであれば喜んで」と仕込みまで買って出た。ありがとう演劇部。
法壇に座っているのはチャッガマンである。法服こそ着ているものの、珍妙なコスプレと手に持ったピコピコハンマーのせいで、裁判官というより世界まる見えである。
原告人席には二人。一人は芯嶋英作だ。いつの間に着替えたのか傍目にもわかる上等なスーツを着込み髪を撫でつけ、原告訴訟代理人として胸を張っているが、肩からぶら下げた三角巾が痛々しい。もう一人は彼の隣、居心地悪そうに座っているのは瀧である。彼女が原告だ。念願の芯嶋英作に会えたにも関わらず今すぐ立ち去りたいオーラを体中から放っていた。
そして証人台には一脚の椅子が置いてあり被告と思しき男が荒縄で括り付けられていた。「教授…」件の教授が一人暴れ声を荒げる。『なんの悪ふざけだ』『今すぐこれを解け』『お前ら全員退学処分だ』しかしながら誰一人手を差し伸べる者はいなかった。氏の代理人席が空席なのもどこか物悲しい。
ーーピコっと、槌が鳴った。
「静粛に」それがチャッガマンが知る全力の裁判用語であることは明らかである。「開廷」
その瞬間芯嶋が立ち上がり喋り始めたのは、これがなんちゃって裁判の皮を被った公開処刑だからである。つまり彼は原告代理人風の処刑人ということになる。
「被告、溝之口ノリスケさんにうかがいます。あなたは原告片田瀧さんに、師とその助手という立場を利用し度重なるセクハラ・パワハラ行為におよび、精神的苦痛を与え著しく名誉を毀損しました。間違いありませんか? ーーそうですか。ではあなたは、正装と言って常に短いスカートを強要したり、すれ違いざまに手の甲で臀部を撫でたり、片田さんが飲んだペットボトルを舐めまわしたり、集合写真の時におっぱいを肘で触ったり、といった行為の数々が、彼女に耐え難い苦痛を与えていたにも関わらず、セクハラに該当しないとおっしゃるのですね。そうですか。裁判長、証拠品を提出してもよろしいでしょうか」
「許可」
「ありがとうございます。そしてプロジェクターでスクリーンに投射する心遣い、重ねて感謝いたします。ご覧ください。これがその集合写真です。がっつりおっぱいに肘がめり込んでいます。気付かないと思ったんですかね。だって隣の人を超えてわざわざめり込ませに行ってますからね。あなたは写真を撮る時、人よりも肩肘を張ってしまう癖がおありなんですかあ? 裁判長、証拠品2も提出してよろしいですか」
「許可」
「ありがとうございます。被告は原告にことあるごとに恋文を送っていました。少し離れれば手紙、隣にいても手紙といった具合で著しく変態性が垣間見られます。大半は封を切られることなく焼却処分してしまいますが、彼女の協力によりごく最近のものを用意することが出来ました。裁判長の後ろに映し出されているものがそのラブレターの原本です。原稿用紙数十枚、約一万文字に及ぶ大作の一部を抜粋し読み上げます。
『今日のタキたんわ、とてもかあいかったです。でもタキたんは、いつもむぼうびだから、きをつけてえ(//∇//) みずいろは、ふたりのヒミツだよっ! ぽくみずいろだあいすき』
という文章がご覧の通りギャル文字で記されています。内容の気持ち悪さもさることながら、五十過ぎの男がギャル文字て、被告の涙ぐましい努力は想像に難くないですが、今時ギャルも使わないでしょう」
「つかわないとおもう」
「過去に同様のセクハラ被害を受けた方々からも証言を得ています。一部読み上げます。
『単位の代わりに性的な接待を強要された。もちろん断ったがその後もしつこく関係を迫られ結局単位は貰えなかった。学費返せ』(21歳・女性・学生)
『コンタクトレンズを落としたと言われスカートの中を覗かれた。目には眼鏡をしていた』(29歳・女性・図書館司書)
『アフター行ったらホテル行けると思ってる。っていうかドリンクも飲ませてくれない客のアフター行くわけなくない?』(25歳(仮)女性・サービス業)
プライバシー保護のため個人名は伏せさせてもらいますが、後に証拠品として提出する許可を得ています。あと本日はゲストを招いております」
「証人ではなく?」「ゲストです」「法廷はあなたのテレホンショッキングではありませんよ?」「すんませーん」「許可します」するんかい。
舞台袖から出てきたのは二人。ギャルギャルしたギャルと主婦主婦した主婦である。
「最低。死ねよクソ親父」
「あなた…これ全部本当なの?」
「みちこおおお! さちええええ!」ミチコとサチエ、去る。
最後の砦が崩れ落ちたのが分かった。教授はがっくりと項垂れた。
「最後に被告人が著した有名な論文に捏造疑惑があることを末尾に添え、疑惑の箇所と根拠を記したもの、そしてパクられ元も一緒に提出させていただきますが、本件とは無関係なので以上をもちまして証人尋問とさせていただきます。ご審理おねがいします」
「うーん難しいから死刑!」
突如教授氏はガバッと顔を上げた。そして「おい瀧!」あっけにとられ、他人事のように唖然としている彼女の方を向き叫ぶ。「お前こんなことして自分がどうなるか分かってんのか! 恩を仇で返すのか!」男のヒステリーで恥も外聞もなく喚きたてる。
瀧女史に反応はない。聞こえていないのか、どれくらい言葉の礫を痩身に受けても虚空を見つめ続けるだけである。やがて教授氏が、息も絶え絶え喉がすっかり潰れてしまった頃、緩慢な動きで立ち上がった。「よし」双眸にたゆたえたどす黒い活力を、あゆむは見逃さなかった。迷いなく進み教授氏の前で止まると感情の希薄な目で見下ろした。
「判決! 死刑!」
男の暴力と女の涙というが、女の暴力も十分脅威である。その点男の涙はこれといった脅威にはならずむしろ侮蔑の対象であり不公平だなあとあゆむは思った。
ーーそれが女の本気のパンチを間近で見た男の感想だ。
顔面の中央にめり込んだ拳は見事人中を捉えていた。鼻の骨が砕け、前歯が折れ、びゃあと血しぶきが上がる。体重の乗った左ストレート。
「一身上の都合で退職します!」
瀧女子の拳には折れた前歯が突き刺さっていた。振り払うと舞台上に乾いた音を立てて転がる。に、肉がまだ付着していた…。
「原告と被害者とパニッシャーは私だああああ!」
右の拳が振り上げられると同時に、三人の男が彼女を羽交い締めにした。
○
「じゃあ凱旋パレードしようよ!」
と言い出したのはガクである。意味は分からないが気持ちは分かった。負けたのに。負けたのにも関わらず、あゆむも同じ気分だった。
「しかしパレードなんて行き当たりばったりでするもんじゃねえなあ…」
荷台に大達磨様を乗せた軽トラが先頭を走り、その後ろに元・八年生会や蛙貴族、殿様蛙貴族の連中が続くが、いかんせん何一つ準備をしていないので、パレードというか大名行列である。さらに厳密には今も敵同士であり、和気藹々とした空気などなく剣呑としていた。
「せめて音楽とかないのか?」
「呼び込みくんならあるよ」と答えたのは助手席に座る芯嶋英作である。「ショッピングモールの女王が貸してくれた」
呼び込みくんとは、スーパーの惣菜コーナーでお馴染みのあの曲を無制限に垂れ流す兵器である。主にお風呂から就寝時にかけてその真価を発揮し、ふと思い出したが最後脳内で延々とリフレインし精神をひたすらかき乱す。
「何故こんなものが…」
「バイトの特権だって」
女王、バイトかよ。
ーーぱぱーぱぱぱ。ぱぱーぱぱぱ。力の抜ける頓珍漢な曲を奏でながら練り歩く。それでも救われたと思ってしまうあたり比類なき険悪さである。その理由がもう一つあった。現在軽トラを転がしているのはあゆむではなくソワ子である。「今日だけは私がドライバー」「お前免許持ってたのか?」「AT限定!」「駄目じゃん」という会話からどういうわけかハンドルを奪われていた。しかし考えてみれば無免より遥かにマシである。というわけで運転席にソワ子、助手席に芯嶋、荷台にはあゆむ、桐森、ガク、ラリ、六郎、そして瀧と…。険悪なオーラを放つのは主に彼女である。
瀧女史は魂が抜けたように一人ぼんやりと秋空を見上げていた。触れるに触れられない。かと言って触れなければ不自然である。「あの…大丈夫っすか?」
「……」返答はない。あったらあったで困るが、なければないでも困る。こいう時の対処法を過去の記憶から探すが、脳みそフル回転でもヒット件数はゼロ。仕方がない。トークの達人でも匙を投げる不良債権である。とりあえず今は放っておくが吉と諦めかけた頃、「向いてないんだなあってつくづく思う」
瀧は誰に向けるでもなく口を開いた。
「私ね、何かをやる時にやる気か才能のどちからあれば、大概のことはどうにかなると思ってるのね。だからそもそも向いてないことは知ってたけど、やる気でどうにかなるって信じてた。でも駄目ね。全然駄目。だって気付いた時にはやる気も無くなってたんだから…。それでも騙し騙しやってきた。協力してくれた桐森くんや、応援してくれた他の人たちにも申し訳が立たないし、何より『下らない理由』でチャンスを棒に振るなんて悔しいじゃない! …でもそういう問題じゃなかった。見当外れも甚だしいわね。そもそも論、能力のない人間がココにいること自体あってはいけないんだから。罪なんだから」
「……」
「ねえ、自分に出来ることと出来ないことの見極めってすごく難しい感じがしない? 今日出来ないことは明日出来るかもしれない、明日出来ないことは明後日出来るかもしれないって。極端な話それって死ぬまで分からないじゃない? ゲームオーバーがあれば分かりやすいけれど、人生にゲームオーバーはない。しかし今回のことで分かった。ゲームオーバーだから駄目なんじゃなくて、駄目だからゲームオーバーなんだって。やる気もない。才能もない。それが分かった時がやめ時なんだって。ーー当たり前か」
「やる気は明日湧いてくるかもしれない。才能は明後日生まれるかもしれない。芯嶋さんが残してくれた最後のチャンス、細い勝ち筋ではありますが賭けてみる価値はあります」
あゆむの言葉に瀧はやんわりと首を振った。そして
「そうやって考えられるなら、君はまだ仙才を秘めたる若者だよ」
満面の笑みでサムズアップ。
どこか雰囲気が違う、とあゆむは思った。背負った影が薄らいでいた。影は女性を美しく見せるというが、その影が彼女の男嫌い・女嫌い・ラブフィリア全ての原因を担っていたのではないか。もちろん無邪気な笑みもそれはそれで魅力的なのだが。
「…あたぁ、手え怪我してるんだった」包帯が巻かれた手を抑えて顔をしかめた。「結構簡単に折れるんだね、人歯って」「いや普通は折れないんですけど。…お手本のような左ストレートでした」「ストレス発散に日頃から鍛えてたから」「打ち慣れていますよね?」「私が黙って五年間もセクハラに耐えてきたと思ったら大間違いよ!」「…もしかして、ファイター?」「砂袋はよく殴るけど肉袋は殴らないわ、殆ど」「ほとんど…」「ただ行きつけのバーで勃発したアームレスリング大会では見事入賞しました。えっへん」
「……」約束を果たせなかったと言ったら、歯あ折られるんだろか。
それでも報告はしなければならない。「あの瀧さん」
「んーなに改まって」
「すいません。あなたとの約束果たすことができませんでした」
「んー?」小首を傾げ「なんだっけ?」
「なんだっけって…芯嶋さんと桐森さんを仲直りさせるっていう…」
「ああ飲みに行った時の! っていうかそう! あの後大変だったんだから!」
「……」自分の中でひどく気の重い案件だったのに、相手にとってみたら『っていうか』で済まされる世間話未満の軽口だった。安堵すると同時にやや腹立たしくもあり不甲斐ない。
「とにかくあゆむくん、君の鞄預かりっぱなしだから取りに来て!」
「ああ、はい」
「でも約束おぼえててくれたんだね。ありがとー」
その笑顔で精算されてしまうのだから、手に負えない。
「瀧さん…もしかして、気付いてます?」
「なにを?」
「いろいろ」
「君ねえ、君よりも干支一回り生きているアラサー女が、独身で彼氏もいないからって何かと感度が鈍っていると思ったら大間違い」
「だったら…なんで」
おれを拒まなかったのか。無駄に鼓動を昂ぶらす。
「さあ。そういうこともある! としか言えないかな」
「……」
「本当言うとね、今すっごく緊張してるんだから」
ああ、だからか。だから上の空だったのか。先の一件はもう彼女の中で終わっている。
ーー女ってそういうものでしょう?
瀧の背中。彼女が寄りかかる鉄の壁一枚越しに、芯嶋がいた。
「まったく。融通のきかん男だ!」荷台から身を乗り出して言い争っていた桐森が戻ってくる。あゆむの隣にどかりと腰を下ろした。「話にならん!」
「桐森さん聞きましたか?」「何をだ」「おれらのやってたこと意味なかったっぽいっす」「この世には意味がないことなどない!」「桐森さんは芯嶋さんの思惑、分かっていたでしょう?」「思惑は分からん。俺は難しいことには向かない性格だ。しかし奴の性格は知っている」「だったら何故挑んで行ったんですか」「逆にお前は芯嶋に挑まれて何もしないというのか」
『この人たちこういう関係だから』瀧女史が目で語っていた。
「とにかくおれたち負けました。しかしあなたは学校を辞める必要はない」
「…あの人は瀧の恩人ではなかったのか?」
「そうですね。しかも恩人の皮を被っている分、並の悪人よりタチが悪い」
「ショックだ…」
「桐森くんは寝取られ体質だね」芯嶋が笑い声をあげた。「ん? 寝取られられ体質?」
「おい芯嶋、何故俺に言わなかった」
「それはもう説明済みだよ」
「違う。今回の一件だ。お前があの人と対決するのを俺は邪魔しようとしたんだぞ」
「それも説明済みだし理由は色々あるよ。しかし理屈と軟膏は何とやら、一々私が説明するより、桐森くんの中で納得出来る答えを見つける方が手っ取り早いと思うけど。それに教授が悪い、教授を倒すといっても貴君は信じなかっただろう? 意地っ張りの桐森くんのことだ、下手すれば向こうについたかもしれない」
「……」
「人の気持ちが変わるには十分すぎる時間だ。あれから十年経つんだよ?」
「…まだそんなに経っていない」
「そうだっけ? しかし貴君の真意を探るのに慎重すぎてすぎることはない」
「……」桐森は黙り込んだ。かつても同様に芯嶋英作に勝つことは出来なかったのだろう。
瀧女史は一人ほくほくと満足そうに笑う。
「あの、お話終わりました?」あゆむ立ち上がり桐森に耳打ち。「約束、守ってください」
今更耳打ちも何もないタコ部屋状態だが最低限のマナーというものがある。
「友達が出来たらの話だろ…」と桐森。
「細かいことおぼえてますね」
「真の友と呼べる相手が瀧にいない以上、それはできないと言っただろう」
「桐森さん、とあるえらい人が言ってました」
「…なんだ?」
「好きってのは脅迫っす」
「……」
「好意は刃です。誰かが慰めてくれるから大丈夫なんてあまちょろいこといわんといてください。傷つけるのは当たり前です。告白が成功しようが失敗しようが相手は傷つくんです。傷つけるのが怖いからしないのであれば『傷つけるのが怖いからしない!』って明言してください。そしたらおれもこれ以上追求するのはやめます。ねえ『俺は特別!』みたいなのやめましょうよ。アラサーでしょ? 現実見てくださいよ。桐森千一、あんたは凡夫だ。凡夫は凡夫らしく真っ向勝負しかないでしょう」
あゆむは振り返る。と瀧が「なにしてるの?」と首を傾げた。ゲロ可愛い。
「あっ!」と叫んだのはソワ子である。助手席のドアが開いていた。不穏な空気を察知したのか芯嶋英作が再度遁走を図る。が「ロクさん」あゆむが合図を送ると、六郎の縄文杉のような腕が、芯嶋のすっかり細くなってしまった胴に絡みついた。そしてラリと六郎のツープラトンで瞬く間に荒縄で大達磨様に縛り付けた。「いっちょあーがりっ」
「両腕はさすがに生活に支障をきたしますよ?」
「恨むよ、あゆむくん」
「ご自由にどうぞ」
言ってあゆむは立ち上がり瀧を見下ろす。やや怯えている上目遣いがキュートだ。
(ったく、カラオケで一番最初に歌わされる気分だぜ)
「教授」「教授ではないし講師でもない」「じゃあ瀧さん」「はい」「おれ、あんたにガチで惚れてます。一目惚れっす。年齢差とか立場とかお金とか時間とか単位とかダサいことは若さでぶっとばすんで、おれと恋人関係になってほしいっす。お願いします」
言って右手を伸ばした。心の中で叫ぶ。
どうすんだ桐森千一!
隣に気配。
桐森があゆむに並び瀧を見下ろしていた。
「瀧…。俺はお前を騙していた。今まで被っていた友達面は全部嘘だ。俺はお前を苦しめる凡百の男共と変わらない。ずっとずーっとエロ目で見ていた。すまん…。これからお前の下す選択によって、お前はお前自身を苦しめることになるかもしれない。いや違う、これじゃまんま脅迫だ。お前は好きな答えを出せ。そしてなるべくなら苦しむな。いずれにせよ俺は責任を取る。お前が幸せになる方法を探す。だから! うぉー・あい・にー」
中国語!? その意外性に既に負けたような気分になる。
車はいつの間にか停まっていた。ギャラリーが集まっている。一触即発の雰囲気でにらみ合っていた彼らだが、面白半分に見学して残り半分は固唾を飲んで見守っていた。呼び込みくんは止まらない。耳障りで調子っぱずれな音楽を垂れ流し続けている。この後の選択によってはN.O.1トラウマソングになる。スーパーの惣菜コーナーでは耳栓が欠かせない。
そしておそらく欠かせなくなる。
「ごめんなさい」
彼女の答えは既に決まっていた。二人に頭を下げた。そして「私からも話があるの」彼らの脇をすり抜けて迷いなく向かった。
大達磨様へ。芯嶋栄作の元へ。
「やっと捕まえた。きみが部室棟の屋上から飛び降りて逃げ出したあの時から、ずっと捜していた。あの時は足を引きずっていたけれど、今日は腕を怪我している。傷だらけね相変わらず。あの時言えなかったことを今言います。うまく伝えられなかったら、また言います。伝わるまで何度でも。今から死ぬまで。私にきみの中年太りを手伝わせてください」
「……」
「うぉー・あい・にー」
ーー中国語!?
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