EP4 分裂

夏の長期休暇の間、あゆむのモヤモヤは晴れなかった。何かを誤魔化すように、肉体労働に精を出すもあまり意味はなかった。湧き上がる疑問。本当にこれは正義なのか? 自分がやったことは正しかったのか。結局自分はまた悪事に手を染めているのではないか。浮かれていた自分を否定出来るだろうか。八年生会を懲らしめることで、憂さ晴らしをしていただけではないか。暴れたかっただけではないか。あの頃から何も変わっていないではないか。

 しかし世間の事情は一変していたらしい。

 そのことに気づいたのは九月に入り、学校へ久方ぶりに赴いた時である。

「…ブルーシート?」

 ブルーシートや段ボールで出来たテントが、学校の周辺に幾つも建てられていた。いわゆる大人の秘密基地である。荒川河川敷にでも迷い込んだような錯覚をおぼえる。道端ではボロ切れを纏った男たちが生気のない顔で蹲り強烈な人間臭さを放っていた。

 その一人と目があう。彼が乾いた叫びをあげると、方々で怨嗟の声があがる。

『…いたぞアイツだ』『…蛙の下っ端だ」『…お前のせいで』『学生証をよこせ…』地を這って足に縋り付いてくる。力こそなく振りほどくのは容易いが、鬼気迫るそれに抵抗することが出来なかった。スタンダードタイプのゾンビになす術なく襲われる人間の気持ちが少し分かる。殴られるでもなく噛みつかれるでもなく揉みくちゃにされる。と

「ほらあ。ご飯の時間よーん!」

 鼻から抜ける間の抜けた声の主は…ラリだ。彼女は歩道橋の上から何かをばら撒いた。握り飯である。『あー…あー…』と亡者たちは群がり一心不乱にかじり付く。あとで聞いた話ではコンビニからかっぱらってきた廃棄だそうだ。「エコだわあ」とうっとり。「はあい、あむちゃん、おはろー」手を振る。期せずして助けられたので頭を下げた。

「やああゆむくん、お元気してた?」芯嶋がいつの間にかあゆむの隣に立っていた。「彼らは野良大学生。停学や退学処分を言い渡されて行き場を元大学生が、帰ることも入ることも能わず路頭に迷う。人はそれを野良大学生と呼ぶ。詳しくは裏学則を参照で」

「…蛙貴族のせいですか?」

「全てではないが一因は担っている」

「…この状況、瀧さんが喜ぶと思いますか?」

「思わないね」

「どういうことだ芯嶋栄作!」あゆむの慟哭が響く。

 野良大学生はこちらを振り返ることなく一心不乱に握り飯を詰め込んでいる。夏の暑さと空腹が彼らの脳みそを沸騰させるのか。

「そう熱くならないでよ。ただでさえ残暑が厳しいんだから」額に玉となって浮かんだ汗をハンケチで拭う。「話があるんだ。ひとまず《かわずの巣》へ行こうぜ」

「……」

「あそうそう」ことのついでのように「八年生会が解散したよ」

 ーー構内に足を踏み入れた途端、剣呑な空気があゆむを包み込む。行き交う人々もどこか殺気立っており油断も隙もあったもんじゃない。ここはどこだ。世紀末覇者か。

 かわずの巣の扉を開けるとソワ子が駆け寄ってきた。

「ねえあんた見た!?」喜色満面の笑顔であゆむを見る。今の今まで彼だけには向けられることがなかったのに、何もこのタイミングで披露しなくても…。あたかも夢見る乙女のように「世紀末みたいじゃない!? こういう混沌とした雰囲気わくわくしちゃう!」

「…わくわく?」

「だってあれ、あたしらがやったんだよ!?」

 一度沸き立った脳みそが再沸騰するのに時間はかからない。彼女に責任があるわけでもない。

しかし振り上げた拳は収まらない。「っのやろ!」

「あゆむくん! おはよう」屹立する肉壁に阻まれた。「いつ何時でも暴力は許されないよ」

「ロクさん…」

「ちょっとお、あむちゃん。直接的な暴力は女尊男卑時代の絶対悪よん」

「ラリさん…すんませんついカッとなって…」

「あらしはべっつにーだけど、謝る相手ちゃうくない?」

「ソワ子」腰を九十度に曲げた。「陳謝」

「…なによ」

 勝手に事態が進行して勝手に終わった。ソワ子は釈然としないままラリに連れて行かれる。

「血気盛んなのは結構だけど、仲間割れはいただけないね」

「芯嶋さん、あんたはどうなんだ? これがあんたの望んだものなのか?」

「望んでいたものではない。ただ嫌いではない」

「クソが」

「まあ良いや。ガッくんは相変わらず居ないけど、本題に入ろう」芯嶋から僅かな焦りを感じた。「状況を整理しよう。八年生会解散についてだけど、そもそも論、彼らに解散という概念はない。あれは組織でなく現象であり、いくら本部が潰されたとしても枝葉や外部団体が第二第三の八年生会を名乗る。それが八年生会システムであり、要するに大達磨様を盗まれることは連中にとって痛手ではあるが致命傷ではない」

「…しかし実際は解散した?」

「数の暴力だ。あの日、八年生会を快く思わない連中が我々の起こした混乱に乗じて秘密裏に動いた。いや『ある者』に動かされた。その結果大挙して八年生会を襲撃しこれを攻め落とす。あゆむくんは見ただろう? 連中の居城を。伏魔殿とまで言わしめたあそこはもぬけの殻となっていた。昨今数を減らしつつあるといえどゼロってことはない。ありえないんだ。ある組織は人を奪い、ある機関は土地を奪い、ある集団は名声を奪い、そして我々は宝を奪った。閑散とした状況は各々襲撃の対処に追われていたのだろう。最悪彼の地を追われた後だったかもしれない。一つ一つは取るに足らないものだが、様々な合法・非合法団体が八年生会を啄ばんだ。結果解散と言っても過言ではないほどの大やけどを負った」

「…では外の連中は元八年生会ってことですか?」

「主にね。八年生会はならず者の抑止力と同時に、落ちこぼれの受け皿でもあった。皿がなければ落ちるだけだ。連中の不正と悪を徹底して暴く『そういうやり方』で生会を襲撃したやつもいたってことだ。基本的には自業自得だ。同情の余地はない」

「……」

「それよりも私が問題視しているのは、ならず者の抑止力の方だ。今や無法者共が仮初めの自由を謳歌している。八年生会と比肩するほどの無頼漢にもかかわらず、この騒動を逃れのうのうと学生の皮を被り続けているわけだから一筋縄ではいかないよ。彼らの目的は一つ、八年生会に代わり《風雲児》として学校に君臨することだ。今や学内外問わず有象無象が風雲児として空席の玉座にふんぞり返るべく日夜堂々と暗躍している。辺りは常に敵だらけだ。いつ何時でも気は抜けないぜい」

「つまり芯嶋さん、あんたの目論見が外れてしまったと?」

「蛙貴族を含めた大勢の組織の働きで八年生会は解散の憂き目にあった。だから大達磨様があるからと言って我々の肩を持つ必要は無いし、そもそも連中は廃れた風習など意にも介さない。達磨は達磨だ。せいぜい異常に重い文鎮だよ…。とはいえ! 大達磨様を持つのは蛙貴族だ。横並び一直線の有象無象より一歩前へ出ている。ならば先手を打ち有利なようにことを運ぶ」

「何が始まるっていうんです?」

「戦乱の世の幕開けだ。不肖芯嶋栄作ここに《五貴族会議》開催を宣言する」

「ゴキ族…」とラリが呟いた。言い得て妙である。「って…なに?」

 誰もが聞き慣れない言葉に首を傾げた。

「残念ながらそこまで説明している時間はないようだ」

 袖をまくって時刻を確認すると芯嶋は立ちあがった。普段の余裕は見られず、サラリーマンの昼休みのような忙しさである。

「…もしかして今からっすか?」

「とりま、君らは黙って私についてこい」

 


 芯嶋英作に連れて行かれた講義室は通称Cホールと呼ばれており半円形に、そして立体的に、はめ込み式の机と椅子が設置してあり劇場か映画館のような空間だった。薄暗い。ブラインドが降り、転倒防止用のライトが足元でぼんやり光っている。その席を埋めつくさんばかりに人が集まっていた。講義でもそうそう集まらない数である。談笑に花を咲かせるものはいない。誰もがむっつりと黙り込み、衣摺れの音と塊となった呼吸音がのしかかる。喋ることさえも火種になり得る一触即発の空気が肌に刺さる。

 後ろの方の席に蛙貴族は座った。一方芯嶋英作は重苦しい空気の中を悠々と泳いでいく、あゆむを連れて。正直後ろの方で息を潜めていたかったが彼はそれを許さなかった。視線を一身に集めながら中央を進み、二人が立ったのはあろうことか教壇である。いつの間に手配したのか大達磨様が鎮座ましましていた。「ほい」と水性マーカーを手渡される。「書記ね」

 …そのために連れてきたのか。

 そしてここであゆむを書記に任命するということは、芯嶋がこの会議における仕切り役ということに他ならない。手回しの良さに感服する。

 あゆむは二段式の巨大なホワイトボードに『五貴族会議』と書き殴った。

 おそらくこの字で間違っていない。

「今日はお集まりいただきありがとう。私だよ、芯嶋英作だ」卓上マイクを使って朗々と告げる。「早速だけど本題に入ろう。聡明な諸君は八年生会解散のニュースをご存知だろう。皆の活躍で壊滅に追いやることが出来た。これは快挙だよ。胸を張って良い。ご苦労であった」

 それは暗に『労う立場にいるのは自分だ』と言っていた。

「しかしながらここで問題が勃発する。風雲児は誰か。八年生会の後釜に相応しいのは誰か。一時的に擬似的に無自覚に共闘関係を結んだとはいえ、我々は敵同士だ。座り心地の良い椅子を譲り合うような関係ではない。戦国時代だよ、これは。下手すれば一般生徒まで巻き込み、学校運営に問題をきたす。無論住処を追い出されるような事態は誰も望んではいないだろう? 野良大学生に身をやつすのは私だってごめんだ。平和的な解決を望む。つまりね、今日より八年生会に代わり風雲児としてここを牛耳るのはーー緑色の紳士、蛙貴族だと言ってるんだ」

 殺気が放射状に矢のごとく放たれる。文字通り芯嶋は矢面に立たされた。しかし腹に蓄えた脂肪で易々とそれを受け止めると「やめろよ。冗談だろ?」嘯く。冗談半分、本気半分、言うのはタダ。万が一効果があったらラッキーぐらいで失禁ものの視線を集めた。

「確かに大達磨様を持つのは蛙貴族だが我々だけで連中を倒したと自惚れるほど愚かではない。諸君を敵に回しかねないし、悪い意味で第二の八年生会になりかねない。お互いにそうなる可能性を秘めているがね。ではどうするか。ルールを決め合法的に試合おうじゃないか。遺恨を残さないために、蛙貴族は《血風・達磨落とし》を提案する」

 静まり返っていた室内がどよめく。

「血風・達磨落とし、まあただのトーナメントだ。仰々しい名前をつけたけどね。しかし謀略渦巻く乱戦よりも分かりやすく無駄な被害が出ない。決意表明として我々から大達磨様を出そう。博識な諸君が達磨の意味を知らないわけではなかろう。優勝者は達磨を手にして風雲児となり名実ともにこの学校の支配者となる。単純明快でかつ犠牲者を最小限に留める最良の選択だと私は思うが、異論のあるものはいるか?」

 ざっと申し合わせたように方々で手が上がった。異論、だらけじゃねえか。

「さすが歩く反骨精神。そうでなければ面白くない。では順番に言い分を聞いていこう」芯嶋英作の独演会からやっと会議らしくなる。「ではまず《ままかりの友》」

「…ままかりの友?」ままかりとは隣の家に米を借りに行くほど美味しいという意味であり、つまりままかりの友とはご飯のことである。「変な名前!」

「…当たらずとも遠からず」芯嶋英作が小声で答える。「もともとままかりの友とは、八年生会の台所番だ。その連中が今回の混乱に乗じて分裂・独立した。おいおいあゆむくん、美味しそうな名前だなあなんて舐めてると痛い目を見るよ。彼らは目的のためなら何でもやる。他人を陥れることも厭わない。八年生会が体面を重んじるのに対し、ままかりの友は完全に営利団体だ。その方向性の違いがそもそもの対立の原因だろう。怒らせると怖いよ、料理人は」

 あゆむの幾つかのアルバイト経験に基づき、確かにキッチンのチーフは無駄に偉そうだった。『食』を担っているというのは、どこの世界でも一目置かれるのか。

「そのトップが彼女ミス・マックス。通称ミスマ。またの名を《ショッピングモールの女王》」

 ブロンドの長髪の女性が腕と足を組んで鷹揚に座っている。とにかく目立つ。本人の存在感もさることながら、彼女を囲うように立ちはだかる十数人の配下がこれでもかと威圧感を放つ。全員女性である。やはり台所は女性の領分なのか。否。それが城となり要塞となり、本丸に反旗を翻した。男の入り込む余地などない。

「私たち《ままかりの友》は、決して血風・達磨落としに反対ではない!」

 ミスマの隣に立つ女性が声を張り上げる。

「我々は王たるものに最高の食事を振る舞うことを至上の喜びとする! しかしそのものに王としての資格が存在しない場合、容赦なく引きづり降ろす!」

「ひゅう恐ろしいねえ」芯嶋英作は言う。「…彼女は副料理長ミスマの右腕、名前は忘れた」

「ええー…」

 副料理長はミスマに耳打ちをされるとまた声を張り上げた。

「そんなことより料理長は、西原を引き渡せと仰っている!」

「おっとーその話はまた別だ」

 言われてミスマを見る。彼女が小さく頷くのを確認すると「ふん」と言って矛を収めた。

「…元々ミスマは、ぬばたまの黒髪の和服の似合う京美人だった。しかしガッくんに弄ばれたショックで一夜にして総白髪になった、らしい」

「……」染めただけだろ? 金髪だし。しかしガクはしようのないセックスパスである。

「次は《あかべこ倶楽部》よろしく」芯嶋英作は隣の集団を指した。

「やあやあ、どうも。あかべこ倶楽部会長の天貝っす」ハンサムが現れた。

 天貝は片足が悪いのか杖をついている。しかしそんなことなど微塵も感じさせない身のこなしでヒョイと机の上に乗った。足を補って余りある運動神経、むしろ杖であることを利用して、常人以上のパフォーマンスを発揮する。

「《あかべこ倶楽部》は地下アイドル『柚香カボス』の公式ファンクラブだ」芯嶋は言う。「あの魔性は極めて危険だよ。そうだなあ女版ガッくんって所かしら。男を拐かす星の元に生まれた。さらにガッくんがある程度意識的にソレを行っているのに対し、あの女狐は無意識だ。おそらく自分が地下アイドルとして着々と人気を集めている自覚はない。この違い分かるかい? 際限がないんだ。意志も目的もなく男を振り回す。あかべこ倶楽部は無限に増殖するガン細胞のような連中だよ」

「でもただのオタク集団でしょう? デブかガリにステ全振りでしょ?」

「ステレオタイプのオタク像をありがとう。国民総アイドルファン時代に最早その常識は非常識だ。例えばあのフルチン筋肉集団、ラグビー部もあかべこ倶楽部の傘下だよ。規模の大きさは、反八年生会派の中で随一であり、どんな狂人が飛び出してくるか分からない。文字どおり命をかける無法者に刺されないようジャンプでも仕込んでおきたまへ。しかしながら柚香カボスへの忠誠心が彼らの原動力であり、横の繋がりは基本的に無いに等しい。それにアイドルを応援する感情を分かりやすく恋愛と仮定した場合、周りは全て一人の女を奪い合うライバルであり、隙あらば出し抜こうと皆が目論んでいるはずだ。さらに言うならトップであるカボス嬢は今回の参加に無関係だし無関心だ。トップを欠いた状態で彼らがどこまで出来るか。あかべこ倶楽部はダークホースかもしれないがダークホースの枠は出ない」

「それはどうだろ!」

 小声、長すぎるから…。二人の会話はがっつり天貝に聞かれていた。

「確かにカボス様は無関係であり今頃安穏とお味噌汁でも飲んでいらっしゃる」

「…夕方に、味噌汁?」

「しかし俺たちは金で繋がらない。金で繋がらないものの団結力は桁違いだ。皆がカボス様への忠誠心で繋がっている。そして一人一人がライバルである以上、その成長は日進月歩だ!」

 そうだそうだと声が上がった。皆純粋でまっすぐな目をしていた。金やら飯やら俗物で繋がっている蛙貴族には耳が痛い。

「で芯嶋栄作さん、悪いが質問攻めだ。トーナメントったって試合方法はどうするんだい? 公平な運営管理は誰がする? 時間は? 場所は? 5w1hをはっきりさせて欲しいな」

「面倒事は私に一任してもらって構わないが、それでは諸君は納得しないだろう。では参加団体から一人ずつ選出してもらい管理委員会を立ち上げる。そこで場所を決め時間を決め勝負内容も決める。そうだなあ準備自体は一週間もあれば十分だから、血風・達磨落としの開始は二週間後でどうだろうか。悠長なことは言ってられないからね、妥当な数字ではないかい?」

「はーいぼくは異論無いでーす」と、十一時の方向から男だか女だか分からない中性的な声があがった。見ればこれまた男だか女だか分からない中性的な顔立ちの小柄な人物が、精一杯手を伸ばしてブンブンと振っていた。「全部芯嶋先輩にお任せでーす」

「《流言会》の唯くんだね? その信頼素直に嬉しいよ」

「わーい史上最悪の劣等生芯嶋英作さんと話しちゃった。うれぴー。後でサインくださいー」

「貴君にサインをすると後々こわいことになりそうだからね、答えはNOだ」

「あははのはー。けちんぼ。ばれてーら」

 芯嶋の額に浮かんだ汗をあゆむは見逃さなかった。あの男女がそうさせるのか。「奴は?」

「奇術師だよ」「奇術師…?」「彼に逆らうと呪われるらしい」「なんと面妖な…。して呪いとは?」「屁が止まらなくなる」「…まじかよ」「そして流言会ってのがまた一筋縄ではいかなくて、独自の情報網を持ち流言、噂話を自在に操る」「ん? つまり屁の呪いは嘘ってことっすか?」「嘘かどうか分からないから恐ろしいんだ。良いかいあゆむくん、噂を自在に操るということは自然発生した噂を曲げたり消したりすることも出来るし、自ら流すことも出来る。そして真実にすることも出来る。人の噂も七十五日というが、それだけあれば彼らにとってことをなすには十分だ。今回の八年生会潰しの根幹を担ったのも流言会だ。前述の通り八年生会は多方から攻め込まれ解散に追いやられた。ここにいる全員が唯くんの流した噂に操られたのだ。無意識に八年生会襲撃をあの日、あのタイミングにした。専らの噂だよ」「そんなこと可能なんすか?」「さてね。分からない、分からないと言わしめるのが流言会の真価だ」

 唯と目があった。無邪気な笑顔を向けて手を振る。あゆむは得体の知れない怪物の檻に放り込まれたことを今更後悔した。その他にも意見のある組織を芯嶋は片端から指名して、意外にも丁寧なキャプションをつけながら説明していく。

「へいトーナメントなんて、まどろっこしいぜ。鉄の塊に何の意味があるんだ!」

 脳筋丸出し。地下格闘技集団ベニマル

「かぶと相撲の賭け試合を取り仕切っている」


「ふっ、金ならいくらでもくれてやる。貧乏人め!」

 庶民を見下すボンボン集団、地上げ栃の木

「有名無実となった自治会が復権するために送り込んだ刺客だ」


「いやあ皆さん疲れてはるようですので、ここらで一息いれましょか?」

 エセ関西弁の自然食品メーカー《いないないばあ》!

「飲みやすい皇帝オルニチン習慣を売っている」など。

 なんやかんやで十数の合法・非合法組織が五貴族会議に参加していた。五貴族でもなんでもねえじゃねえか。幸いにも彼らは芯嶋栄作そのものには否定的だが、意見には概ね賛成のようで大きな揉め事もなく会議は一時間強で終わった。

「この十把一絡げを八年生会が纏め上げていたわけですね」あゆむはホワトボードの文字を消しながら言う。「そりゃあ荒れますわ。一度野に放たれれば…」

「でも大体悪人でしょ?」とソワ子。「全部倒せばちったあ平和になるんじゃない?」

「…芯嶋さん、あんたこうなることが分かってたのか?」

「不測の事態だって数時間前に言っただろう」

「ちげえですよ。だってあんたは初めから打倒八年生会をうたっていたじゃないか」

「今はまだその時じゃなかったってことでしょん?」ラリが言った。「ね? シマちゃん」

「おーラリくんその通りだよ。素敵な助け舟だ」

「……」そんなことで納得するかとあゆむは毒づく。

「とにかく今は皆で頑張ろう! 平和を取り戻そう! おーっ!」

 と強引にまとめて芯嶋栄作は一足早く講義室を後にした。


 芯嶋英作は少し痩せた。

 彼の二週間に及ぶ激務と活躍は筆舌に尽くしがたい。何故なら何をやっているのかよく分からなかったから。とりあえず常に動き回っていた。蛙貴族の面々は手伝おうにも手伝えず、かと言って必要ともされず、結果下手に手伝われても迷惑だろうというのが暗黙の了解になる。要約するに面倒くさかっただけである。

「しかしちょっと意外っすね」あゆむはある日の芯嶋に言う。「今までルールを破る側にいたあんたが、率先して作る側に回るなんて」

「そうかい? 気に入らないないから破るのであって自由に変えられるなら喜んで作るよ」

「そういう考え方もありますけど…」

「もっとも現状、自由とは言い難いね」

 芯嶋英作といえど彼らを纏めるのは骨が折れるらしい。好き勝手なことを言い、魂胆を隠そうともせず、有利なるよう改ざんする。まあそれに関しては芯嶋英作も同じ穴のムジナだが。

「それにあゆむくん、無法地帯ってのは存外生きづらいし不自由だよ。守ろうと破ろうとルールは有るに越したことはない」

「…つまり作るとは言ったが守るとは言ってないと?」

「そういうケースもあるかもね」

「……」お里が知れるぜ。

 そんな会話から間もなくして蛙貴族の元へ一通の手紙が届く。差出人は運営委員会から。

《玉座は一つだけ。王とは最後に残ったものを指す》

「なぞなぞ?」手紙の内容を読んでソワ子は首をひねる。「あたちこいうの苦手」

「だろうな」

「あにおーっ! ーーぐえっ」

「……」喧嘩が始まる前に六郎は無言で二人をつまみ上げた。昨今の恒例である。

「んでえ? これはどういう意味なのよ」ラリがため息をつきながら言った。「炙り出し?」

「年賀状じゃないんだから…。芯嶋さんも勝負内容は知らないんすか?」宙吊りのまま尋ねる。

「もちろん。私に私の試合の決定権はない。勝負方法はその都度厳正で公平なシステムによって決められているからね」

「ガラポンだろ?」

「そうともいう」

「玉座は一つで、最後の人が王様ね…」ラリが独り言のようにつぶやく。「多分これ椅子取りゲームじゃないかしらあん?」

「椅子取りゲーム?」宙吊りのままソワ子は両手を挙げた。「楽しそう! 小学生以来!」

「いや、お楽しみ会じゃないんだから…」

 

 試合当日。

 彼らの学校は山の上に存在する。都会的賑わいを見せる駅前に対し、徒歩数十分で景色は様変わりして、いつの間にか森と竹林と畑に包囲される。指定された試合会場は駅前から延びる一本道の真ん中、山をぶち抜いて出来たトンネルの手前、大きな街道との交差点である。その真ん中にあゆむたちは立っていた。無論車道である。昼間はひっきりなしに車の行き交う大通りだが深夜になると嘘のように静まり返る。もっとも現在静寂とは程遠い。歩車道問わず周囲をぐるりと観客が埋め尽くしていた。四方に設置された大型ショッピングモールの看板やフェンスやトンネルの上まで、敵情視察、野次馬、冷やかし、その他諸々が口々にあゆむたちを囃し立てる。内容のない絶叫が所々で上がり、ブブゼラからビールの売り子まで、サッカースタジアムさながらのどんちゃん騒ぎだ。どういうわけか車は通らないし近隣住民が怒鳴り込んで来ることもない。超法規的何かが働いているとしか思えなかった。

「ああ、様々な人に迷惑が…」とロックは胃の辺りをおさえた。

「すごい! よくわからないけど楽しい!」ソワ子は完全にお祭り気分である。

「半分ぐらい殺しても罪に問われない気がするわあ…」ラリは人ごみを呪った。

「本当にここでするんすか?」あゆむは芯嶋に尋ねる。「…椅子取りゲームを」

「イエス」よどみなく答えた。

 彼らの後ろにはぽつねんと一脚の丸椅子が置いてある。どうやら本気でこの椅子を取り合うらしい。そしてその様子を見学するために彼らは集まった。この暇人め…。

「マジもんのお楽しみ会だったか…」

「皆頑張ってーっ!」赤ら顔のガクが遠巻きにこちらを…見てもいない。声援は明後日の方向に消え、両脇の派手な美女に接吻する。相変わらず歩くキャバレー状態だ。

「…あいつは参加しないんすか?」

「しないとは言ってないよ。気が向いたら飛び入りするつもりなんじゃない?」

 蛙貴族の前には一回戦の対戦相手がいた。

 自らを八王子ラーメンの始祖と名乗る《刻み玉ねぎの会》だ。頭に手ぬぐい、肩までまくったシャツ、腕を組んで頑固一徹とばかりに険しい顔をしている。中々の強面でありムキムキであり手首で出汁でも取られやしないかとあゆむは内心ヒヤヒヤした。しかしながら芯嶋曰く『ただのラーメンオタク』であり『万が一にも負けることはない』という。

 背中から取り出した中華包丁をおもむろにぺろぺろ舐め始めた。

「生玉ねぎと一緒に微塵切りにしてやるぜ…」

 …微塵切りは嫌だなあ。

「へいエーサク!」「やあジョー」「…ジョー?」

 ジョーと呼ばれた男の顔は見えない。巨大な茶釜を被っている。首から下は狸の着ぐるみだ。分福が茶釜になりかけた瞬間みたいな格好である。「ちげーぜ。茶釜から戻る瞬間だぜえ」「うっぜ」交差点の一角がDJブースになっておりジョーは自分を「アイム審判&DJ。ウェーイ、シクヨロ!」と名乗った。DJと言いつつターンテーブルでは浅草の大きなお煎餅が回っている。

「浅草の大きなライスクラッカーがミュージックを奏でる時代だぜえ。科学パねえ!」

「芯嶋さん…こいつと当たるのは何回戦っすか?」

「彼はNO.2の座を確実に射止めるために自ら審判を買って出た男だ。だから血風・達磨落としには出ない。ああ見えて堅実なんだ。親公務員だし」

『へーい、フロオオオオオオッグ! コーンフロスティィィィィイイイ!』

 交差点の四方に設置された特大スピーカーからジョーの罵声が届く。

『人の家族構成ゲロってんじゃねえぞ! 将来の夢は小学校教師です。だから騒げる時に騒ぐ! そいつがオイラのライフスタイルだあ! &オニオン。ガチの凶器はマジ没収!』

 刻み玉ねぎの会から合計十本の中華包丁が押収された。

『つうわけで、よござんすか? よござんすね! こっちはとっくに待ちくたびれてんだよ! 勝負方法は椅子取りゲーム! ルールはご存知の通り! つうかてめえら大学生にもなって椅子取りゲームって、もっと楽しいこと他にあんだろ! 物好き! 分かってんだろなあ!? お楽しみ会レベルの陳腐な試合見せやがったら聴衆ブチ切れで暴動だぞ! それでは血風・達磨落とし、第一回戦! フロッグVSオニオン! ミュージック、スタああああああト!』

 ーーぺーれ、ぺんぺん、ぺれぺれ、ぺんぺんぺん

「オクラホマミキサー…」

 小学生御用達のダンスミュージックが流れ始めた。ただの椅子取りゲームではないだろうと腹を括っていたが超王道である。素っ頓狂な曲調に合わせて強面の集団がぐるぐると練り歩く。肩透かしを食らうが、ただの椅子取りゲームなら怪我することもないだろうと胸を撫で下ろした、瞬間曲が止まった。「ふぁい!」とジョーが言う。

 超人的反射神経を発揮した。威借あゆむその人が真っ先に椅子に腰掛ける。尻相撲でも絶対的安定感を誇るであろう、彼の尻は座面をがっちりキャッチした。だが。

「往生せいやああ!」玉ねぎの一人が叫んだ。その手にはギラリと光る、中華包丁!? 先程取り上げたはずではないのか。というかマジで微塵切りにするつもりか! 再度超人的反射神経を発揮してあゆむは避ける。逃げ遅れた椅子が木っ端微塵に砕け散った。

「おい審判! 凶器!」「~♪」「審判見てない!?」

「安心しろ。逆刃刀でござる」

「とか言いつつ鉄の塊だろ!?」食らえば一発病院送り。「くそ、やっぱりか! …こうなる運命か。予定調和か!」あゆむの慟哭は割れんばかりの歓声に飲み込まれた。

 ーー蛙貴族と刻み玉ねぎの会の不毛な争いは苛烈を極めた。

「食らえ、刻み玉ねぎ攻撃!」

 節分感覚で1センチ角の玉ねぎを投げつける。始祖がそれをやっちゃ駄目である。

「ぎゃあ目があ!」直撃したラリが地面を転げ回る。

「ラリ!」とロックがプチ覚醒。「このやろう、ラリの仇!」

 逆刃刀を折り曲げ奪った生玉ねぎをモリモリ食べた。頭に上った血をサラサラにするためだ。

「食べ物を粗末にする奴は大家族代表として許しておけぬ!」言ってソワ子は連中の手ぬぐいを奪い捲り上げた袖を下ろした。これでパワーは半減。「生玉ねぎは好きじゃないけど!」

 あゆむと芯嶋は不毛な争いに終止符を打つべく壊れた椅子の修復に勤しむ。

「…これ、直した所で意味なんかあるんすか?」

「分からない。しかし我々に出来ることは他にあるまい?」

 ラリの目を水で洗ってやった。

 ーー試合は終始、蛙貴族優勢だった。

 当たり前だ、場数が違う。グルメ集団に力くらべで負ける道理がどこにあろうか。刻み玉ねぎの会は蛙貴族の、というかロックの圧倒的膂力を前に、あれよあれよと戦意を喪失していく。誰もが勝ちを確信していた。あゆむも文句を言いつつ負ける道理がどこにあるのかとタカをくくっていた。しかし結果は『優勢というだけ』だった。元のサイズの三分の一ほどになった椅子には、刻み玉ねぎの一人が泡を吹き白目を剥き、意識を朦朧とさせながら座っている。

「…え、うそ」とロックが目を丸くする。

「ピーッ! 勝者、刻み玉ねぎの会でヤンス!」ジョーの声が無常に届く。

 何の気まぐれか、審判は思い出したように最悪のタイミングで本来の業務に戻った。

 信じられないのは敵も同様、鳩が豆鉄砲をくらっていた。

「うーんこれはさすがに…」芯嶋は言う。「…とんでもないことをしてくれたね」

 あゆむとソワ子に向けられた言葉は、しかし二人に届かない。

「いい加減にしろ! だからサラスパはサラダじゃないって言ってんだろ!」

「はあ? ポテトサラダをサラダだと思ってる奴が寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ!」

 これといって特別な喧嘩はしていない。いつもどおりの喧嘩を、ここ一番でしたら大惨事になっただけである。二人は試合に負けたことなど意にも介さない。

 そう決定的敗因は、あゆむとソワ子の内輪揉めだ。

「…この負けん気の強さを利用出来なかったのは、私の不徳と致す所だよ」

「僕らの青春はここで終わりなの…?」意外にも六郎は残念そうである。

「ぼくはどっちでも良いんだけど」とガク。「でもこの状況はさすがにジェラるミンだよ」

「おーガッくんいつの間に。厳密に言うなら終わりではないよ」芯嶋はガードレールに腰掛け「こんなこともあろうかと、ダブル・エリミネーション制を強行採決しておいて良かった」

「だぶる、えり…、え?」

「敗者復活戦をトーナメントで行うのよ…」ラリは赤くなった目を擦りながら「つまり全チームには一度負けられる権利が与えられているってこと」

「すごいや! さすが芯嶋さん! 抜かりないよ!」

「でもそれを予めあらし等に言わないって、言ったら手を抜くとでも思ったのかしらん?」

「ただのお茶目だろ? サプライズだ。あんまり苛めないでくれよ」

 芯嶋英作がまっすぐな目で見ると「まあいいわ」とラリは矛を収めた。

「しかし根本的な問題を解決しないことには、幾らチャンスがあろうと同じことよん?」

「うん、一応考えがある」

 方々から野次やゴミやその他諸々が飛び交う真ん中で、二人を見つめながら

「…ピート・ベストか」芯嶋はつぶやいた。


「やあご足労おかけしたね」

 翌々日。次の作戦を立てるべく例によって蛙貴族の面々は招集された、わけではなく呼ばれたのはあゆむとソワ子だけである。二人は今になってことの重大さに気づいたのだろう、心なし沈鬱な面持ちである。一応責任を感じているらしい。

「私もスケジュール分刻み族だからね。手短に済ませよう」

「いや、あの、芯嶋さんその前に言うことがある…あります」とあゆむが割り込む。

「正直あの一件はやりすぎたって…反省してる…」ソワ子も殊勝な態度を見せる。

「すんまへんしたっす…」二人で頭を下げた。

「もう絶対しないから! 少なくとも皆の前ではしない。こっそりいがみ合うから!」

「馬鹿余分なこと言うな!」

「だってあんたの傍にいるだけで腸煮え繰り返るんだもん!」

「だとしても頭を下げるのが常識だろ!」

「えーじゃああゆむくんは、申し訳ないと思っていないのに頭を下げているのかい?」

「それは言葉の綾で…」

「いいんだ、いいんだ。最早どうでも良いことだ。申し訳ない気持ちが有るとか無いとか、くだらないよ。一度ついた黒星は気持ちの問題で覆るようなものじゃない。それに蛙貴族は仲良し集団だろ? 狭量なことを言っていたら真の友情は育めないぜ?」

「は、はあ」

「だから悪いんだけど、貴君等はクビだ」

「「…は?」」と、ハモる。駄目押しとばかりにコンビネーションを見せつける。

 ある程度の罰は覚悟していた。具体的には想像もつかないが、想像もつかないような蛙貴族の辱めを甘んじて受け入れる覚悟である。一方で辞めさせられることはないと思っていた。何故なら芯嶋英作その人が、二人を蛙貴族に入れたからである。だが…。

「蛙貴族から抜けてもらいたい」悪質なジョーク、ではないらしい。「勝手な言い分だと思うかい? ソワ子くんに至っては八年生会まで辞めてもらった。しかし何と言われようと、自分勝手は蛙貴族の十八番、私の意志は変わらない。君らは金輪際緑色の紳士とは無関係だ」

「…理由を、聞いても良いっすか?」あゆむは声を絞り出す。

「聞くまでもないだろう? 歩み寄ろうっていう気概が感じられないよね。私が幾ら便宜を図っても一向に関係性は改善されなかった。いやいや、それに関しては私の力不足が原因だがね。しかし結果が出てしまった以上、対策を講じる必要がある」

「…ガクはどうするんすか? おれが居なくなれば奴はまた裏切るかもしれない」

「ガッくんと蛙貴族の関係は、貴君の憂うことじゃない。しかし両天秤の片割れである八年生会が解散した以上、現状ここを裏切る旨味はないに等しい」

「…こいつは金が必要だろ?」あゆむはソワ子を指す。「喧嘩両成敗である必要はない」

「つまり貴君が抜ける代わりにソワ子くんは残れば良いと?」

「そうだ」

「だってさソワ子くん。蛙貴族より稼げる仕事を紹介しようと思っていたが、どうする?」

「……」大きな目でぎょろりと芯嶋を睨みつけた。「…お断り」

「それは全て?」

「そう全て! これ以上あんたの世話にはならない! あたしにだってプライドがある!」

「…変な意地張るなよ」

「るさい! むしろあんたが残れば良いでしょ! ただのいじめられっ子に逆戻りよ!?」

「い、いじめられてねえよ! ただちょっとコミュニケーション能力に難があるだけだ!」

「はいはい二人とも! 結論は出たようだから早急にお引き取り願いたい!」

 ソワ子は再度芯嶋を睨みつけると「まざふぁっかーっ!」と吐き捨て蹴破らん勢いで扉を開けた。火の玉のように飛び出していく。「おい!」と振り返った頃に姿はない。

「…芯嶋さん、あんた見損ないましたよ」折り目正しい捨て台詞。「仲間がどうとか言っておきながら、結局自分の手に余る奴は使い捨てるんすね」

「否定はできない」

「上等っすよ。そもそも諸悪の根源とやらは叩き潰したわけっすから、考えてみたらもうあんたらとつるむ必要もないわけで、清々しますよ! むしろ!」

「……」

「一生裸の王様ごっこやってろ!」

 叩きつけるように後手に扉を閉めてソワ子を追った。



「おい。これからどうするんだよ」「……」「なあ、どこ行くんだよ」

 間も無くしてあゆむはソワ子に追いついた。しかし幾ら話しかけても黙りであり、脅威的速度の早足で逃げていく。仕方がないので小走りで追いかけるが埒があかない。痺れを切らして「おい!」と肩を掴んだのがまずかった。バチーンと手を払い除けられる。「いってえ!」

「あんたには関係ない」大きな瞳が涙の中を漂っていた。溢れてしまわないようソワ子はキツく睨む。「なんで一々あんたに説明しなくちゃいけないわけ?」

 たじろぐ。しかし放っておけなかった。大きなお世話は百も承知である。

「ちげえよ。論点ずらすなよ。説明して欲しいわけじゃなくて、お前も分かってんだろ? うまく言えないけど…心配なんだよ」

「はんっ! 何様? きめえんだよウスラトンカチ!」

「ウスラ…」

「あんたの寂しさを埋める道具にあたしを利用しないで」

 びっくりするほど図星である。心配などと当たり障りのない言葉で取り繕っていたが、実際誰かを必要としていたのはあゆむだ。だけど、だからこそ、ソワ子だって今誰かを必要としていると考えるのは傲慢だろうか。こういう時ぐらい傷を舐めあってもバチは当たらんだろう。

 彼女はこれ以上言うことはないとばかりに、放心する彼を置いて歩き始めた。

「あ、おい!」まだ食いさがる。ここで引いたら男が廃る。真意をまだ聞いていない。真意とはあゆむの納得出来る答えのことである。「とにかくこういう時は誰かと一緒の方がっ!」

「ーーついてこないで!」

 この日一番の絶叫が響き渡った。

 ーー馴れ合いはゴメンだ。

 不覚にも現状、これがソワ子の真意だと納得させられた。納得させるほどの啖呵力。

 気付けば二人が立っていたのは駅前の往来だ。先ほどからちらほらと奇異の目を向けるものがいたが、この瞬間誰もが彼らを見た。賑わいが静まり返る。

(…こいつ、聴衆を味方につけやがった!)

 駄目押しとばかりにソワ子が駆け込んだのは駅前の交番…。

「この人変態、痴漢、ストーカー! 死刑!」

 それだけ吐きすてると駅構内の雑踏へ飛び込む。

 被害者兼陪審員の危険性は説明するまでもない。立派な冤罪の出来上がりだ! 

 交番勤務が近づいてくる。逃げれば無駄に冤罪を裏付けしかねない。

「嘘だろ…洒落にならんぞ…」と諦めかけた時、

「修羅修羅してきましたなあ」背後から聞き覚えのある声が飛び込んできた。

 振り返り安心してちょっと泣きそうになる。

「…教授」

「教授ではない講師だ」



「保護者代わり」「日常茶飯事」「うっふーん」などといった御託を瀧は惜しげも無く駆使した結果、間も無く開放された。「別に悪いことしたわけではないのだし、嘘も方便よ」

 大人たちの会話を遠巻きに眺める子どもという位置を久しく経験していなかった。どこかノスタルジックで安心する反面、所詮無力な学生だと思い知らされる。大人ってすげえ。

「ありがとうございます。助かりました」あゆむは深々と頭をさげた。

「きみもちゃっかり青春してるのね」瀧女史はあゆむの額を小突く。「痴話喧嘩かあ」

「強く否定すると話が止まらなくなっちゃうので、やんわりと否定します」

「男子三日会わざれば刮目して見よね。お姉さんは安心しました」

「はあ」

「でもちょっとだけショック」

「…え?」

 思わせぶりなことを言って、生まれたてのハダカデバネズミのような初心なハートを弄ぶのはやめてくれ。「えーと、そう、瀧先生は何をしてたんですか?」

 しかし彼女はバツが悪そうに口籠り視線を泳がせる。「あー」とか「えー」とか前置きのパターンを一通り踏襲した後、おもむろに「ちょっと付き合ってよ」と言った。

 妙齢の美女にそのように言われ、心踊らない男などいない。ポイントは「ちょっと」である。これが女狐の類いになると「ちょっと」を省く。その結果、数多のハダカデバネズミが面白い良いように罠にかかる。逆説的に瀧は悪女ではない。

「買い物ですか?」「うんにゃ、一献」「いっこん…?」「この間のこととかあるし。驕るし」

 言われ、あれよあれよと連れて来られたのは一軒の居酒屋だ。彼らの学校関係者であれば一度は訪れたことがある大衆居酒屋である。無論あゆむも、おそらく瀧も。しかしながらシーズンを過ぎ、時間帯も少し早いせいか店内は閑散としていた。

「二人です」

 曲がりなりにも男女のペアなので半個室へ通される。

「好きなものどんどん頼んで」「そんな悪いですよ」「良いの良いのお詫びだから」「はあではお言葉に甘えて」地球上で一日五百回ぐらい行われるようなやり取りをして、串・刺・生など注文する。間も無くして酒が運ばれてきた。意味もなくカンパーイすると、瀧女史は豪快に中ジョッキを空にして「追加あ!」と言う。

「学校大変なことになってますね…」と話を切り出したのはあゆむの方だった。「過去最多の休学停学退学者を出したとか」ただの世間話なのか懺悔なのか。しかし自分が騒動の一端を担っていることは言わなかった。「もしかして瀧先生も結構困ってたりします…?」

「お歴々はてんやわんやみたいだけど、私はあんまり関係ない。下っ端だから。むしろアイツが大変な目にあっててざまあって感じでアガる」

「アガる…」その言葉に少し救われた。

「そんなことよりさ、あー言いづらいんだけど、この間は恥ずかしい所見せちゃったね」

「恥ずかしい所…」無駄に胸が高鳴るが、そんな嬉しいものを見せてもらった記憶はない。「何でしたっけ?」

「えー忘れちゃったの? 私は結構気にしてたんだけどっ!」

「……」言われて考える。「あ」完全に忘れていた。ここ最近立て込んでいたせいだ。

「…すみません」

「もう! …まあいいや。とにかくこれでチャラってことで。ちょっと感情的になりすぎちゃった。反省します。ごめんなさい。大人げないです」

「いえおれも軽率な発言を…」

 とはいうものの再度地雷を踏まないかというと分からない。ゆえに地雷である。

「瀧先生も日々苦労していらっしゃることは想像に難くないです」

「まあ生意気」

「ぼくで良ければ、その、愚痴ぐらい聞きますけど?」

「んー駄目」

「…駄目ですか」

「もっとお酒が入らないと駄目」そういうと再び「追加あ!」

 その後も瀧女史はえらいハイペースでちゃんぽんする。しかもつまみに全然手をつけないのだから、こいつはモノホンの酒飲みだ。日本酒を塩で飲む人って都市伝説じゃなかったのか…。

 店内はにわかに賑わいをみせる。

 あゆむが二杯目のグラスを空にする頃、ふと彼女を見ると目が座っていた。がっつりと胡座をかいている。「ねえ、最近芯嶋くんとはどうなの?」酔っ払い特有の甘ったるい喋り方に総毛立つ。タイムリーな話題である。しかし隠すことでもないので正直に答えた。

「見限られました」

「そう。勝手なことするわね」瀧女史は空のジョッキをぶんぶんと振り回しながら「昔からそう!」分かり易すぎる酒乱だ。「…ねえ、愚痴って良い?」

 きたと思う反面、己の発言を後悔する。しかし今更退くに退けない。「どうぞ…」

「この間『三人で昔は良く遊んでた』って言ったじゃない?」

 瀧と芯嶋とあともう一人のことだ。同時にそれは《時かけ事件》の発端でもある。あゆむの周りに機雷がプカプカと浮かぶのが分かった。酔った勢いで触れようものなら次々誘爆して大変なことになる。こんなチンケな居酒屋吹っ飛ばすくらいわけもない。

「ある日突然芯嶋くんが『おれは抜ける』とか言い出して、それ以来遊んでくれなくなっちゃったの。理由を聞いても教えてくれないし、残された私と桐森くんは途方に暮れて、しょうがないから二人で遊んだ。そりゃあ楽しくなかったって言ったら嘘になるし、桐森くんのおかげで今の地位にいられるんだから感謝もしている。でもなんか違うっていうか、てか三人じゃ何で駄目なわけ? 三人でうまくやってたじゃん! 説明責任を果たせ! ぬがああ!」

 暴れる。あゆむのスネに蹴りが入る。「……」ほろりと涙をこぼしながら思う。なるほど時かけは図星だったわけだ。

「だから今日はぶっちぎってやったわ!」

「先約があったんですか?」

「だってあゆむくんの方が良いもーん!」

「ーーげほっ!」

「会ってもどうせ喧嘩ばっかりだもん!」

 ところで今回サシで飲むにあたって、あゆむは一つ目標を定めた。それを達成すべく行動を起こすならこのタイミングしかない。そして大いなる一歩が踏み出せたのは、ひとえにアルコールのバックアップのおかげである。ありがとうルーズベルト。

「その…つかぬことをお伺いしますが、桐森さんはつまり…彼氏的なやつですか?」

「…どうなんだろうね」

 瀧は突如としてしおらしくなる。ジョッキを持ったまま机に突っ伏した。

「長く居すぎてよく分からなくなっちゃった。でも私そういう目で見られると引いちゃうから、桐森くんといても平気だから、多分違うんでしょ? ねえあ、あゆむくん。芯嶋くんは何で私から離れていったのに、桐森くんは一緒にいてくれるの?」

 答えられない。経験不足というより自分がおいそれと答えてはいけない気がした。

「おれが答えることは出来ません」

「…いじがる」

「でも『しょうがない』とか言ってやらんでください」

 正直なことを言えば、瀧女史の答えは限りなくあゆむの望むものだった。本来なら万歳三唱ののち小躍りでもしたい所だが、今回は事情が事情である。素直に喜べないし同情もしてしまう。誰に? 強いて言うならすれ違っただけのチキン野郎にである。

「あゆむくん、私また三人で仲良く遊びたい」

「…はい」

「こんなこと頼める間柄じゃないってのは分かってる。きみに頼むのは筋違いだけど、でもこんなお願い出来る人他にいない…。きみと芯嶋くんの仲を見込んで、私たち三人の仲を取り持って欲しいの。あの頃みたいにまた戻りたい…」

「お安い御用です!」と胸を叩いてから「あ」安いは安いが、安請け合いである。つい数時間前に袂を別つたばかりだ。くそお、アルコールのせいだ。ルーズベルトが悪いんや。

「嬉しい…」

 だがその笑顔を見せられてたら、吐いた唾は飲めない。

「それじゃあじゃんじゃん食べなきゃね! すんまへーん焼そば大盛り!」

「このタイミングで? 宴もたけなわですよ! 正直お腹も満たされてきたというか…」

「…空いてないの?」

「貧乏学生は常に空腹です」

「私たくさん食べる男の子って好きよ」

「チャーハン大盛り追加あ!」

「すごーい健啖家!」

「…それはあなたもです。あと一緒に食べましょう。胃袋が心配」

「ほほーい!」

 彼女は普段の大人の女性像とは打って変わって、メチャクチャに取り乱して天真爛漫で八方にあどけない笑顔を振りまく。人によっては幻滅ものの醜態だ。しかしあゆむは見たことのない一面を見れて逆にときめく。心底惚れちまっていることを再認識した。彼女の力になりたいと思う。と同時に青臭い悩みなど切り捨てて、新しいものに乗り換えた方が建設的ではなかろうか。ここまで自分を放っておいた男に何の価値があるというのか。

「ねえ若い子から見て私ってどうかしら」ジョッキ片手にシナを作る。「クリスマスケーキには間に合わなかったけど大晦日には滑り込みセーフだし、結構イケてない?」

「い、イケイケです」

「でっしょ? やっぱりねー。あっつーい。ボタン一個は外しちゃおうかしらん?」

「…からかわんといてください」

「あははーすまぬな少年」言ってずぞーっと焼きそばを吸い込む。

 両頬にハム並みに詰め込んだまま「…ほひほへっほほ」と呪詛を唱えた。

「え?」あゆむは聞き逃さなかった。間違いなく彼女は『乗り換えちゃおっかな』と唱えたのである。ハムで。もちろん各停から特急ではない。この場合の乗り換えるとは『そういうこと』である。乗り換え先は不明だがしかし状況から判断するに、もしかしてもしかするのか?

「じ、自分立候補しても良いっすか?」即座に参加表明すべく諸手を挙げた。しかし口から出た言葉は「じ」までであり、両手も挙がり切らずお手上げ状態である。

 予期せぬ第三者の介入である。

「おいこんな所で何をやっている」

「桐森くん…」瀧女史は男を見上げ、大きな目を一層大きくした。「どうしてここが…」

「……」この人が桐森、あゆむは思う。この際だからじっくり観察してやる。わりに整った顔立ちである。短く刈り上げた黒髪、太い眉と真一文字に結ばれた口、身体中の毛穴から男臭さを放っていた。これがファッキンチキン野郎…? チキンというより大鷲である。

「お前の行動範囲など知れたこと」桐森は言う。「それより俺との約束はどうした。話はまだ途中だろ。とにかく帰るぞ」

「…やだ。らない」童女のようにむくれる。もちろん手にはジョッキだ。「帰らない!」

「立場を考えろ。ここは学生の目があるんだぞ」

「やん! やん! やんっ!」飲みさしのビールを撒き散らし箸や皿が畳に落ちる。

 桐森は瀧を抑えるべくやおら手を伸ばす。が

「嫌がってるじゃないっすか」届かない。あゆむはネギまの串を彼の喉笛に突きつけた。「あんた、手え汚ねえよ」何を隠そう彼もまた酒が回り始めていたのである。

「あん? 誰だ貴様。そっちこそタンパク質臭い手えどけろ」

「あんた、この人と付き合ってるわけじゃないんでしょ?」

「……」痛い所を突かれたのか桐森は黙り込む。「…瀧がそう言ったのか?」

「関係ないっしょ? おれのエンジェル傷つけるやつは、ねぎまにして食っちまうぞっつってるんすよ」

「おい! 喧嘩は他所でやれ」厨房から店主の胴間声が轟く。「それともここの流儀に則るなら、その喧嘩うちが預かる」ダン! と、カウンターに置かれたのは霜の降りたテキーラだ。

『喧嘩?』『まじか!』『阿呆学生だ!』『恋の鞘当てってベタすぎだろ!』『おいテーブル片付けろ!』『久しぶりにきたあ!』所々で野太い歓声が上がる。直後、人とものが一斉に移動を開始した。手際の良さに目を見張る。店員と客が一丸となってあっという間に椅子やテーブルを隙間なく積み上げた。テトリスだったら消えてるぞ。店の中央にポツンと一脚だけ残して、彼らはぐるりとそれを囲む。窓ガラスが震えるほど歓声があがり、二人の元へ人の波が押し寄せ、あれよあれよと中央へ流されていく。同調圧力に屈するのか威借あゆむ。否! これを好機としないうつけ者がどこにいるか!

 男たちは口々に桐森に声をかける。『お前沖縄出身か?』『結構良い体してんなあ』『こいつは期待出来そうだ』『よお、てめえに持ち金全部賭けるぜ』対してあゆむは『ガリガリだ』『飯食ってんのか?』『死ぬんじゃねえか、コイツ』と、心配の声すらあがる。

 下馬評では圧倒的に桐森が優勢であり票差がありすぎて賭けが成立しない。

 厨房の店主と目が会った。

「おいボン、いいのか?」

「男にはやらなきゃならない時がある」

「吐いた唾は飲めねえぞ」

「あんたこそ、酒切らすようなだせえ真似しないでくださいよ」

 あっけにとられた店主は、くわえタバコを床に落とす。しかし即座にそれを踏み消して「俺はジャリに三十だ!」万札をカウンターに叩きつけた。

『おいチーフがガキに賭けたぞ!』『こりゃあ一波乱あるな』『あいつ何者だ?』

 男同士通じあうものがあった、わけではなく商売人としての戦略である。

『ハンサムに五!』『同じくハンサムに六!』『ガキに七! ラッキーセブンだ!』『俺も手堅くハンサムに二』『玄人気取ってんじゃねえぞ。俺も二』『楽しそうなことやってんじゃん!』『わっ青田買いの姉御!』『あたいはガキに十賭けるよ!』『わしはハンサムに十五じゃ!』『ギャンブルじじいだ! くっせえ!』『ホームレスなのにどっから金持ってくるんだ?』『ガキに三!』『ハンサムに六!』『ハンサムに四! あえての四だ!』……。

 野次と賭け金が飛び交う中、あゆむと桐森は机を挟んで向かい合う。二人の心境は凪。周囲が熱をあげればあげるほど、嘘のように心が落ち着いていく。

「貴様、名を名乗れ」

「悪党に名乗る名はねえ」

「俺の名は桐森千一(せんいち)酒豪」

「あゆむ、威借あゆむ。大晦日にケーキを食べるものっす」

「はあい、ライムとレモンと塩」いつの間にかサロンを付け、ウェイターとなった瀧女史が山盛りのそれらを二人の脇に置く。「塩で金とるなんてアコギね」

 新品のボトルの口を開け琥珀色のトロトロをなみなみとショットに注いだ。

「じゃ、ファイ!」

 戦いの火蓋はあっさりと切って落とされた。

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