第8話


「一機帰ってきたぞ!」

「回収急げ!」

「桐生、貴様も来い!」


 ラボール防衛戦に備えて機体の最終チェックをしていた桐生イリヤは、響く絶叫と眼前の光景に唖然としていた。――きっと三笠だ、お前も来い。そう言った整備長とは同意見で、あの片羽の零戦は武吉なのだという確信がイリヤにはあった。あの状態で千キロ以上飛んでくるなんて、失神しても操縦をやめないアイツにしかできない。ふらつきながら高度を落とし、倒れるように浅瀬に滑り込んだ零戦は、左翼が半分も吹き飛んだうえにキャノピーがバキバキに割れている。


「よくこの状態でここまで……」

「さすがに《新人王》、《南洋の羅刹》と呼ばれるだけのことはある……」


 感嘆する整備士たちを押しのけて、ぼろぼろの機体に駆け上がったイリヤは操縦席を覗き込んだ。計器板までもが粉々で、本当にもう、ひどい有様だった。


「武吉……!」


 操縦桿を握ったまま項垂れ、みじろきひとつしない武吉は血まみれだった。最悪の事態が脳裏に浮かび、歪んだキャノピーを強引にこじ開けて手を伸ばした。


 胸に手を当てる。微弱ながらに鼓動はある。

 手を握る。指が動く。


――確かにまだ生きている。心底安心したイリヤは大きく息をついて、抱き上げて操縦席から引き上げた。失血がひどい。唇まで蒼白になった武吉は、息をしているのに死んでいるみたいだった。


「桐生」


頬と胸に大きな傷を負った武吉を、自分ではどうすることもできない。大人しく軍医に引き渡して気持ちを切り替えようとしたところで、イリヤはここを取りまとめる井町大佐に呼び止められた。与えられた防衛任務を完遂するために備えないと――と思っているイリヤは、思わぬ邪魔に少し苛立っている。


「……何でしょうか、井町いまち大佐」

「収容艦隊から要請があった。撃墜された三笠の代わりに、上空掩護を出して欲しいそうだ。……桐生、行けるか」


 井町の言い草にも苛立ったが、きつく拳を握りしめて耐えた。分かっている。どんな気持ちになろうが空いた席はすぐに埋めなければならないことも、一秒でも早く決断しなければならないことも、それらの迷いが勝敗に大きく影響してしまうことも、イリヤはよく理解している積もりだ。


「――桐生一等兵曹、承ります」


 井町からの申し出を即決で受けたイリヤは、眼光鋭く敬礼した。力強く頷き返し、整備長に「長距離飛行できるよう調整せよ」と命令する井町に続き、三笠機から離れて出撃準備に取りかかった。


 別に、武吉とイリヤの仲が良かったからと役が回ってきた訳ではない。そんな人情的な理由ではなくて、ただまともに夜間飛行できる搭乗員が、現時点で自分しかいないというだけの話だ。それも良く理解しているイリヤは改めて搭乗員の技術低下を実感し、内心で嘆く。


 しかし、技術が低下しようが戦術的に劣ろうが、戦争を始めた以上はやらねばならん。自由な社会をつくるにも、異民族も有能だと示すにも、戦い生き抜かなければ話にならない……。


(考えたって、現状は変わってくれねえんだ)


 嘆いて今が変わるのならいくらでもそうするが、そんなに甘い世界ではないことくらい知っている。俺は俺にできることをするまでだ。もう一度だけ片羽の零戦を振り返り、頬についたままの血を拭って水平線を見据える。完全に気持ちを切り替えたイリヤの目は、静かにギラついていた。



         ※



  武吉に代わって基地を飛び立ち、敵と相見えたのは兵士たちを積み終えた後だった。まだ日の昇らぬ朝方に、ルンガから少し北上したボーゲンヴィルへ向かう。大勢を積み込んだ艦隊を守るのが、誰より夜目の利くイリヤに与えられた役目だった。


 どうしようもない程の大群、というわけではないが、自軍の倍は飛んでいる。大きく頑丈な機体はどれも復座で、きちんと連携して挑んできているのだろう。対する自分は一人きり。単座でほぼ単身の出撃だった。それだけでも戦力に大きな差がある。はじめから劣勢気味の形勢だったが、だからといって絶望はしない。常にマイナスからスタートしてばかりの人生だったイリヤは、この状況には慣れている。乾いた唇を舐め、操縦桿を握りしめて正面を睨んだ。


 カメリアは、連合軍は航空隊を強化させている。進化を続け、きっちり整備され、数も増えて、性能だって良さそうだ。なのにこちらときたら装備も古いままだし、整備もままならない機体にはツギハギが目立つ。これでもまだ良いほうで、こうしてきちんと飛べるのも整備員たちの努力の賜だ。何もかもが足りない状態でも尽力してくれているのだと思うと、感謝してもしきれなかった。


 圧倒的に足りないのは、御上の理解と判断能力だ。奴らは航空戦力を蔑ろにしがちで、最近になって増強させる方向に転換したそうだが、それではあまりに遅すぎた。今からあれこれ始めたって、搭乗員を育てるには少なくとも三年はかかる。三年もあれば追いつけない程の差が開くに決まっていて、現に夜戦に対応できる搭乗員が底をついていた。だからこんな暗闇でひとり、複数を相手取らなければならなくなるのだ……。


――海戦は艦隊同士の戦に限る。航空戦力など添え物に過ぎん――。チューク島に駐在していた頃に聞いた高級将校の言葉を思い出し、操縦桿を握る手に力がこもる。何をバカな。イリヤは向かう敵にアタックしながら、苛立ちで舌打ちした。お前らみてえに頭のカタい奴らが上に居座るから、何も変われず負けてゆくのだ。


 どんなに巧みに操縦しても、四方から撃ち込まれる砲撃は機体を掠める。致命傷を受けない程度にやむなく浴びるが、それがたまらなく屈辱だった。早速割れた風防が突き刺さり、腕からボタボタと血が流れる。なんだこんなもの。瞬く間に赤く染まった腕を一瞥して、敵だらけの空を睨んだ。


 激しく痛むのも無視して、イリヤは操縦桿を思いきり引く。ぐぐ、と機首を持ち上げて急上昇し、射程範囲から逃れるも形勢不利は終わらない。思った通りに追跡してくる敵機と不自由な体が鬱陶しくて、繰り返し繰り返し、舌打ちした。


 手前、俺の体のくせに俺の邪魔をするな。


 重力のせいで腕から溢れ出る赤がしぶいて、視野中に広がって見えづらい。イリヤは瞬く間にぼろぼろになった自身に鞭打って、逆転を狙って上昇を続けた。


「いい気になるなよ、一騎打ちなら絶対に俺が勝ってんだ……!」


 イリヤはひとり吠えながら、今度は降下しながら急旋回する。強烈なGに押しつぶされそうだ。目眩がする。息苦しい。三笠の奴は毎回こんな付加を受けながら飛んでいるのか。改めて武吉の実力と異常性に畏怖を感じながら、眼前に見える敵機に向かって機銃発射ボタンを押す。タタン、という音と同時にキャノピーの脳天が弾け、空中で炎上した。


 ぐらりと落ちゆくそれからすぐに目を反らし、イリヤは次の敵に狙いを定める。お前たちを艦に近づけるわけにはいかない。熱意も決意もしっかりあるのに、すでに体がついていかなかった。風防の破片が突き刺さった腕にはもう感覚がない。血だってさっきの急降下でほとんど流れ出てしまって、操縦席は赤くべしゃべしゃに汚れていた。視界が狭い。体が重い。味方の援護なんかなくて、一人きりで闇に紛れる寂しさも身に堪えた。


――畜生、こんなのどう勝てっていうんだ。俺は、絶対に帰らなきゃならないのに。


 珍しく泣き言を吐いたイリヤの脳裏に浮かんだのは、重傷を負って戦線離脱した三笠武吉だった。


 合気道やりたい、お前の祖父母に会ってみたい。内地に帰ったら是非うちに寄ってくれ、兄や義姉、甥に姪、それから花江にも会わせたいなぁ。あれから自分のことも話すようになった武吉は、天真爛漫な笑顔でそう言っていた。予科練時代の暗い印象は何だったのかと思うほどの朗らかさに面食らったが、きっとこっちが彼の本性なのだろう。


 夢見心地で希望を話すが、約束がないと生きられないのは変わらないらしい。さりげなく約束を混ぜ込み、それを守るために意識を飛ばしながらも帰ってきた。だから俺も守るべきなのに……もう体力も弾もない。こんな状態ではろくに戦えず、あとはもう死ぬのを待つだけだった。


(じわじわ死んでいくのも、ただ墜とされるのも嫌だ)


 一機でも多く撃墜して、華々しく散って、錦を衣て郷に還るのだ。ただでなんて死んでやるもんか。英霊として帰郷すればどんな奴でも持て囃されるから、京都で肩身の狭い思いをしているばあちゃんの気持ちも楽になるはずだ。


 悪いな武吉、後は『御守り』の子のために生きてやれ。最後の気力を振り絞って笑い、なんとか動く左手で操縦桿を握り直した。ぐるりと旋回して方向を変え、敵機と真っ向から向き合う。操縦ミスとでも思っているのだろう、チャンスとばかりにせせら笑っているパイロットの目からは嘲りが見える。その慢心が命取りになるんだと嘲り返して、イリヤは全速力で前進した。


――お前も死ぬんだよ、バカ。


 にやりと笑んだまま、イリヤは躊躇いなく《ワイルドキャット》に突撃する。別に恨みも怒りも抱いていない相手を道連れにするのは心許なかったが、仕方がない。これが戦争というものだ。



『金目か、縁起が良いなあ』



 ぶつかる直前だったか直後だったか、声が聞こえた。初対面の頃の武吉の声だった。散々忌まれてきたこの目を、そうして敵意なく褒めてきたのは奴が最初で最後だったから良く覚えている。このときから俺は、お前となら上手くやれると信じていたんだ。お前の目付役を担い、友好関係を築けた半年間はなかなかに悪くなかった。強い衝撃に目の前が弾け、赤く塗り潰されていく。その刹那に見えたのは最愛の祖父母で、寄り添い幸せそうに笑んでいた。


――じいちゃん、ばあちゃん、俺は二人の孫で本当に良かった。幼少期からの思い出が一気に蘇り、更に唯一の友人である武吉との思い出が上乗せされ、懐かしさと惜しさで泣きそうになる。でも後悔はしていない。ひしゃげたキャノピー越しに見えた相手の死に顔は凄惨だったが、イリヤの心は穏やかで温かかった。


 俺の役目は終わった。《ワイルドキャット》二機を道連れにして、夜明けの南洋に砕け散る。白みはじめた空と立ち上る朝日を、桐生イリヤは見なかった。





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