第7話
戦況は芳しくない。どれだけ交戦を繰り返しても、人員を増やしても、新たな策を講じても、もはや制圧区域は拡大しなかった。制空権も制海権もほとんど奪われてしまって、補給もままならなくなった南方戦線は孤立し始めている。三笠武吉は零戦の操縦席で計器板の点検をしながら、これまでのことを顧みた。
マライ沖海戦から始まり優勢が続いていたが、劣勢に傾きはじめたのは珊瑚海海戦からだと思う。極東側は「自軍の大勝利」と主張し報道していたが、実質の収穫と言えば、正規空母一隻を沈没させたくらいだ。対する極東は軽空母と大勢の熟練搭乗員を失っており、特に後者が大問題だった。搭乗員が足りない。今は航空主導で戦争が進んでいくのに、それを実行できる者が圧倒的に足りなかった。
搭乗員の喪失は、まだまだ続く。ミッドル海戦では教育課程を修了したばかりの若手を大勢失い、五ヶ月に亘り実行されているルンガ島攻略作戦でも、帰還した機は出撃したときよりも遙かに少なくなっている。このラボールには、イリヤの他にも十数人の同期がいたはずだ。なのにもう、自分とイリヤしか残っていない。検閲を免れる《革新派》独自のルートで届いた回報によれば、航空兵の殉職率は七割を超えているらしく、武吉もいよいよ危機を感じていた。
これから武吉は、停泊中の艦隊と共にルンガ島へ向かう。何度トライしても制圧が叶わないルンガからの撤退がようやく決まり、駐留している陸海軍の兵士たちを回収する作戦が決行されるのだ。彼らを収容する軍艦を掩護するのが今回の役目で、武吉はいつもより随分とモヤモヤした気持ちで臨んでいる。
遅い。何もかもが遅すぎる。なぜこんなにも被害が拡大する前に撤退を決めなかったのか。軍令部は、兄は何をしている。作戦を担う部署にいるはずの兼吉に苛立ちを覚えたが、読んだばかりの回報と《軍令部第一部七課》の特殊性を思い出して思い止まった。彼が所属している七課は、独自の視点と手段で情報をかき集め、作戦を提示していると聞く。回報の情報と現場の状況が一致しているあたり、彼らの中立性と手腕は確かなのだろう。
だとしたら、この機関は軍令部内で上手く機能できていないのか? なぜ……と思ったところで、そんなの考えるまでもないかと思案を放棄した。仕組みなんて単純だ。軍令部上層部は《保守派》、七課は《革新派》。ただそれだけだ。近年の兼吉と称壱の関係がそれを如実に表しており、不快を通り越して失笑する。
――これ以上、南方で戦う意味はあるのか。許されざる疑念が、武吉の中に湧く。
人員、燃料、食料、戦術など、ありとあらゆる事柄に於いて大きく差がついてしまったカメリアに勝てるビジョンが見えない。戦争を始めてしまった以上、領地を拡大し続けなければあっという間に衰退してしまうのだろうが、僅かに拡大する代償として多くを死なせては割に合わない。武吉としても「多くを生かすために多くを殺す」決意はなんとかしたが、「多くを死なせるために多くを殺す」ことについては受け入れることができなかった。この度ようやく撤退が決まったが、この回収作戦ではいったい何人が死ぬのだろう……。
「三笠」
いつものように、閉めたはずのキャノピーを全開にしてきたのはイリヤだった。出撃前に声を掛け合う関係は、あの殴り合い以降も続いている。搭乗のタイミングがズレていれば行っている恒例行事に便乗してきた奴は何人かいたが、無遠慮にキャノピーを全開するのはイリヤだけだ。
「――桐生。大丈夫だ、俺は死ぬつもりなんかない」
ゴーグルを上げて金色の瞳を直視して、武吉は努めて明るく振る舞った。彼が眉間に深い皺を刻んでいるときは、決まって死にたがっていると思われている。死にたいと思ったことなんかないのに。無理を押して何度も出撃するからか? しかしそんなの、人手が足りないのだから仕方がないではないか。
「三笠。お前、必ず帰って来いよ。墜とされたら俺が許さん」
マフラーを引っ掴んで、脅すように言うイリヤは荒々しい。人を殺しそうな程に険しい目をしていたけれど、根は優しく器の大きいやつだと知っているから怖くはない。
(きっとイリヤは知っているんだろうなぁ……)
荒々しさの中に滲む暖かさに薄く笑んで、陰っていようがきらぎら光る金色を見る。武吉はいつからか、約束がなければ生きられなくなっていた。それがいつからなのか定かではないが、ひとつ果たせば次の約束へ、それも果たせばまた次へと進んでいくしかできず、それがなくなれば前に進むこともままならない。それを知っている兼吉や紗代子は『春に桜を見よう』と言ったのだろうし、一甲も絶えず『野球をしよう』と誘い続けてくれたのだろう。そしてイリヤは、『生きて帰ること』を約束として提示し、生きる活力を与えようとしてくれている。
「……戦争が終わって内地に帰ったら、俺も合気道やってみたい」
イリヤの心遣いは大変嬉しかったが、どうせ約束するならもっと有意義なことが良い。少し先のことではなく、もっと先の、光と希望に満ちあふれたような、日常的で些細なことが。
マフラーを掴まれたまま言う武吉の目は、ひどく穏やかだった。何を唐突に――と思ったが、そういえばあの殴り合いの後、ばあちゃんと実家の道場の話をしたんだったなと思い出す。争わない武道、万有愛護の精神に興味を示していて、喰い気味に話を聞いてくれていた。いつかばあちゃんやじいちゃんに会わせてやると口約束して、合気道については……どうだっけ。教えてやると言ったような言っていないような。話したときは半分寝ぼけていたから、記憶に自信が持てない。
「桐生、得意なんだろう? 師範代だって言ってたし、予科練時代にもあいつは強いって話題になってた」
「――俺は甘くねぇぞ」
「その方がいい。頼むよ、先生」
まあ記憶なんかどうでも良いかと開き直って、ニヤと不敵に笑いあって拳を突き合わせた。出撃が近い。上官や整備員たちの声にそれを感じ、武吉はゴーグルを下ろす。
「もう一度言う。生きて帰れよ」
「桐生も。ラボールの防衛は任せたぞ」
突き合わせた拳を握り合わせて強く頷きあい、キャノピーを閉め切った。フルスロット。発進の最終準備を開始。エンジンに異音が混じるようになってきたが仕方がない。これでもまだ良いほうだと言い聞かせて、出撃の合図を待った。
無意識に手を当てた胸のポケットには、遠征前に花江に持たされた『御守り』がある。――お兄と私の代わりにこれを持って行って。そして無事に帰ってきて、私と結婚してください――。そう言って、泣きながらその場で毟り取った、彼女の制服のボタンだった。あまりに重い約束で、生きて帰っても多分守ってやれないだろうと思うと申し訳なかったが仕方ない。自分の常識と世間の常識は大きくかけ離れており、一緒になったところで苦労をかけるだけならならない方が良い。人気のバスガールだし、随分美人に育ったし、貰い手なんていくらでもあるだろう。幸せになれよ……と胸の『御守り』に語りかけ、合図と同時に飛び立った。
※
敵機との接触があったのは、目的地のエスペランス岬が見え始めた頃だった。もう何度も見た《ワイルドキャット》に向かって突っ込んでいくが、いつもはあまり感じない焦燥と、漠然とした不安が全身に張り付いて離れない。読んでしまった《革新派》の回報のせいか、「三笠武吉」を取り戻してしまったせいか、止まない異音のせいか。
――そんなもの、考えたって仕方がない。
武吉は一息ついて、視界にチラつく《ワイルドキャット》を睨んだ。迫り来る敵機と炸裂する機銃に沸々と闘争心が湧いて出て、徐々にいつものカンを取り戻していく。急上昇したところを追跡させて、ぐぐ、と小さく旋回して背後に回り込んで叩く。撃った機銃が命中し、火を噴きながら落ちていくのを確認しながら、次の獲物を求めてぐるりと周囲を見渡した。方向転換してすぐに見つけた敵機に向かって突進しようとしたところで、ガッと何かに引っかかったような感覚と共に、急に失速してしまった。
(今のは……?)
今までに経験のない不調に気を取られている間に、大きな衝撃と痛みが全身を貫く。
「ああ……畜生……!」
唸るように吐き捨て、睨んだ計器板は割れて砕けている。狭くなった視界の端に見える黒煙に視線を滑らせ、見えた光景と操縦の状況を瞬時に照らし合わせた武吉は、過去最高に絶望的な気分になっていた。
翼だ。翼をやられた。穴が空くか削げ落ちるかしたらしい左翼から吹き出る黒煙を睨み、武吉は歯噛みした。計器板の破片が突き刺さった頬や胸元から血が滴り、白いマフラーが瞬く間に赤く染まってゆく。ただではやられるもんか。すかさず機銃を撃ち込んで反撃し、自分と同じようにバランスを崩して降下していく敵機を見送って大きく息を吐く。
どうする。今までにない危機に、武吉は焦っていた。着水すれば航路の妨げになるし、最寄りのルンガ飛行場へ行けば基地に敵をお招きすることになってしまう。かといって着艦可能な軍艦もない。
――こんなところで。
いつにない大量失血に朦朧としながら、片羽の零戦で飛ぶ武吉は自身の終わりを予感していた。でも、どうせなら空中戦の最中に、壮絶に華々しく散りたかった。じわじわ墜ちるのを待って死んでいくなんて、そんなの嫌だ。目立つ戦果を挙げて、名を上げて……南方戦線で活躍した《南洋の羅刹》は三笠兼吉の実弟なのだと内地に伝われば、兄らは今より戦いやすくなると信じている。だからこんな緩やかな死に様なんて……そんなの……
――生きて帰れ。必ず。
朦朧と死に方を探っているうちに聞こえた声は、誰のものだったのだろう。兄のようでもイリヤのようでもある声を聞いて、武吉は放棄しかけていた操縦桿を握り直した。
「……そうだ……俺は……生きて……」
ほとんど譫言のように呟いて、虚ろな目で正面を見据える。まだ何も成していない。兄に恩を返せていない。死んだ父の代わりに自分と母を守ろうと、全てを諦めた十五歳の兄の姿が脳裏に浮かぶ。不満を漏らすことも泣くこともせず、ただ耐え忍ぶ力強い背中。それに憧れ追いかけ、時に後ろめたさを感じるだけの人生だった。こんな人生、他人からすれば馬鹿馬鹿しい話なのだろう。けれど武吉はこの生き方を悔いたことはないし恥じたこともない。圧力をかけられ続けてズタズタになったその背中を、今度は俺が守る。いままで散々苦労してきた兄に、少しでも楽させてやるのが俺の夢――。
「兄さん……」
血でべたべたになった唇を噛んで、にっと笑う。それを境に視界は暗転し、三笠武吉はそのまま意識を失った。
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