第6話


 武吉は《三笠の弟》であることに違いないが、いま重要視するべきなのは、彼が貴重な搭乗員であることだ。帰省のあいだに決行されたミッドル海戦や先のメラネシア海戦、そのほか日々の敵襲によって多くのパイロットが死んだ。極東陣営の航空戦力は需要が高まれば高まるほど弱体化の一途をたどり、戦績だけは抜群の武吉を喪うことは致命的だった。


 武吉も搭乗員のひとりなのだから、この現状を理解していると思いたい。けれど彼の行動からはそれが見えず、身内にまで航空戦を蔑ろにされているようで嫌だった。


 三笠武吉はなぜ生き急いでいるのか。なぜ戦っているのか。日頃の彼からはそれが見えないし、言おうともしない。予科練時代はやたらと聞いて回っていたのに――いや、だからこそか。あの頃の同期たちの答えは軒並み同じで、いずれも戦争賛美的なものだった記憶がある。だからこそ、武吉は言おうとしないのだろう。だって彼は、「違えば弾圧されてしまう」ということを、嫌と言うほど知っているのだから……。


「俺は、」


 武吉が答えを迷っているうちに、先に口を開いたのはイリヤだった。問い詰めるだけでなく、こちらから何か出せば心を開いてくれるかもしれない。そう思っての行動だった。警戒されているのなら和らげる必要があったし、できる自信もあった。だって俺も、別に国のためになんて戦っていない。


「俺はばあちゃんだ、ばあちゃんのために戦っている。混血だと蔑まれようが、今は何だっていい。俺が戦って勝って、混血だって有能なんだって証明すれば、ばあちゃんも……じいちゃんだって胸張って生きられんだって信じてる。だから戦う。たとえ俺が、死ぬことになっても」


 急降下爆撃で酷使させられたせいで震える手で胸ぐらをつかみ、イリヤは酷く潔い声で言い切った。野良猫みたいだった武吉の目が驚きで見開かれた後、柔くなるのを見届けて胸をなで下ろす。この作戦は成功だった。昔みんなの輪に入りたくて、容姿を超えて距離を詰められるようにとあれこれ考えた甲斐があった。あのとき報われなかった思いが今報われたようで、泣きたいほどに嬉しかった。



 そうだ。俺は国のためなんかじゃなく、ばあちゃんのために戦う。いつかじいちゃんが帰ってきたときに、二人が幸せに暮らせるように、混血だってやれるんだと思い知らす必要があった。


 イリヤは昔を思い出す。まだ京都に住んでいた頃のことだ。灰色に近い髪と金色の瞳のせいで親に捨てられ、祖父母のもとに預けられたときのことはよく覚えている。

『こんなことになったのもあんたたちのせいだ』『責任を取れ』。そう怒鳴る母の声は醜く低劣で、捨てられた悲しみも怒りも湧かず、ただただ呆れていたような感覚だ。昔すぎて、うろ覚えではあるのだけれど。

 


 技師として極東に招かれたルーシ人の祖父と、合気道の師範だった極東人の祖母。彼らが出逢った頃は両国の関係も良好だったというが、極東が軍事に傾倒してからはそれも完全に決壊してしまった。今では純正の極東人以外は蔑んで然るべきものになってしまい、外国人なんて論外だった。ハーフの母は祖母によく似ていたが、クォーターである自分は祖父とよく似ていて、それがどうにもいけなかったというのだ。


『お前のせいで不幸になった』。母はいつも、そうやって怒鳴り散らす。苦労してルーシとの混血であることを隠し続けたのに、イリヤが生まれたせいで全てが台無しになってしまった。不義を疑われて一方的に離縁されてしまった。憤死してしまうのではないかと思うほどに激昂した状態で、押しつけるようにしてイリヤを置き去りにした母には、それ以来会っていない。


 その日から『田上たがみやまと』だった少年は、『桐生イリヤ』になった。名付け親は、祖父のアリノルトだ。――これまでのことは気にせず、幸せになりなさい――。鋭い目を大げさに細め、柔らかさを演出しながらそう言っていた。祖父母のもとに預けられてからは、混血にしては恵まれた人生だったと思う。技師だったアリノルトの影響で機械いじりを覚え、祖母である景子に教わった合気道にのめり込み、師範代にまで上りつめた。『倭』だった頃とは比べものにならない程に充実した日々を送らせて貰っていて、何かに打ち込めることも楽しかったが、仲睦まじい二人を見ることがなにより幸せだった。


 人種差別は相変わらず苛烈で、この世は地獄かと思うことも少なくなかったが、二人を見ていればそれだけが真実ではないと思うことができたからだ。


 アリノルトと景子には、感謝してもしきれない。捨て子である上に混血というどうしようもないハンデを疎ましく思うたびに説いてくれた、「人種を越えた、中身で勝負する人付き合い」はひどく説得力があって、それを考えれば自然と前向きになれたものだ。


 どうすれば話を聞いて貰えるか?


 どうすれば桐生イリヤという人間を受け入れて貰えるか?


 あれこれ話し合っては考え、実践することも楽しかったが報われたことはない。目つきの悪い金色の瞳と、「外国人は憎い敵」と教え込む国家の方針に阻まれて、何をしても弾かれるだけだ。やはり人種の壁は厚く、色が違えば簡単にあぶれる。肌が白い。髪の色素が薄い。瞳が金色。ただそれだけの理由で虐められ、度々反撃するせいで生傷の絶えない半生だった。そんなイリヤを心配していることは知っていたし、アリノルトに至っては罪の意識さえ感じていることも知っている。だから、二人の不安を取り除くためにも強くなって、認められて、色が違うからって差別される世界を変えてやろう……そう思った矢先に、アリノルトはいなくなってしまった。天寿を全うしたという訳ではない。それならどんなに良かっただろう。ただルーシ人だというだけでスパイ容疑をかけられ、特高警察に連れて行かれてしまったのだ――。


 あの頃は、本当に無力だった。手荒く連行されていくアリノルトの背中を見送ることしかできず、今でも悔いが残っている。武術で抵抗しようとした自分に『絶対に手を出すな』と怒鳴った彼の言いつけを律儀に守ったが、それは果たして正しかったのだろうか。どんな手を使ってでも、あのとき自分が死んでしまったとしても、アリノルトを奪い返すべきだったのではないだろうか。崩れ落ちて泣き暮れる景子の背中を思い出すたび、イリヤは自問自答を繰り返す。考えても何も分からず、この六年のあいだに分かったことは、彼が無実の罪で獄中死したことくらいだ。


 けれど景子はそれを信じず、今でも帰りを待っている。だからイリヤも、アリノルトはいつか生きて帰ってくるのだと信じていた。



「俺は間違いなくルーシの混血だし、それを誇りに思っている。でもそれを否定したがる奴らばっかだから、文句言わせないように結果を残すんだ。何で外国人が駄目なのかっていう理由も答えられんくせに、差別しやがるヤツには何言ったって無駄だ。実際に見せつけてやらねえとな。お前らが蔑む外国人は、こんなにも有能なんだって」 


 そう言ったイリヤの目は、きらきらと輝いている。決められた答えを並べる今までの奴らとは違い、自分の決めた将来に必ず進むのだという強い意志が見て取れて、胸がざわつく。力の誇示だとか主君への敬愛のためなどではなく、国内に蔓延る差別をなくすために戦っている。兄に近しいものをそこに感じ、武吉は横隔膜の痙攣を予感している。


「……俺は……兄さんのために……無事に『自分で生き死にを決められる社会』を作れるように、兄さんたちが練った戦略で勝って実績を……」


 これを口にしたのは初めてだった。心から信頼していた一甲や花江にも言ったことがないのに、イリヤに言えたのはなぜだろう。目つきは悪いくせにその中身は温かく柔らかで、『普通』とは大きく異なるこちらを受け入れようとしてくれている。珊瑚海海戦の頃から感じていたが、この男は「違うこと」を否定しない。なぜもっと早くに気づかなかったのだろう。予科練生だった頃に気づけていれば、俺はこんなに――。


 イリヤに安堵した途端に視界が歪み、堰を切ったように大量の涙がぼろぼろ溢れ出した。安心感、情けなさ、歓喜、恐怖。今まで押さえ込んでいた様々な感情が混戦して、コントロールが全く効かない。情けない声だけは出すまいと唇を噛みしめても、嗚咽は止まってくれなかった。


地に足がついている。一人きりではない。ただそれだけのことなのに堪らなく切なくて、灼ける地面に転がったまま両手で顔を覆い、咽ぶ。予科練に入った五年前に死んだと思っていた「三笠武吉」に戻れたようで、武吉は久しぶりに、己の《生》を実感していた。




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