第5話
こちら側の景色のほうが馴染む気がする。鮮やかに青い空を見上げた三笠武吉は、愛機の整備が終わるのを木陰で待っていた。「何か手伝おうか」と申し出たが、「搭乗員は大人しくしておれ」と断られてしまった。飛行機に乗るか畑番以外にすることがなく手持ち無沙汰で、母が存命の頃は内職の手伝いをさせられていたからか、他が働いているのに自分だけ何もしない状態がいたたまれない。昼寝なんて論外だ、休まるどころか逆に気疲れしてしまう。
「三笠」
背後からの声に振り仰ぐと、そこに立っていたのは桐生イリヤだ。同じ時期に拝命し、帰省していたらしい彼とは横須賀で再会し、以降は共に行動することが多かった。逆光で顔はよく見えないくせに、金色の目は煌めいていて眩しい。太陽みたいだ。
「……お前なあ」
イリヤは、待てを出された犬のように正座している武吉を見下ろして呆れていた。過酷な出撃続きで体力を消耗しているのだから、読書なり昼寝なりして休むべきなのにそれをしない。じっとり監視するかのように張り付いて離れず、整備員たちもやりづらそうだ。注意しても「他にすることがない」の一点張りで、武吉は言うことを聞く気配がない。――読書なんかしたって気分が悪くなるだけだ。これが武吉の言い分で、戦争賛美が書き連ねられた書物の山を指差して大真面目に言うのだった。その気持ちは分からなくもなかったが、声を大にして言うもんじゃない。
こちらを見上げる武吉の顔は、思うよりも遥かに幼くあどけない。空中では苛烈なまでに敵を追い回すくせに、それが嘘のように穏やかだった。この子犬と、飛行機から降りても興奮が収まらずに暴れ藻掻く猛獣が同一人物とは思えず戸惑う者が続出しているらしいが、こればかりは慣れるしかない。これがあの《南洋の羅刹》か? と話題になったのは言うまでもなく、予科練時代とは違ったかたちで大きな波紋を呼んでいた。
「どうした桐生、また説教か?」
いい加減飽き飽きした、とでも言いたげな顔は生意気な少年のようで腹立たしい。人当たりが良さそうに見えて一癖も二癖もある武吉の目付役を拝命して以来、この顔はもう何度も見た。いい加減飽き飽きしているのはこちらのほうだ。
「嫌なら説教をされない生き方をしろ。俺だって、同じことの繰り返しで嫌気が差してるんだからな……!」
首根っこを捕まえて立ち上がらせ、引きずるように木陰から移動させた。整備員たちが『頼んだ』と力強く頷くのに頷き返し、この使命はなんとしても果たすとイリヤは決めた。
「桐生、引きずられても俺にはすることがない。畑の手伝いをさせてくれるのならそれでも、」
「駄目だ、バカ!」
相変わらず言うことを聞かず、あまつさえ過重労働をせんとしている武吉を怒鳴ったイリヤは、彼を振り返らず早足で歩き続ける。三笠武吉は休まない。どんなに優秀なやつでも重力と緊張感でかなり体力を消耗するはずで、彼の飛び方なら殊更に疲弊するはずなのに、次に備えて休息を取ろうとしなかった。『生きて帰る』と言い続けるくせして死に急いでいる印象が拭えず、もどかしさに身悶えている。
「暇なら俺が話し相手になってやる! 文句はあるか!」
イリヤは苛立ちを隠さず、怒鳴るように吐き捨てた。まるで売り言葉だったが、不満そうだった武吉の表情はパッと明るくなる。その緩んだ顔は、実家で飼っていたバカ犬のようだ。
これはいい傾向なのだろうが、一連の事情を知るイリヤは寒気がした。ほかの奴らのように距離を置く気はなかったが、武吉の異常性を改めて実感して唖然としている。
でも、そんなこと本人は気にしない。引きずられていたのが嘘のように、武吉の足取りは軽かった。今ではすっかり先行している彼を従えている様から思い出すのは、やはりあのバカ犬との散歩だ。
なんだかもう、あれこれ考えるのが面倒になってきた。二人とも馬鹿みたいに目立つせいで否応なく注視されるのも気にならないほど、桐生イリヤは疲弊していた。
※
満天の星に溶けていく航空機を、武吉は海辺で見送っている。これから索敵に出かける偵察機と護衛戦闘機で、後者にはイリヤが乗っている。地上に置き去られたようで不服を感じており、武吉はまた、奥歯をぎっと噛みしめた。
武吉はまだ、護衛任務に就いたことがない。護るための出撃なんて、さぞやり甲斐のあることだろう。けれどその鉢が自分に回ってきたことはなく、攻撃専門の搭乗員であるみたいに、航空撃滅戦に駆り出されるばかりだった。飛行隊に組み込まれることも叶わず、単機で飛ぶことが圧倒的に多かった。
――悔しいような、寂しいような。
物理的には近くにいるのに、精神的には死ぬほど遠くに感じているイリヤを思い、武吉はなんとも言えない寒々しさを感じていた。同じ搭乗割りに名を連ねたことは無きに等しく、同じ航空隊に所属しながらも、武吉は掃討、イリヤは護衛と任務内容は異なっている。だからだろうか、共に戦っている感覚が薄い。任務以外ではよく近くにいるが監視されている感が否めず、それもまた気になるところだった。
念願叶って会話はした。だが零戦の話ばかりで、個人的な、突っ込んだ話はできていない。探り探りというか信頼関係が足りないというか、やはり感じるのは見えない壁だ。それを思うと喉が詰まり、言葉にすることが出来なかった……。
「一甲と同じようにはなれないか……」
力強く輝く星を見上げながら溜息を吐き、呟く。イリヤに一甲を求めるのは間違っているし、失礼だとは分かっている。けれどあの安心感が忘れられず、喪った拠り所を、他の誰かに求めずにはいられなかった。
人と円滑な関係を築くには、どうしたらいいのだろう。心細い一人きりを、いつまでも脱却できない武吉は苦悶する。
自分が心から他人を信じない限り無理なのだと分かっていたが、信じようとした途端に
人は、いとも簡単に人を裏切る。学生だった頃はあんなに仲が良くて、兄の考えにも理解を示していたのに、それぞれが軍人になってからは酷いものだった。あれは不穏因子だ、あれの言うことは全てデタラメだから信じる必要はない――教壇に立ってしゃあしゃあと言う称壱の能面を思い出し、真っ黒い海を睨む。人なんて信じるもんじゃない。信じたって、その先にあるのは……。
そこまで考えて急に心細くなった武吉は、すでに見えない戦闘機を星空に探す。出国前に頭を撫でた兄の手を思い出してなんとか持ちこたえたが、間に合わせで繋いだ心の糸は、今にも切れてしまいそうなほどに頼りない。幼少期に染み付いてしまった甘えたな末っ子気質は、そう簡単には抜け落ちてくれないか。自分の至らなさが堪らなく情けなくて、武吉は砂浜に居座って項垂れた。
※
先に糸が切れたのはイリヤのほうだった。
乱闘の末に頬を腫らした武吉と、額に引っかき傷をつくったイリヤは揃って仏頂面をして、急降下爆撃の罰を受けていた。機首を思い切り下げる爆撃機さながらの姿勢で行う腕立ては通常のものより遙かに辛かったが、そんなもの取るに足らないと思うほどに、双方がひどく苛ついていた。
論点は「何のために戦うか」で、そもそもの原因は未だ止まぬ武吉の《異常行動》だった。はらはらする周囲など意に介さず、生と死の淵に居座り無茶な飛び方を繰り返す。その功績はたしかに大きかったが、決して褒められた行動ではない。熟練者に並ぶほどの撃墜数を誇る貴重なパイロットなのに、喪えば大きな損失になるのに、そんなもの知ったことかと言わんばかりに自分自身を労らないのが我慢ならなかった。
糸が切れそうな予感がしたのは、八月初旬の第一次メラネシア海戦後だ。ラボールから千キロも離れたルンガ島を巡った戦闘で、海上支援攻撃が必要だと武吉は名指しで駆り出されている。ただでさえ苛烈な航空戦に長距離移動が付随して、そのうえ終結に丸一日を要した長期戦であった。イリヤ自身はラボール防衛にあたっていたために参戦していないが、死ぬほど疲弊してしまうことなんか想像に易い。実際死んでしまった奴もいて、帰還した戦闘機は半分程度だったと記憶している。
そんな中、武吉はまた繰り返しの出撃を遂げている。
出撃先に待ち構えていた敵機を押さえて制空権を得た後は、ルンガ航空基地に収容されて、落ち着き次第ラボールに帰還する手筈だった。けれど彼は、そこで補給と休養を済ませてすぐに艦隊と落ち合い、戦場に舞い戻ったのだそうだ。そのうえ夜戦にまで参加して、その記憶はほとんどないらしい。バカか貴様は。思い出して苛立ったイリヤは、ぐっと唇を噛みしめた。ブツリと表皮が裂けて滴った血は、灼けるほどの日差しに流れ落ちた汗とともに、地面にシミを作る。
最も問題視しているのが、この記憶の欠如だ。「無我夢中になって」ならまだ可愛いもんだが、武吉の場合そうじゃない。新規導入した複座航空機のテスト飛行を二人で担当したことがあって、敵を見つけてそのまま交戦したときに思い知った。記憶がないのは当たり前だ。あの無茶な動作にあいつの体は耐えきれなくて、上空で失神するのだから……。
「三笠……っ、貴様はっ……何のために、戦っている……!」
処罰を終えて無様に転がりながら、もう何度目かも分からない問いをぶん投げる。起き上がるのもままならないほど体力を消耗し、息も絶え絶えだったが、この答えだけは何としても聞き出さなければならなかった。
「そんなものっ……はじめから決まっているだろう……!」
同じように消耗した武吉は、珍しく声を荒げて返事をした。怒気を孕んだ《南洋の羅刹》に見物人たちは恐れをなしていたが、そんなことで怯む俺ではない。イリヤは不格好にもぞもぞと起き上がってにじり寄り、逃すまいと武吉に覆い被さった。少しだけ怯えたような表情になったが、そんなもの知るか。
「決まってるのは貴様のなかで、だろう! 何が決まっている、言ってみろ、失神してまで飛ぶのはなぜだ、俺が納得する理由を言え……!」
意地とか思想とか、そんなものはこの際どうでも良くて、イリヤはただ理由を知りたかった。まるで命を削り取るかのように戦う理由があるのなら尊重するつもりだったし、立場を気にしてそうしているのなら、その意識を改めさせるつもりでいた。
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