第4話
封筒に入っていた紙束を見たのは、帰宅した夕方になってからだった。戦地で書かれたと思われる手紙だったが、私信というより報告書に近い。南方戦線の過酷さをありありと記したものであり、これがよく検閲を通ったものだと思うほど、彼自身の感情に忠実な文書だった。
――補給が少なくなって久しい。環境も悪く、病床に伏せるものが続出。
――俺は運良く生き延びているが、いつ同じ立場になるかと思うと気が気ではない。
――現在、カメリアと交戦中。砲撃を受け、下士官ら数名死亡。小官も被弾するが、懐中時計により命拾い。今一生分の運を使い果たす。
――作戦が悪い。装備も悪い。できることなら三笠大尉の指示を仰ぎたい。
――また顔面の横を銃弾が通過した
――お前と会って話したかったのに
――生きた人間がほとんどいない
――もう生きては帰れん
――しにたくはない
――野球したい
――約束、ごめん
――お前が空で戦って得た島は、必ず護りき――
戦闘の最中に書いたのだろう、後半へ進むに連れて文字が崩れ、滅裂だった。血痕も目立つ。こんなもの書いてる暇があるなら逃げろよ、馬鹿。涙ぐんで恨んでみるけれど、本当は分かっている。逃げられないのだ。八方塞がりで退路を断たれているのではなくて、精神的に拘束されているといった方が正しいだろう。
戦えば敵に殺され、逃げれば味方に殺される。逃げることは国に背くことであり、背けば生を許されない。今思えば、あの洗脳まがいの教育は救済措置だったのかもしれない。
あれに猜疑を抱き、馴染みきれないのを必死に隠すのは苦行以外の何物でもない。いつボロを出してしまうかと生きた心地がせず、それに耐えかねて逃げようとした奴はみんな消えた。一時的に駐留した南方の島にもそんな奴がいたが、すぐに捕らえられて密林に引きずり込まれて以来、一度も姿を見ていない。過酷な開拓班に回されたのか、処罰を受けた末に死んだのか。その後の彼がどうなったかは分からないが、在りし日の兄を重ねて胸が痛む。
兄は決して逃げなかったが、いつも傷だらけだった。師範学校では先輩からの《教育的指導》を、上海陸上戦隊では「同じ人間だから」という理由で澄華兵を極東兵と共に弔っただけで思い処罰を受けたそうだ。学生時代の帰省のときも酷いものだったが、上海から帰ってきた時は更に深い傷を負っていた。最前線で戦っていればまあ仕方ないか、と思っていたのだけれど、大半が身内から受けたものだと弓敦に聞いたときには寒気がした……。
「「うー……?」」
子供の声に現実に引き戻された武吉ははっとして顔を上げた。姪の
いま自分がすべきことは何か。武吉はそれが分からなくなり始めている。兄を殺したがっている国のために戦い、敵と言えど多くの人間を殺している現状に納得がいかなかったが、少年だった頃からの目的である「兄を護る」「革新の後押し」を成すには、これしか手段がなかった。身分は低く地位もなく、兄のように秀逸でもない自分が軍令部に入り込めるわけもない。傍に控えることは叶わず、戦地へ赴いて敵をねじ伏せ、兄たちが熟考できる時間を稼ぐことが精々だ。
本当の敵はすぐ近くに、同じ海軍内にいるというのに。傍に控えて盾になることすらままならない。それが歯がゆくてたまらなかったが、武吉にも航空機搭乗員としての矜持がある。
「実績を積めば……きっと……」
訓練を重ねて力をつけて、兄らが考案した戦略を実践して勝ち続ければ、「優秀な参謀」として彼らの評価も跳ね上がるだろう。そうなれば信頼も発言力も増して、革新に向けて行動しやすくなるに違いないと信じていた。
だとすれば、なんとしても勝ち抜かねば。武吉は自身に言い聞かせて無理に鼓舞し、戦う理由を強引に捻出する。これでまた、迷いなく空へ行ける……。
「零式艦上戦闘機、発艦!」
きゃっきゃとはしゃぐ子らを両脇に抱えて立ち上がり、畳の間を駆け回る。東京に戻ってからの感情の起伏は激しく、戦争を考えて気落ちしたかと思えば、戦争を思って気が昂ぶっているのを感じている。
情緒不安定か。どうかしている。姪と甥の笑顔をもってしても救われなかった心が、よもや戦争に救われるなんて。我ながら頭が可怪しいと思ったが、戦って実績を積めば良いという結論に達して心が晴れた事実は消えてくれない。
自分のために全てを諦め棄てた、兄に報いるためならなんだって。修羅や羅刹なんて物騒な二つ名だって甘んじて受けるし、その名に相応しい働きだってしてやる。二つ返事で引き受けた南方遠征を待ち遠しく思いながら、武吉は嘉乃と倖侑と共に、話し込む兄夫婦に向かって突撃した。
※
たった一日の帰省はあっという間だった。横須賀行きの列車に揺られながらそう思うのは、ほとんどの時間を移動に取られたからか、息をつく間もなかったからか。まともに国内に居られなかった約一年分の出来事を一気に吸収したことで、目まぐるしく変化したように感じる環境には未だに順応できていない。一甲の戦死だけはなんとか受け止められたが、それ以外はいまいちピンときていなかった。周りは順調に変化しているのに、自分だけが変われずにいる。ひとりだけ別の世界に飛ばされたような気分だ。
――いや、それはもとからか。誰とも混じり合えず、帳尻合わせのためだけに神経をすり減らしていた予科練時代を思い出して苦笑する。車窓から見た景色は異国のようで、ここが祖国とは思えなかった。武吉が《帰る場所》だと認識しているのは、実家と母艦のみだ。
追いつけないほどにいろんな事があったけれど、きちんと帰省しておいてよかったと思っている。一甲のおかげで戦争に向き合えた気がするし、昨晩に兄とじっくり対話したことで戦う意味がはっきりと見えてきた。生き死にさえ自分で決められないディストピアを打破しようと戦う背中を護り、心身ともに支えてゆく。それが武吉が、南方の最前線に立つにあたって決めた《生きる目的》だった。
その他にも家族や花江と交わした些細な約束も帰る理由になってしまって、結果的に残ったものはプラスになるものが多かった。まあ、花江が突きつけてきた約束は全く些細ではなくて、あまり守る気がなくて適当に受け流してしまったけれど。
「四月か……まだ先の話だな」
兄と交わした、約一年後の約束を思い出す。彼は来年の桜の時期までには戦争を終わらせるつもりで言ったのだろうが、果たしてそれまでこの身が持つかどうか……。一甲の件で「必ず」帰ることは難しいと認識してしまった分、その気はあっても確約できる自信がなかった。
けれど俺には、昨日と今日とで交わした約束がある。それさえあれば生きていけそうな気がしている武吉は、車窓から見える海を見て笑んだ。
明日の今頃、もう極東にはいないだろう。これから《南洋の羅刹》三笠武吉一等兵曹として、南方獲得戦の最前線であるラボールへと赴くのだ。無事にたどり着ける保証もないまま、剥き身に近い状態で輸送機・輸送船共々を防衛しながら戦場へ向かうのが、遠征最初の任務だった。
「……桐生のやつ、元気してるかな……」
生きていると、南方に行けば必ず会えると決め込んでいる桐生イリヤとの再会も待ち遠しい。不安や緊張よりも先に歓喜で浮かれている気持ちが湧き上がっており、到着までに落ち着かせろと自身に念を押す。珊瑚海海戦後は自分が失神してしまっていたせいでろくに会話もできなかったから、今度こそはと意気込んでいる。
――そうだ、次の帰省には彼も連れて行こう。そして皆で桜を……。彼の都合も考えずに勝手に決めて、武吉は満開の薄紅色と和気藹々とした空気を思い描いた。漠然とした希望と一抹の不安を抱え、どっちつかずのふわふわした気持ちでいるが、列車は着々と軍港へ向かっている。この遠征は愚挙か壮挙か。今の武吉には分からない。
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