第3話
少し空の色が違う気がする。散々見た青が鮮烈だったせいか、淡すぎる印象を持つ祖国の空を見上げて、三笠武吉はそう思った。湿度の高い、ぬるい空気が肌に纏わりつく。南方も随分と暑かったが、梅雨時期の蒸し暑さは不快さも相まって体に堪えた。それに加えて、満員電車の破壊力は半端ない。降車した時の解放感は無事に帰還したときの安堵感に勝り、空中戦の後よりも酷い気がする疲労感を抱えて家路についている。開戦以降初めての、およそ半年ぶりの帰郷だった。
あの珊瑚海海戦の顛末は、正直よく覚えていない。二日に渡る海戦では多くの犠牲者と損害を出し、自分と同じように飛び立った航空機と搭乗員は半数近く戻らなかったと聞く。武吉自身はそこそこ被弾したものの運良く生き延び帰還できたが、そのときの詳細を求められれば返答に困った。なんせ曖昧な記憶しかない。あの二日間は出撃、補給、出撃の繰り返しだったのだろうが、二度目の出撃以降の記憶が薄らぼんやりとしていて確証が持てない。
母艦が大破して滑走路が使い物にならなくなって、他の空母の世話になった後は寝台の上だ。どのような形で戦闘が終わったのかも知らなければ、どちらが勝ったのかも知らなかった。知っていることと言えば、桐生イリヤも無事に生き延びたということくらいだ。あれからまだ、会ってはいないけれど。
当初の目的だった港町モーズビーの獲得に成功していないこと、空母や軽空母の大破と搭乗員を多く喪ったことを考慮すれば引き分けあたりが妥当だと思う。大した収穫もなく、海戦前後で戦局に大きな動きもみられなかったけれど、駅で購入した新聞には『珊瑚海海戦大勝利』と書かれていた。圧倒的な戦力で連合軍の空母や補給艦を撃沈したのだと。連合軍は恐れをなして撤退したのだと。多くの搭乗員や乗組員が亡くなったことには触れもしない。やはり軍の息が掛かった報道機関なんて信用ならない。
報道機関もさることながら、極東国内の様子もすっかり様変わりしてしまった。以前から窮屈さは感じていたが、今はそんなもの比ではない。まだ特に目立った内地への攻撃がないはずなのに、まるで全員が最前線に立つ兵士のような目をしていた。どこもかしこも自粛自粛で経済や産業が活性化されている気配はなく、戦争のためだけに労働や生産をしているような感覚があり、言い知れぬ違和感に苛まれている。空母を降りた横須賀から此処までの間に見る景色がどれもそんなもんだから、段々と「もとからこうだったか」と錯覚してしまうほどだった。
――国産のもの以外は受け付けず、外来語は原則禁止。
――男子は軍人に、女子は看護師になり侵略戦争を支えることを推奨する。
――軍事国家として力を誇示し続けることこそ至高であり、その指揮を執って下さっている陛下に日々感謝し、敬愛せよ。
――国家繁栄のためには侵略戦争が不可欠であり、そのために命を散らすのは国民の本懐
――その命は個人のものではなく国家のものである。それらは全て繁栄のためにあり、主君に捧げるために在る。一分一秒と無駄にせず、その全てを、命さえも公に捧げよ。
その様に予科練時代の座学を思い出し、眉間にぎゅっと皺を寄せて固く目を閉じた。こんな馬鹿馬鹿しいことを改めて教わるのも嫌だったが、それを教えたのが
称壱とともに兼吉を支えるのだと意気込んだ矢先のことで、この裏切りとも言える彼の変わりぶりに出鼻を挫かれてしまった。人と深く付き合うことを放棄した原因はこれだ。どんなに好意的な態度を取っていても裏切るのだという現実を突きつけられれば、もう誰も信じられなかった。教壇に立つ称壱の、冷え冷えとした目を思い出す。途端に胸がむかついて、武吉は不快さを露わにして眉間に皺を寄せて歯噛みした。欠けて歪になった奥歯が、ガリと音を立てて削れる。
「あっ武吉くん、お帰りなさい! 元気してた?」
負の感情に心を荒立てた武吉の目前に勢い良く飛び出してきたのは、義姉の
「……」
余りのことに理解が追いつかず、武吉は絶句していた。多くを殺さねばならない戦争に加担する苦痛、他人との間に感じる分厚い壁への苦悩、最近本土にも空襲があったらしいという心配を全て吹き飛ばされた思いだ。これまでのことが馬鹿らしくなって、すっかり脱力してしまった。
「
呆然とする武吉をよそに、紗代子はあれこれ話し続けた。兼吉とのことや子供たちのこと、ご近所の派閥のこと、最近の流行りのこと。何気ない小さな出来事を矢継ぎ早に語り、飛び飛びでまとまりがない。もう少し纏めてから話せと思うのだが、すっかり興奮してハイテンションになった彼女にそれを言っても聞いてくれないだろう。お転婆で賑やかな人とは前から知っていたが、こうも変わらないと感心する。戦争の影響を一切受けていないように思える紗代子に安心感を覚えて、無意識に強く噛み締めていた奥歯を緩やかに解放した。
ここだけが別世界のようだ。戦争を感じさせない空気の緩さを見せつける紗代子に、武吉はそう思った。天真爛漫で純真無垢な、陽だまりのような人。これが世間で『稀代の戦略家』やら『不穏分子』やらと呼ばれる兄の妻だというのだから驚きだったが……いや、だからこそ彼女なのだろうと自己完結して納得した。
下からは絶大な支持を得ていても、上からは過激なまでに疎まれている兄は実質敵しかいないようなものだ。戦線に立っていないのに攻撃を受け続ける彼には安息の地が必要であり、それを作れるのはきっと紗代子だけなのだろう。そう言えば、自分が持ち続けている馴致不能気味な思想を知りながらも否定されたことがないと思い出し、武吉は義姉の偉大さを改めて実感していた。
非常に癪ではあるが認めざるをえない。彼女の声を聞いて以来、憑き物が落ちたというか肩の荷が下りたというか、いい具合に力を抜けていて気が楽だった。腕を引かれるままに玄関へ向かうと、二人の幼児がうずうずした様子でこちらを窺っていた。子供に馴染みのない武吉には、彼らが何を思い、感じているのかが分からない。
(ほとんど会わないし、きっと忘れられてるだろうなぁ……)
この半年間に散々見てきたものとは凡そ真逆の、和やかな雰囲気に何もかもがどうでもよくなる。久々に胸のあたりが暖かくなるのを感じ、こんな人間らしい、ささやかな幸福さえ忘れていたのか……と自身に呆れた。ふわと柔く苦笑した武吉は、いつの間にか失っていたらしい人間らしさをこの帰郷の間に取り戻すと決めて、深く息を吸った。先の珊瑚海海戦の戦果も、帰りの空母で『南方の最前線で戦わないか』と言われたことも、今だけは忘れてしまおうと思った。
※
やはり時代は、戦争を忘れさせてはくれなかった。休みなく詰め寄ってくる子供たちと遊ぶのは楽しかったが、それでも頭の中は戦争で一杯だった。武吉は昼間のことを思い出す。忘れてしまおうと思った矢先に届いた手紙は、今も最前線で休みなく戦う松本一甲からのものだった。いつもの近況報告とは様子が違う。差出人の欄には陸軍での所属部隊名を書いていたのに、今日のは実家の住所だし長距離を移動してきた汚れもない。
――退役したのか? 怪我や病気で? そう思いながら封を切ると、中には汚れた紙束と一枚の便箋、そして戦死公報が詰められていた。――松本一甲上等兵 四月二十七日、フィリピナスにて戦死――。正直意味がわからなかったが、公式な書類なのだからそういうこと、なのだ、ろう……? 小首を傾げて書類を眺めたあと、折りたたまれた便箋を開く。一甲の母親からだった。『これを武吉くんに届けて欲しいというのが、届けてくれた兵隊さんの願いでした』。そう書かれていた。
紙束を開いた途端に現実味を帯びてしまって、弾かれるように全力で駆け出した。昔よく通った松本家は見慣れているはずなのに、招き入れられた室内には違和感がある。原因はあれだ、仏壇に祀られている真新しい遺影。
『……一甲』
どうか誤報であってくれと願っていたが、これが真実なのだと現実が責める。じゃあ、あの手紙を読んでいた頃には一甲はすでに。以外とすんなり受け止めた武吉は、ぼやっとした表情で遺影を見上げていた。無念がどうこうよりも、ただ単純に寂しかった。
手紙を交わす度に「また会おうな」「また皆で野球しようぜ」なんて言っていて、それは当然叶うものだと決め込んで期待していた分、落胆は大きかった。更に武吉を沈み込ませたのは、一甲の母親から聞いた同級生たちの状況だ。成人した彼らのほとんどが開戦と同時に出征し、僅か半年のうちに過半数が戦死したそうだ。海軍航空隊員として戦場に出ずっぱりだった武吉にはその報せも届けられず、申し訳なかったと泣いていた。
謝る必要はない、貴女もさぞ無念でしょう。そう宥めて戦死公報も返還した。だが彼女は、俯いて啜り泣きながらも受け取ろうとしない。事情を察した妹の
『どうした、お前の兄貴が果敢に戦ったのだと示す数少ない公文書だぞ』
『……そうなんだけど』
お前も受け止めたくない口か? と問うと、花江は首を横に振る。
『お兄は、いつか武吉くんと一緒に戦いたいって言ってた。だから、これを持って武吉くんがお空に行けば、お兄も一緒に戦えるんじゃないかって。そうしたら願いを叶えられるって……でも、私はこれを持っていたい。回収できないお兄の体の代わりに、仏壇にお祀りしたい。だけど……私が持ってて良いのかなあ……』
しっかりした口調で気丈に話していたけれど、最後はやはり、母親と同じように啜り泣いていた。海の向こうで戦死したら、大抵の場合、骨さえ帰ってこない。作戦中に煙を立てるわけにはいかないと火葬すること自体少なく、焼いたとしても大勢まとめて焼くから骨の分別ができないのだと、かつて上海の陸上戦隊に所属していた兄が言っていた。
『良いに決まってる。しっかり祀ってやってくれ。間に合わせの遺影と中身の詰まっていない桐の箱だけでは虚しいだろう』
そう言って笑んでやると、堪えきれなくなったのか花江は号泣した。勢い良く武吉の胸に飛び込み、顔を埋めて泣きじゃくる花江を見て、改めて一甲の死を実感する。心の拠り所をひとつ失い、ただでさえ狭い足場が、がらがらと崩れていく。一歩踏み出した先は底が見えないほど深い崖。これが全て崩れてしまったら、俺はどうなってしまうのだろう。漠然とした不安を僅かに感じながら、縋り付く花江の背中を撫でて宥め続けた。
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