「いずみさあん、エールって言ってるんじゃない?」
すわコスプレ押し込み強盗か、とおれは腰を浮かせかけたものだが、いずみさんが平然とお辞儀をキめて席を促すとコスプレおじさんは物騒なモノを仕舞っておとなしくカウンターの向こう端の席に着き、いずみさんから手渡されたおしぼりで手を拭いている。二枚目をもらって、顔も拭く。おお、と感に堪えないといった風の溜め息を吐く。
うーん、でもやっぱりいいのかな、警察とか呼ばなくていいの、警察? さっきこの人刃物ちらつかせてたよね? いいの? この店そういうのアリなの? ねえ、いずみさん、ちょっと、ねえ? というおれの内心をよそにいずみさんはおじさんに注文を尋ね、おじさんがなんやかんや返す。
……うーん、なに言ってるんだかぜんぜんわからん。
やっぱり外人さんみたいだ。
それもなんだか耳慣れない響きの言葉だ。
英語とかではないっぽい。いや、おれ英語もせいぜいハローサンキューてなもんだけど。
ドイツ語? とか、そのへんじゃない? いや、おれドイツ語わかんないけど。第二外国語フランス語だったし。まあ、それも忘却の彼方だけど。
でもそれでいえばフランス語じゃないんじゃない? じゃないっぽい。じゃないんじゃないかな?
おれが聞き耳だけ立てていると、いずみさんもわかってるんだかわかってないんだかよくわかんないけど黙っておじさんの話を聞いている。
すると、おじさんがそれまでよりもちょっと強い調子で、二回、同じ単語を繰り返した気がする。なにか注文した雰囲気。
「かしこまりました」
いずみさんもそう答えて、カウンターの中をこっちのほうに戻ってくる。
おお、いずみさんわかってたんだ……さすがだな……。
「恩田さん」
「えっ」
おれ?
「ひょっとしてなんですが、あちらのお客様がなんと仰っていたのかおわかりになったりはしませんか」
「えっ」
いずみさん、わかってなかったのおー? 感心して損したわ。
ええー、でもさっきいずみさん、かしこまりました、って言ってたじゃあん。かしこまれてないじゃん、それ。どうなの? 接客として、どうなの?
「わたし、外国語はからきしでして」
いい笑顔でいずみさんが言う。
そっかー、だめかあー。まあ、ひとにはできることとできないことあるからね、しょうがないよね。
いや、でも、そういえば……。
「もしかして、エールって言ってたんじゃない?」
「エール、ですか」
最後の単語繰り返してたとこが、そういえばそんな風に聞こえた気がする。
「困りましたね」
いずみさんが顎先に指を添えて、思案気に言う。
「うち、エールビールは仕入れてないんですよねえ……」
いずみさんがなぜかしみじみとした調子で呟く。
「だよねえ……」
おれもなぜかしみじみとした調子で返す。
エール。だれもが聞いたことはあるけれどべつに飲んだことはなかったりするメジャーなんだかマイナーなんだかよくわからない酒・オブ・ザ・酒である。
元々のエールはホップ――ビールの苦みや香りのもとになる植物――防腐作用とかもあるらしい――を入れない醸造酒のことを言ったらしいのだけれど、いまではビールの中の常温で発酵させるスタイルで造られたビールのことを、エールと呼んでいる。
そもそも冷蔵技術が発達する以前は常温で造るしかなかったのだから、いわば古式ゆかしい製法で造られたビール本来のビールがエールビールなのである。
エール、と注文されたら、まあ、エールビールのことだと考えるのがふつうだろう。
ただ問題は、日本ではいまいち主流ではないということである。
日本でビールと言えば低温で醸造するラガーなのである。
ぶっちゃけおれもラガーのほうが好きだし。なんだかんだアサヒスーパードライとかが好き。
ともかくエールタイプのビールはバーでもどこにも置いてあるというもんでもない。
「ああ、そういえば」
だが、いずみさんはふとなにか思い出した風に言う。
「もう少々お待ちくださいませ」
おじさんのほうにとりあえずの会釈をすると、カーテンで仕切られた厨房のほうに引っ込む。ぱたぱたと冷蔵庫を開け閉めする音がして、手に暗い青色の缶を提げたいずみさんが戻ってくる。
「一本だけありました」
暗青色の地に白で記号的に描かれた、鬼が笑うラベル。いずみさんがひょっこり持ってきたのは、インドの青鬼の350ml缶である。
「いや、いいの?」
IPAじゃん、それ。
「
ええー、そういう問題かなあ?
IPAはエールビールの中でも個性的な風味がウリの種類だ。
エールタイプ独特のフルーティーな香りも強いが、同時に苦みも強い。というか、いろいろ振り切ってる感じに、強烈に苦い。
インディアとは言うがべつにインドで造ってるわけではなく、昔イギリスからインドのほう――東インド会社とか――なんかそういう――そのへんの――アレだ――多分――に船で輸送するのに、保存性を高めるためホップをしこたまぶちこんでビールを作ってみたらわりとおいしかったとかそういう酒である。まあ、お酒にはわりとそういう瓢箪からコマみたいな話がわりと多い。
というか、インドの青鬼なんて仕入れてたの?
インドの青鬼は、ラガー主流の日本にあってエール製造に力を入れている奇特なメーカーが出しているIPAで、やはりべつにインドで造られているわけではない。最近コンビニとかでも見かけるようになってきたけど、店で飲むイメージはない。
「自分用です」
自分用かよ。
「今日の晩酌はなしですねえ……」
と、残念そうにいずみさんが言う。
でも、どうなの、エール頼まれてIPA出すのって? なんか違くない?
エールって頼んでIPA出てきたら、うっわ、にっが、なにこれ、にっが、ってなると思うよ?
おれも苦手だし。おれはやっぱりアサヒスーパードライとかがふつうに好き。
「まあ、お出ししてみましょう」
しかし、いずみさんは果断に背後のキャビネットから広口のワイングラスを取り出し、かきょっ、とタブを開けると注ぎ始める。
まずしっかり泡を立てるように一気に注ぎ、一旦泡が落ち着くのを待って、細かい泡の層を持ち上げるように静かに注いでいく。
深いアンバーの液とクリーミーな白い泡とが7:3の端正なコントラストがあっという間にできあがる。
うーん、サーバーで注ぐならなんかまだわかるんだけど、ふつうの缶ビールもバーテンダーさんが注ぐとへたらない見事な泡ができるのが毎度なんかの魔法でも見てるような気分になる。
真似して家でやってみるんだけどすぐへたっちゃうんだよね、泡。
そういうようなことを以前いずみさんに伝えてみると、わたしもこれでお代を頂いておりますので、と若干のドヤ顔をキめられたことがある。
いずみさんは完成した一杯を丁重な手つきで持ち上げると、おじさんのほうに向かい、コースターの手前にすっと下ろした。
「お待たせしました」
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