迷宮探索者ガンスの困惑・2
ガンスは困惑する。
勢いで注文してしまったはいいが、店員の女はカウンターの向こう端のほうで客の男となにやら怪訝なやりとりをしている。
“――”
それを取り繕うように、女がガンスのほうにちらりと視線を向けて微笑み、奥のカーテンで仕切られた部屋に引っ込む。すぐに手になにか短い筒状の物体を提げて戻ってくる。表面は暗い青色で、白い模様が見える。
女はそれを手に男とまたなにやら会話していが、じきに話がついたのか、カウンターの陰に置く。次いで背後に向き直ると、酒棚の下から――どうやら造りつけの戸棚になっているようだ――杯を取り出す。
ガンスは困惑する。
女がカウンターに置く杯は、薄い台から極細の脚がすっと立ち上がり、ふくよかに丸まった胴を支えているという、おそろしく精巧な造りのものだった。
さらにおそろしいことには、向こうの景色が透けて見える。
硝子である。
それも完璧に曇りなく透明な品である。
あれでおれに酒を飲ませようというのか?
もしもなにかあればガンスの稼ぎが数ヶ月、いや、年単位で吹き飛ぶような代物である。
よく見れば女がその杯を取り出した棚の引戸も透明な硝子の一枚板で、中にぎっしりと種々の杯が整列しているのが見える。そのどれもが完璧に透明なグラスだ。目が眩む。
ガンスの馴染みの店屋と言えば、酒杯は黴じみた丸彫りの木製か、よくて素焼きのマグである。ガンスはそういうものでしか酒を飲んだことがない。
正気か? この女?
しかし、混乱するガンスをよそに女はやはり落ち着き払った態度で、カウンターの陰から例の謎の筒をふたたび持ち上げる。
女が筒の天面からなにかを摘み上げるような仕草をすると、ぷしゅっ、とガスが噴き出す音がした。
慎重な手つきで女が杯の上に筒を傾けると、そこからとくとくと液体が注がれ、濃密な白い泡がゆったりとしたグラスの中で渦巻く。
ガンスは困惑する。
ガンスはエールを頼んだはずなのだが、あんなに濃い泡を立てるエールをガンスは見たことがない。
グラスの半ばまで液を注いだところで女は一旦動作を切り、筒の傾きを戻すと泡の様子が落ち着くのを待つ風だ。泡が落ち着いたところで、ふたたび慎重に残りの液を注ぎ足していく。
女が筒の中の液を最後の一滴まで注ぎ終えると、たしかにグラスの中にはエールの深い琥珀の色が見えた。だがその上にたっぷりと白い泡の層ができている眺めは、ガンスがこれまでに見たことのないものだ。
ガンスは困惑する。
女はすっとグラスの細い脚へ五本の指をしなやかに添えると、精密な動きで持ち上げ、こちらに運んでくる。
“――”
一言添えながら、恭しくガンスの前に差し出す。
きらきらと輝く琥珀色の液の上に、
なんだか思っていたのとちがう。
ガンスは困惑する。
途方に暮れて女を見やると、女は控えめな礼を取って、しずしずとまたカウンターの向こう端のほうに行ってしまった。低声で男と話しながら、洗い物を片付けたりなどし始める。
しばらくガンスはきょろきょろとその様子や棚に並んだ様々な壜――背の高いの、低いの、しゅっとしたの、ずんぐりしたの、黒、緑、透明――ほんとうに色々だ――を眺めたり、濡れ布巾をふたたび弄んだり――やはりしっとりとして心地よい手触りだ――していたが、覚悟を決めてグラスに向き直った。
注がれた酒はまだ琥珀色が七、白色が三ぐらいの端正な姿を保っていた。
杯の縁からこんもりと、不思議な弾力で泡が盛り上がっている。
グラスはやはり完璧な硝子製で、信じられないほど薄手の、繊細な造りだった。飾り気はないが、それが素材と造形の美しさを際立たせている。
おそるおそる、ガンスはその胴の膨らみにそっと両手を添え――汲み上げたばかりの井戸水のように冷たい――捧げ持つように取り上げた。
ええい! と、一口ぐびりと呷り――
しまった!! と思った。
毒を盛られた!!
口の中にぶわっと強烈な苦味が広がる。
それを思わず噴き出してしまったり、両手で支えた杯を投げ捨てたりしなかったのは、ガンスの最大の自制心だった。
ガンスは
やはりここは迷宮の中に仕掛けられた古の魔導帝国時代の侵入者用の罠のようなもので、このふたりもそれに属する人知を超えた存在で、女の恭しい態度もおれをはめるための罠で、やはりおれなんかが入っていい所ではなかったのだ。
だが、ガンスはふと我に返る。
この鼻のほうへと抜ける香りは、どうだろう。
気づけば
思い切って口の中の液体を飲み下すと、強い苦味が喉の奥にへばりつくようにしながら滑り落ちていくが、思えばそれもけして嫌な味わいではない。
そして、鼻にさきほどの香りがふわっと抜けていく。
よく熟した果実、豊かな穀物の実り、草原を渡ってきた風。
たまらずもう一口啜ると、やはり苦い、しかし、旨い。
これはエールだ。
素晴らしく上等な、エールだ。
ガンスが無心に杯の中身を味わっていると、いつのまにかガンスの前に戻ってきていた女が、カウンターの上についと小皿を突き出す。
陶器の丸皿――飾り気はないがやはりまっさらに白い見事な陶器で、しかし、これぐらいではあまり驚かなくなっている自分にガンスはむしろ驚く――の上に、小さな楕円形の欠片が二枚。なにかねっとりした白いものがかかって、かすかにふつふつと泡立っている。
薄く切ったパンにチーズを乗せて焼いたもののようだ。
ちょっとしたつまみ、ということなのだろうか。
ガンスが怪訝に女を見返すと、女は軽く会釈をしてさりげないやり方で距離を取る。また洗い物を始める。男のほうはほおっておかれて暇になったのか、カウンターに頬杖を突きながらどこかから取り出した小版の本を読んでいる――やはり学者なのだろうか?
それはともかく目の前の小皿だった。
もう一口、杯の中身を舐めると――やはり、苦い、が、その奥にずっしりと旨味がある。それを爽やかな香気が包んでいる――ガンスは皿の上から欠片をひとつ摘み上げる。
一口齧ると、熱い。だが、おいしい。
パンは表面がカリッと焼かれていて、中はふわふわもちもちしている。驚くべきことに齧った断面は真っ白で、混じりけの無い小麦のパンだ。硬い黒パンが常食のガンスは感動する。
そしてとろとろに溶けたチーズの塩気と旨味が、パンの素朴だが上質な味に絡みつく。
一切目は二口でガンスの胃袋に入った。
思わず二切目も一気に食べきってしまい、杯を呷ると、また苦味が引き立つ。
はぁーっ、と堪らず溜め息を吐くと、ガンスはいつの間にかもうすっかり、ほろ酔いのゆったりくつろいだ気分になっているのに気づく。
杯はまだ半分空けたぐらいで、泡の筋が縞模様になってグラスに残っている。
ガンスはあまり酒に弱くない性質だし、これぐらいの量で心地よい酩酊が頭のドアをノックしているのが不思議だったが、生まれてはじめて飲む良い酒のせいだということは想像に難くなかった。
それに、この部屋の雰囲気だ。
吊り下げられた裸電球の控えめな明かり。
それに照らされた調度は華美ではないが、上質で手入れが行き届いている。
熱すぎもせず、寒すぎもしない室温――ラトーア窟は地熱の影響で息詰まる暑気が篭っているはずなのだが、なぜかこの部屋は適度な温度に保たれている。
どこからともなく微かに響いてくる音楽は、耳馴染みのない複雑な旋律を持っているが、不快ではない。
時間そのものがゆったりと澱んだような感覚。
なるほど酒を飲むならこういう場所がいい。
ガンスは常連の酒場の野卑な喧騒も好きだが、そこでは酒の味は顧みられない。
ガンスは残りの半分をゆっくりゆっくりと飲んだ。
ふぅーっ、と溜め息とともに最後の芳香が鼻を抜けていくのを名残惜しく感じながら、そっとグラスをカウンターに置く。
もうなくなってしまった。
「なあ」
呼びかけると、女は男との雑談を切り上げてガンスの前に立つ。
「もう一杯、おなじの頼めねえか?」
ガンスがグラスと、カウンターの陰においてあるはずの、この旨いエールが入っていた筒のほうを交互に指差すと、女は少し困ったような微笑を浮かべた。申し訳なさそうに頭を下げる。
“――、――”
女の言葉はやはりガンスにはわからないが、断られているようだ。
ガンスが憮然としていると、女がカウンターの陰から例の筒を取り上げて、手元で軽く振る。音はなにもしない。
女が筒をカウンターの陰に戻して、両の人差し指でちいさく×印をつくる。また軽く頭を下げる。
仕草の意味はガンスにはよくわからないが、もうない、ということなのだろう。
そうか、これが最後の一杯だったのか……。ガンスは心底残念な気持ちになる。ならばもっともっと味わって飲むべきだった。
“――、――”
しかし、ガンスが空になったグラスにせつない視線を送っていると、また女がなにごとか言う。
ガンスに改めて会釈を残して、カウンターの中を動き始める。
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