迷宮探索者ガンスの困惑・1

 ガンスは困惑する。

 酒場である。迷宮の中に、酒場がある。

 なにがなんだかよくわからないが、そうとしか言えない。

 ガンスはたしかについさっきまで、岩肌の剥き出したラトーア大迷窟の内部を駆けてきたはずだ。

 うっかり迷宮蟻の群れを怒らせ――ガンスのような迷宮探索者にとってもっともやってはならないことのひとつだった――必死に逃げていたのである。それもついに袋小路に入り込んでしまい、いよいよ進退窮まったところだった。

 そのとき、ガンスの目に奇妙なものが映り込んだ。

 どん詰まりの脇手の壁に、周りのごつごつとした岩肌とはあきらかに異なる質感の部分がある。しかもガンスの体がすっぽり収まるくらいのきれいな長方形をしていて、そこだけでこぼこの無い滑らかな面が覗いている。

 腰に提げたランタンの光に、ニスを塗られた木の風合いがぼんやりと浮かび上がる。よく見ると質素ながら一面に装飾の溝が切られていて、片側に同じ材の把手までついている。

 しっかりとした造りのドアが、岩壁にはめ込まれているのだ。

 ガンスは困惑する。

 しかし、悩んでいる時間はもうなかった。

 ぎちぎちざかざかという迷宮蟻のざわめきが、もはやすぐ背後にまで迫っている。

 ガンスが意を決して把手を握り、ぐいと押し込むと、ドアはすんなりと内側に向けて開いた。それも思ったよりもはるかに軽い手応えで、ガンスはたたらを踏んで中に飛び込んだ。あやうく踏みとどまったガンスの背後でひとりでにばたんとドアが閉じる。

 そして目を上げると、酒場としか言えない空間が広がっていた。

 しかもガンスが常連にしているような場末の店なんかよりもはるかに上等な部類だ。こじんまりとした店構えだが、行き届いた調度をしている。

 カウンターは磨き抜かれてしっとりとした輝きを帯びた一枚板だし、その前に並んだ丸椅子は簡素な造りだが、座面は黒い革張りのようだ。向かいの壁は一面に棚が作りつけられ、さまざまな色と形とラベルの壜がぎっしりと並べられている。

 それらが、魔石の淡い紫の光でも、迷宮探索者協会ギルドが敷設した魔力灯の白い光でもない、控えめな暖色の明かりで照らされている。

 椅子の並びを追っていくと――数えて八つ。空いたフロアのスペースには四人掛けほどのテーブル席まで設けられている――カウンター席の一番奥の端に男がひとり腰掛けている。カウンターを挟んだその向かいに、店員らしき人物――こちらはおそらく女だろう――がひとり。

 女だろう、というのは、その人物が黒髪を後ろにひっ詰めただけの飾り気のない髪型をしていたからだ。服装も黒いベストに白いシャツを合わせただけのシンプルなもので、商売女の雰囲気がない。顔立ちもここら辺りでは見慣れない感じで、どこかのっぺりとして彫の浅い造りをしている。切れ長の目は感情が読めない。性別や年の頃がいまひとつはっきりしない風采だった。しかし、唇にはうっすら紅を引いているようだし、そこがかろうじて女性らしいと言えば女性らしい。

 客らしい男のほうもなんだか見慣れない風貌で、やはり凹凸の少ない面立ちに、縮れた黒髪、無精髭を生やしている。黒縁の眼鏡などかけているのは学者風だが、ガンスが見たこともない怪しげな柄の入った上衣を着ていて、どこか奇態な感じがする。

 ガンスがついじろじろと観察してしまっていると、目のあった男のほうが、しまった、といった風にあわてて目を逸らすと、カウンターの向こうの女になにやら聞いたことのない言葉で二言三言なにやら言う。


“――、――”


 やはり、ガンスのような者が入り込んだことを咎められるのだろうか。ガンスが緊張に身を固くしていると、カウンターの向こうの女がまっすぐこちらのほうに向き直る。


“――”


 そしてやはりガンスには聞き取れない言葉で何事か呼びかけながら、しかし、たしかに微笑みを浮かべて頭を下げた。

 呆気に取られるガンスをよそに、姿勢を戻した女が、平手ですっと席を示すように宙をなぞる。またもガンスには聞き取れない言葉で何事か言う。


“――”


 もしかして、座れと言われているのだろうか。

 すくなくとも、歓迎されていないのではないらしい。

 ふと自分が抜き身の得物を提げたままなことに思い至ると、ガンスは気まずい思いでそれを鞘に収める。

 おそるおそる一番手前の椅子に腰掛けると、やはり革張りで、しっかり尻の落ち着く弾力がある。

 そうこうしているうちに、こちらに歩み寄った女が、カウンター越しに恭しい態度でなにか差し出してくる。

 思わず両手を出して受け取ると、温かい。柔らかく、そして、湿っている。

 蒸した濡布巾――それもまっさらに白く、毛羽立った、上等な布地だ。

 それがガンスの両手に広げるように置かれている。

 ガンスは困惑する。

 今まで触れたこともないような高級そうな布が、ガンスの土埃まみれの両手にかけられている。

 これでいったい自分に何をしろと言うのか。

 ガンスが戸惑いきっていると、女は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ガンスを見返している。

 なにやら両手を揉むような仕草をする。

 釣られてガンスが布巾で両手を拭うと、真っ白だったそれはあっという間に土汚れで真っ黒になってしまった。

 取り返しのつかないことをしてしまった気がして、ガンスは青くなる。しかし、それでも女は動じない様子で、汚れ切った布巾をさりげない仕草でガンスの手から回収すると、もう一枚の布巾を広げながら差し出してきすらする。

 自然と受け取り、たまらず顔を拭うと、やはり温かく、湿っていて、柔らかい。ここちよい。思わず、おお、と溜め息が出る。

 当然ながら汚れ切ってしまった二枚目も当然のごとく回収され、当然のように三枚目の濡布巾がガンスに手渡される。

 ガンスはそれをなんとなく両手で弄ぶと、なんとなくきれいに畳んで手元に置く。

 その目の前に、なにやら黒い方形のものがすっと差し出された。


“――”


 革を四角くったもののようだ。

 それをガンスの前に置きながら、女がやはり聞き慣れない言葉で何事か問いかける。

 ちらりと男のほうを窺うと、素知らぬ風で自分の杯をあおっている。

 ガンスはなんだか、空恐ろしい気持ちになってくる。

 迷宮には、古の魔導帝国時代の遺物も多く埋まっている。この扉や、この空間や、このふたりも、それに類する触れてはならない存在なのではないか、という直感がはしった。

 気づけば、もうすぐそこまで迫っていたはずの迷宮蟻のざわめきも、まったく聞こえない。

 どこからか、聞き慣れない調子の、だが耳心地のいい歌声と、楽器の調べが響いていた。

「なあ、あんたら、いったいなんなんだ?」

 ガンスは思い切って女に尋ねる。

「おれもそれなり長いが、ラトーア窟にこんな場所があるなんて、噂も聞いたことがねえ」

 女は静かな微笑みを湛えたままだ。

「なあ、おれは夢でも見てんのか?」

 女が背後の棚を示すように、すっと宙をなぞる。ガンスに向き直り、にこりと微笑む。

 ともかく注文を選べ。そう言うのか。

 そうされると、ガンスもなんだか、はらが据わった。

 カウンターに叩き置くように、ガンスは注文を述べる。

「エールだ! エールを出せ!」

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